11.黒羽家の母
黒羽家で働き始めて十三日目。
朝。
黒羽家には、いつもより少しだけ落ち着かない空気が流れていた。
「本日、奥様がお戻りになります」
執事長の言葉に、使用人たちもどこか嬉しそうな表情を浮かべる。
凛もエプロンの裾を整え、小さく息をついた。
(いよいよ、お会いするんだ)
兄弟たちから何度も「大丈夫」と言われた。
それでも緊張しないわけがない。
黒羽家の奥様。
五兄弟のお母様。
そして、祖母・紫乃が長年お仕えしてきた方でもある。
「凛さん」
執事長が穏やかに声をかけた。
「奥様は肩書きや立場ではなく、人柄をご覧になる方です。いつもの凛さんでいてください」
「……はい」
凛は静かに頷いた。
***
昼過ぎ。
屋上のヘリポートから、ヘリコプターのローター音が屋敷中へ響き始めた。
ブォォォォ……
執事長が静かに顔を上げる。
「奥様がお着きになられたようです」
使用人たちは一斉に最上階のヘリポートへ向かった。
凛も執事長の後ろについて歩く。
(ここが……ヘリポート)
黒羽家が暮らすタワーマンションの最上階には、専用のヘリポートまで備えられていた。
海外からプライベートジェットで帰国したマリは、空港から専用ヘリへ乗り換え、この場所へ直接戻ってくるという。
凛は改めて、この家の規模の大きさを実感していた。
やがて、一機のヘリコプターがゆっくりと高度を下げ、ヘリポートへ着陸する。
風が吹き抜け、凛の髪がふわりと揺れた。
ローターがゆっくりと止まり、ドアが静かに開く。
中から一人の女性が姿を現す。
透き通るような白い肌。
ゆるやかに波打つ淡い金色の髪。
澄んだ翡翠色の瞳。
年齢を感じさせない、美しく気品あふれる女性だった。
華やかな存在感をまといながらも、その表情はどこまでも穏やかで優しい。
五兄弟の美貌が誰譲りなのか、一目で分かるほどだった。
「ただいま」
柔らかな笑顔とともに告げられたその一言だけで、その場の空気がふっと和らぐ。
迎えに来ていた兄弟たちが、マリの隣へ歩み寄る。
「母さん、おかえり」
太音が笑う。
「久しぶりやな!」
紫音が嬉しそうに抱きつく。
「元気そうでよかった」
玖音も穏やかに笑う。
奏音は静かに微笑み、
「おかえり」
と小さく呟いた。
玲音も照れくさそうに視線を逸らしながら、
「……おかえり」
と短く口にする。
マリは五人を順番に見つめ、嬉しそうに笑った。
「みんな、大きくなったわね」
「いや、もう大人だからこれ以上大きくならないよ」
太音が苦笑すると、マリは楽しそうに笑う。
「母親にとっては、いつまでも子どもなのよ」
そのやり取りを見て、凛は自然と笑みを浮かべた。
本当に仲の良い家族なんだ。
凛が穏やかな気持ちでその光景を見つめていると、
マリは五人の息子たちを見渡し、最後に静かに凛へ視線を向けた。
「あなたが凛さんね」
凛は背筋を伸ばした。
「はじめまして。
天咲凛と申します。
黒羽家でお世話になっております」
深く頭を下げる。
「祖母・紫乃に代わりまして、皆様のお世話をさせていただいております」
マリはしばらく凛を見つめていた。
やがて、ふわりと微笑む。
「あなたが、凛さん」
その笑顔は驚くほど優しかった。
「紫乃さんから、お話はたくさん聞いていたわ」
「え……?」
凛が顔を上げる。
「あなたは昔から、とても頑張り屋さんだったって」
「誰よりも人を大切にする子だって」
「だから安心して任せられるって」
思いがけない言葉に、凛は目を丸くした。
祖母が、そんな話を。
「ありがとうございます」
思わず胸が熱くなる。
マリは優しく頷いた。
「こちらこそ、息子たちがお世話になっています」
「海外にいても、みんなからの連絡には、いつも『凛さん』の話が出てきたのよ」
「え?」
凛が驚いて五兄弟を見る。
「ち、違っ……」
玖音が珍しく言葉に詰まる。
「俺は別に……」
玲音は耳を赤くして視線を逸らした。
「……知らない」
紫音は笑いながら肩を組む。
「母さん、全部バラさんでもええやん!」
太音も照れくさそうに笑った。
「まあ、本当のことだけど」
奏音は静かに頷く。
「……凛さんが来てから、みんな変わった」
その一言に、皆が静かになる。
マリは五人の表情を順番に見つめた。
以前より柔らかく笑う太音。
素直になり始めた玖音。
肩の力が抜けた紫音。
穏やかな奏音。
少しずつ心を開いた玲音。
そして、その中心には凛がいた。
マリは小さく微笑む。
(紫乃さん)
(あなたが選んだ人は、本当に素敵な子ですね)
その眼差しは、まるで娘を見る母親のように優しかった。
黒羽家へ来て十三日目。
凛はまだ気づいていなかった。
この日から、黒羽家の母・マリもまた、凛を大切な家族の一人として迎え入れようとしていることを。




