90、 ほっぺのキス
アシカなら、挨拶ってことでオッケーなのか
……考えすぎか
水槽の中を、青い光がゆっくり流れていく。
「……気持ちよさそうだね」
たかこちゃんが小さくつぶやく。
「うん」
隣に立って、同じ方向を見る。
クラゲが、ただ漂っているだけなのに、なぜか目が離せない。
「時間、止まってるみたい」
「そんな感じするね」
二人の時間も少しゆっくり流れているようで。
少しだけ近い距離で、同じものを見ている。
それだけで、十分。
館内を進むと、にぎやかな音が聞こえてくる。
「アシカショー、やってるみたい」
「行ってみる?」
「うん」
並んで座ると、ステージにはつやのある体のアシカが登場した。
ボールを乗せて、拍手して、ジャンプして。
観客の笑い声が、高く広がる。
「すごいね」
「ね」
たかこちゃんが少し身を乗り出す。
その横顔を、ほんの一瞬だけ見る。
――楽しそうだな、って思う。
よかった、来たかいがある。
すると、スタッフの声が響いた。
「お客さんにも協力してもらいましょうー!」
会場がざわつく。
「そこのお姉さん、お願いできますか?」
「え?」
たかこちゃんが、固まる。
「え、わたし!?」
「みたいだね、行ってみれば」
「え、無理…」
「大丈夫だよ」
短くそう言うと、少しだけ迷ってから立ち上がった。
ステージに向かう背中を、目で追う。
ぎこちない動きで輪っかを受け取って、
深呼吸して――投げた。
輪っかは、あさっての方向に飛んでいき、館内は笑いに包まれた。
思わず笑ってしまう。
緊張してる。
でも大丈夫だよ、って言っても届かないからテレパシーで送る。
そんなものないんだろうけど。
「大丈夫、もう一回!」
代わりにスタッフに励まされて、恥ずかしそうに輪っかを投げる。
少しだけ軌道をずらしながら、アシカの首に、すっと収まる。
「おおー!」
拍手喝采。
たかこちゃんが驚いた顔でこっちを見るから、
軽く頷いてみせる。
それだけで、少し肩の力が抜けたみたいだった。
「お礼にプレゼントです!」
小さなぬいぐるみを受け取って、ほっとした顔。
そのあと。
「じゃあ最後に――ご挨拶です!」
アシカが近づいてきて、
たかこちゃんの頬に、ちゅっと軽く触れた。
一瞬、動きが止まる。
会場の笑い声の中で、
たかこちゃんだけが、真っ赤だった。
席に戻ってきたたかこちゃんは、顔を隠している。
「……びっくりした」
「うん、見てた」
「見てたの!?」
見てるよ、いつも。
「ちゃんと成功してたよ」
そう言うと、手元のぬいぐるみを見て、小さく笑った。
「これ、ちょっと嬉しいかも」
「記念だね」
「うん」
それ以上は、何も言わない。
あしかに先を越された、なんて言わない。
帰りの電車は、静かに進んでいった。
思った以上に混んでいて、ドアが閉まると同時に、じわじわと人の波が押し寄せる。
「……人、多いね」
「こっちおいで」
人の流れを避けるように、たかこちゃんを壁際へ誘導する。
自然と、自分が外側になる。
「大丈夫?」
「うん……ありがとう」
電車が揺れて、少しだけ体が触れる。
すぐに離れるけど、
また揺れて、少し近づく。
その繰り返し。
窓の外、流れていく夜の景色。
隣にいる気配だけが、はっきりと分かる。
「……さっきの、びっくりした?」
「うん……ちょっと」
少し間があって。
「でも、楽しかった」
その言葉に、少しだけ視線を向ける。
「そっか」
短く返す。
数駅過ぎて、人が少しずつ降りていく。
電車が目的の駅に着く頃には、
二人の間に、ちゃんと呼吸ができる余白が戻ってくる。
ホームに降りると、夜風がひんやりして、さっきまでの窮屈さが嘘みたいだ。
歩き出しかけて、ふと思い出したように立ち止まる。
それから、たかこちゃんの方を見て、少しだけ照れたように笑う。
「……さぁ、帰ろうか」
そう言って、迷いなく手を差し出す。
「……また行こうね」
たかこちゃんが小さく言う。
「うん」




