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16.守りたい人

朝。


黒羽家には、いつもと変わらない穏やかな空気が流れていた。


キッチンでは凛が朝食の支度をしている。


炊きたてのご飯。


焼き鮭。


ふんわりとしただし巻き卵。


湯気の立つ味噌汁。


「皆様、おはようございます」


明るい声がリビングに響く。


「おはよう」


太音が笑顔で席に着く。


続いて玖音、紫音、奏音、玲音もリビングへ集まった。


昨日までと何も変わらない朝。


そう思っていたのは、凛だけだった。


***


朝食を終えた頃。


執事長が静かにリビングへ入ってくる。


「失礼いたします」


「皆様へ、ご報告がございます」


その表情はいつもより真剣だった。


「昨夜のパーティー以降、黒羽家には多数のお問い合わせが届いております」


太音が静かに頷く。


「やっぱりか」


「内容は、ほとんどが凛さんについてです」


リビングが静まり返った。


「テレビ局、出版社、モデル事務所、映画会社……。皆様、『あの女性を紹介してほしい』とのことです」


紫音が苦笑する。


「行動、早すぎやろ……」


玖音は腕を組んだ。


「すべて断ってください」


「かしこまりました」


執事長は深く一礼する。


「また、黒羽家周辺にも報道関係者の姿が確認されております」


その言葉に、玲音の表情がわずかに険しくなった。


「……迷惑」


奏音も静かに呟く。


「……凛さんが困る」


その時だった。


キッチンから凛が顔を出す。


「皆様、食後のコーヒーをお持ちしました」


何も知らない笑顔。


その笑顔を見た五人は、この話題をそこで終えた。


「ありがとう」


太音は普段通りに微笑む。


凛も安心したように笑い返した。


***


朝食の後。


凛はメモ帳を手に玄関へ向かう。


「それでは、Cloverフードマーケットへ行ってまいります」


黒羽家で使用する食材は、株式会社Cloverが運営する高級食材専門店から毎日届けられる。


だが、週に一度だけは、凛自身が店へ足を運び、その日の食材を見て献立を考えていた。


「今日は旬のお野菜も見てきますね」


そう微笑んだ瞬間だった。


「待って」


玖音が声をかける。


「今日は一人で行くな」


「え?」


凛は不思議そうに振り返る。


「どうしてですか?」


玖音は一瞬だけ言葉に詰まった。


本当の理由は話せない。


すると太音が自然に笑う。


「俺も今日は食材を見てみたいんだ。一緒に行こう」


「俺も行く!」


紫音が勢いよく立ち上がる。


「久しぶりに買い物したい!」


「……僕も」


奏音も静かに席を立つ。


玲音も無言で上着を羽織った。


「……行く」


凛は目を丸くする。


「皆様、お忙しいのではありませんか?」


「少しくらい息抜きも必要だから」


太音が優しく笑う。


「……そういうことでしたら」


凛も嬉しそうに微笑んだ。


「皆様とご一緒できるなんて、楽しみです」


その笑顔に、五人の表情も自然と和らいだ。


***


黒羽家の専用車は、株式会社Clover本社ビルへ到着した。


高層ビルの一階には、会員制高級フードマーケット『Clover Premium Market』がある。


世界中から厳選された食材だけが並ぶ特別な場所だった。


車が到着すると、支配人をはじめスタッフが一斉に頭を下げる。


「太音様、玖音様、紫音様、奏音様、玲音様。本日はご来店ありがとうございます」


そして最後に、穏やかな笑みを浮かべて凛へ向き直った。


「凛様、本日もお待ちしておりました」


「いつもご利用いただき、ありがとうございます」


「こちらこそ、いつも新鮮なお野菜をご用意いただきありがとうございます」


凛はにこりと微笑む。


その自然なやり取りを見て、太音たちは思わず顔を見合わせた。


店のスタッフたちは、凛を"黒羽家の世話係"としてではなく、一人の大切なお客様として接していた。


***


店内を歩きながら、凛は一つひとつ丁寧に食材を選んでいく。


「今日は立派なアスパラがありますね」


「こちらのお魚も新鮮です」


目を輝かせながら旬の食材を手に取る姿は、本当に楽しそうだった。


「今日はいいお肉がありますね。太音さんがお好きなハンバーグにしましょうか」


「玖音さんは研究でお疲れでしょうから、お野菜を多めにして……」


「紫音さんにはデザートもご用意したいですね」


「奏音さんは夜遅くなるかもしれませんので、消化の良いものを」


「玲音さんには、お夜食も作っておきましょう」


一人ひとりを思い浮かべながら献立を考えていく。


その姿を見つめながら、太音はふと問いかけた。


「凛」


「はい?」


「凛は何が食べたい?」


「え?」


凛はきょとんと目を丸くした。


「私、ですか?」


「うん」


「今日は凛の好きなものも作ろう」


思いがけない言葉だった。


凛は少し困ったように笑う。


「私は……」


少しだけ考え、


「皆様が『おいしい』と笑ってくださるお料理が、一番好きです」


そう答えた。


その瞬間、五人は足を止めた。


まただ。


凛はいつも、自分より誰かを優先する。


太音は優しく笑う。


「それも凛らしいけど」


「今度はちゃんと、自分の好きなものも教えて」


玖音も静かに続ける。


「自分を大切にすることも、大事だから」


紫音が笑う。


「今度は凛が主役の日も作らなあかんな!」


奏音は小さく微笑み、


「……約束」


玲音も少し照れながら頷いた。


「……知りたい」


五人の優しい眼差しに包まれ、凛は少しだけ照れたように笑った。


「ありがとうございます」


その笑顔を見つめながら、五人は同じことを思っていた。


守りたい。


笑っていてほしい。


誰よりも近くで、その笑顔を見ていたい。


その想いは、もう"家族を大切に思う気持ち"だけでは説明できなくなっていた。


けれど――


その気持ちを、まだ誰も恋だとは認めていない。


認めてしまえば、きっと今までの関係には戻れなくなる。


だから今日も、誰一人として口にはしなかった。


ただ一人。


何も知らない凛だけが、いつものように優しく微笑んでいた。


その無邪気な笑顔が――


五人の心へ、静かに、そして確かに届いていた。


まだ誰も、その想いを「恋」とは呼ばない。


けれど。


その日を境に、五人の心はもう、以前と同じではいられなかった。

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