12.紫乃が託した想い
黒羽家で働き始めて十四日目。
朝。
窓から柔らかな陽射しが差し込み、リビングには穏やかな空気が流れていた。
「おはようございます」
凛はいつものように朝食を並べていく。
焼き魚。
だし巻き卵。
炊きたてのご飯。
湯気の立つ味噌汁。
兄弟一人ひとりの予定や体調を考えた献立だった。
「母さん、おはよう」
太音が席へ着く。
「おはよう」
玖音も新聞へ目を通しながら椅子を引く。
「今日も腹減ったー!」
紫音は相変わらず元気いっぱいだ。
奏音は静かに席へ着き、
玲音も眠そうな表情のまま食卓へやって来る。
マリはその光景を静かに見つめていた。
(本当に変わったわね……)
以前の朝食は、もっと静かだった。
兄弟たちは忙しく食べ終えると、それぞれ何も言わず部屋を出ていく。
笑い声が響くことも少なかった。
けれど今は違う。
「玲音、それ俺の味噌汁ちゃうで」
「……間違えた」
「朝から天然やなぁ」
「紫音がうるさいだけ」
「ははっ」
自然と笑いが生まれている。
誰かが笑えば、誰かも笑う。
そんな当たり前の朝が戻ってきていた。
その中心には、決して前へ出ようとしない一人の少女がいる。
凛は兄弟たちへお茶を注ぎ終えると、小さく頭を下げた。
「どうぞ、ごゆっくり召し上がってください」
それだけ言って、一歩後ろへ下がる。
誰かの会話へ入ることもない。
けれど、誰よりも家族全員へ目を配っていた。
マリは優しく微笑んだ。
(紫乃さん……)
(あなたが託した理由が分かる気がする)
***
朝食後。
兄弟たちが仕事や大学へ向かい、屋敷は少し静かになった。
マリはリビングで紅茶を飲んでいた。
そこへ凛がお茶菓子を運んでくる。
「失礼いたします」
「ありがとうございます」
凛が一礼して下がろうとすると、
「凛さん」
マリが優しく呼び止めた。
「少し、お話ししませんか?」
「……はい」
少し緊張しながら向かいへ座る。
マリは穏やかな笑みを浮かべた。
「紫乃さんは、お元気かしら?」
「はい。腰のお加減は以前より良くなりました」
「最近は庭のお花を育てながら、ゆっくり過ごしております」
その言葉に、マリは安心したように微笑んだ。
「よかった」
「四十年以上、私たち家族を支えてくださった大切な人だから」
少し懐かしそうに窓の外を見る。
「太音が熱を出した日も」
「玖音と紫音がいたずらして叱られた日も」
「奏音が初めてピアノへ触れた日も」
「玲音が眠れなくなった日も」
「全部、紫乃さんがそばにいてくださったの」
凛は静かに耳を傾けていた。
「だから私は安心して海外でも仕事ができたのよ」
「……祖母も、皆様のことを本当の家族のように大切に思っております」
「ええ、知っているわ」
マリは優しく頷いた。
「そして今は、その想いをあなたが受け継いでくれている」
凛は首を横へ振る。
「私はまだ祖母には遠く及びません」
「そんなことはないわ」
マリは穏やかに微笑んだ。
「昨日、みんなの顔を見れば分かったもの」
「以前より、ずっといい顔をしている」
「太音は肩の力が抜けて」
「玖音は少し素直になって」
「紫音はちゃんと休めるようになって」
「奏音は笑う回数が増えて」
「玲音は家族と食卓を囲むようになった」
一つひとつの言葉に、凛は驚いたように目を見開く。
「全部、あなたのおかげでしょう?」
「……私は何も」
「いいえ」
マリはゆっくり首を振った。
「あなたは何も特別なことをしたわけではない」
「ただ、一人ひとりをちゃんと見て、一人ひとりを大切にした」
「それが一番難しいことなのよ」
凛は思わず俯いた。
胸が熱くなる。
「ありがとうございます……」
小さくそう答えるのが精いっぱいだった。
マリは立ち上がり、凛の前まで歩いてくる。
そして、そっと凛の両手を包み込んだ。
「凛さん」
「これからも、どうか息子たちをよろしくお願いします」
「もちろん、無理はしないこと」
「あなたも、この家の大切な家族なのだから」
その言葉に、凛は息をのんだ。
家族。
その二文字が胸へ優しく染み込んでいく。
目頭が少し熱くなりながらも、凛は精いっぱい笑った。
「はい」
「よろしくお願いいたします」
その笑顔を見て、マリも優しく微笑む。
紫乃が守り続けてきた黒羽家。
その想いは今、確かに次の世代へ受け継がれていた。
黒羽家へ来て十四日目。
凛はまだ気づいていなかった。
黒羽家の母もまた、彼女を「守りたい存在」として心から迎え入れていたことを。




