17.特別な存在
翌日。
黒羽家の朝は、いつものように始まった。
「皆様、おはようございます」
凛の明るい声に、リビングへ集まった五兄弟が一斉に振り向く。
「おはよう!」
太音が柔らかく笑い返す。
「おはよう」
玖音も静かに席へ着いた。
「今日もええ匂いや!」
紫音は嬉しそうに鼻を鳴らす。
「……おはよう」
奏音が小さく微笑み、
玲音も眠そうな表情のまま、
「ふぁ……おはよう」
と短く返事をした。
いつもと変わらない朝。
そう見えて、変わり始めているものがあった。
五人の視線だ。
気づけば誰もが、無意識に凛を目で追っていた。
食卓を整える姿。
味噌汁をよそう姿。
優しく笑う横顔。
ほんの少し目が合うだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
そんな自分たちに、まだ誰も気づいていない。
***
朝食を終えた後。
凛は食器を片付けようと立ち上がる。
すると、
「それ、俺が運ぶよ」
太音が自然に皿を受け取った。
「えっ?」
凛は驚いて目を丸くする。
「太音さん、これは私の仕事ですから……」
「仕事なのは分かってる」
太音は優しく笑った。
「でも、凛にばかり頑張らせるのは嫌なんだ」
「少しくらい頼ってよ」
その言葉に、凛は一瞬だけ目を丸くする。
「……ありがとうございます」
照れたように笑う凛。
その笑顔を見た太音は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
その姿を見た紫音が口を開く。
「じゃあ俺はテーブル拭くわ!」
「紫音さんまで?」
「ええやん。みんなでやった方が早いし!」
玖音は黙って食器を重ね始める。
奏音は湯飲みを運び、
玲音は無言でゴミをまとめ始めた。
「えっ……えっ?」
凛だけが戸惑っている。
「皆様、本当に大丈夫ですから!」
「俺たちがやりたいだけ」
太音が笑う。
「凛はいつも俺たちのために動いてくれるだろ?」
「だから今日は、俺たちにも凛のために動かせて」
その言葉に、凛は何も言えなくなった。
「……ありがとうございます」
嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、五人も自然と笑みを浮かべた。
***
昼前。
リビングで仕事をしていた玖音が、小さくため息をつく。
「コーヒーでも淹れようかな」
立ち上がろうとした、その時。
「玖音さん」
凛が湯気の立つカップを差し出した。
「お疲れかと思って」
玖音は目を見開く。
「……どうして分かった?」
「少しだけ、お疲れのお顔をされていましたから」
優しい笑顔。
それだけだった。
それだけなのに、胸が少しだけ熱くなる。
「……ありがとう」
珍しく素直に礼を言う玖音を見て、
紫音が思わず吹き出した。
「玖音、顔真っ赤やで」
「うるさい」
「図星や!」
「違う」
否定する声が、少しだけ弱い。
***
午後。
奏音はピアノの前に座っていた。
鍵盤へ指を置く。
自然と浮かんできた旋律は、どこか優しく温かい。
「……これ」
自分でも不思議だった。
いつもなら壮大な曲ばかり書いていた。
けれど今日は違う。
思い浮かぶのは、エプロン姿で笑う凛の姿。
「……困ったな」
思わず苦笑する。
その時だった。
コンコン。
「奏音さん、お紅茶をお持ちしました」
凛だった。
「ありがとうございます」
カップを置くと、
「素敵な曲ですね」
と微笑む。
「……まだ途中」
「でも、とても優しい音です」
その一言だけで、奏音の鼓動は少しだけ速くなった。
***
夕方。
玲音は自室でゲーム制作を続けていた。
夢中になるあまり、気づけば夕食の時間を過ぎている。
すると扉がノックされた。
「玲音さん」
「夕食をご用意しております」
凛の声だった。
「あと十分だけ」
「駄目です」
いつもより少しだけ強い口調。
「お身体が一番大切です」
玲音は画面を見つめたまま、小さく笑った。
「……分かった」
素直にパソコンの電源を落とす。
そんな自分に、一番驚いていた。
***
夜。
兄弟たちは、それぞれ自室へ戻っていた。
けれど、誰一人として眠れない。
太音は天井を見つめながら呟く。
「最近、凛のことばっかり考えてるな……」
玖音は読みかけの論文を閉じた。
文字が頭へ入ってこない。
紫音はスマートフォンを眺めながら笑う。
「重症やなぁ、俺」
奏音は今日作った曲を何度も弾き直していた。
玲音はゲームの画面を開いたまま、ぼんやりと窓の外を見る。
誰も口にはしない。
けれど、胸の奥に芽生えた想いは、昨日よりも確かに大きくなっていた。
その頃――。
凛は何も知らず、自室で祖母・紫乃から譲り受けた古いレシピ帳を眺めていた。
「明日は皆様に何を作りましょうか」
嬉しそうに微笑む。
その笑顔を思い浮かべながら眠りにつく者が、この家には五人もいることを。
凛だけは、まだ知らなかった。
五人が同じ笑顔に心を奪われ、
同じ人を好きになり始めていることを。
そして――
その恋が、兄弟である彼らの関係さえ少しずつ変えていくことも。
まだ誰も、その想いを口にはしない。
けれど、恋は待ってはくれない。
近くにいるからこそ募る想い。
一緒に過ごす時間が長くなるほど、心はもう隠せなくなっていく。
誰よりも先に、その手を伸ばすのは誰なのか。
誰よりも先に、「好き」という想いに気づくのは誰なのか。
五人の恋は、静かに、しかし確実に動き始めていた。




