89、 誤解はつづくよ
みんな勝手なことを言う、知らないくせに。
知ろうともしない。
だから僕は━━━
あの日のことは、解決したと思っていた。
玲子が倒れて、元気になって。
たかこちゃんの誤解も解けて、終わった話。
少なくとも、自分の中では、そう思っていた。
……でも、どうやらそうじゃなかったらしい。
「なあ、朱海」
仕事中、後ろから声をかけられる。
振り返ると、古いバイト仲間が、妙ににやけた顔をしていた。
「お前さ、いつの間に結婚したの?」
「……は?」
思わず手が止まる。
「いやだから、玲子さんと。もう、そういう感じなんだろ?」
一瞬、言葉の意味を探す。
「ちょっと待って。なんの話?」
そう言うと、そいつは「あれ?」と首をかしげた。
「お前だろ?この間のやつ」
——この間。
そこで、ようやく思い当たる。
玲子が倒れて、そのまま歩けなかったから、修さんの車まで運んだ。
ただ、それだけ。
「抱き合ってたって話になってるしさ」
「そのままお姫様だっこしてたって」
まあ、見え方としては、そう見えたかもしれない、でも。
「でさ、玲子さん妊娠してるって聞いて、完全にそういう流れだと思って」
「……いや、それは違う」
はっきり否定する。
「妊娠してるのは本当。でも相手は俺じゃない」
「え、そうなの?」
「旦那いるから。ちゃんと」
そこまで言うと、相手は「あー…」と納得したように頷いた。
「じゃあ全部、勘違いか」
「そういうこと」
短く答えながら、周りに目を向ける。
——嫌な予感がした。
休憩に入ると、それはすぐに確信に変わる。
視線。
小さな声。
そして、すぐに逸らされる目。
「ほら、あの子」
「やっぱりそうなんじゃない?」
完全に、広がってる。
小さく息を吐く。
——まあ、こういうのは放っとくと勝手に大きくなる。
自分のことだけならいい。
でも。
「……修さんに迷惑かかるな」
それが、一番引っかかった。
どうするか考えながら、持ち場に戻る。
結局、なにも思いつかないまま、夕方になってしまった。
夕礼の時間。
いつも通りの並び。
でも、どこか落ち着かない空気。
その中で、修さんが前に立つ。
軽く周りを見渡してから、いつもの調子で口を開いた。
「えーと、その前にちょっとだけいい?」
ざわっと空気が揺れる。
「なんかさ、今日うちの店、ちょっとした恋愛ドラマみたいになってるらしいじゃん」
一瞬、静かになって……
くすっと、誰かが笑った。
妙に耳に残る。
嫌な感じだ。
「朱海と玲子がどうこうって話」
そのまま、さらっと名前が出る。
思わず顔を上げると、修さんはこっちをちらっと見て、軽く肩をすくめた。
「結論から言うと——それ、全部違うから」
空気が一気に動く。
「玲子はちゃんと相手いるしな」
そう言って、今度は少しだけ優しく笑う。
「で、その相手が俺」
一瞬の静寂。
それから、一気にざわめきが広がった。
「え、そうなの!?」
「マジで!?」
驚きと納得が混ざった声。
修さんは気にせず続ける。
「あと、ついでに言っとくと、入籍したから。で、お腹の子も俺の」
さらっと、とんでもないことを言う。
でもその声は、どこか誇らしげだった。
「まあ、そんな感じだからさ」
軽く手を叩く。
「変な誤解で盛り上がるのはここまでな」
場の空気が、すっと整う。
「聞きたいことあるやつは、あとで俺のとこ来いよ」
にやっと笑って、
「のろけ話、長めにするけどな」
その一言で、空気が一気に崩れた。
笑い声が広がる。
「絶対長いやつじゃん!」
「聞きに行くわそれ!」
さっきまでのざわつきが、嘘みたいに消えていく。
——うまい。
思わず、心の中で呟く。
強く否定するでもなく、でもちゃんと全部ひっくり返して、最後は笑いで締める。
これ以上ない収め方だった。
夕礼が終わって、持ち場に戻る途中。
修さんとすれ違う。
「悪いなぁ、勝手に巻き込んで」
「いえ、助かりました」
素直にそう言うと、修さんは軽く笑った。
「まあ、ついでだしな」
「ついで、ですか」
「そ、どうせそのうち言うつもりだったし」
さらっと言ってのける。
「それに——」
一瞬だけ、視線がこっちに向く。
「変なことで、誰か困るのも嫌だろ」
その言葉に、小さく頷いた。
「はい」
それだけで十分だった。
余計な誤解は、もうない。
少なくとも、この場所では。
ふと、頭の中に浮かぶ。
……たかこちゃんがこれ聞いたら、びっくりするだろうな。
少しだけ苦笑して、仕事に戻る。
よし、つぎ、行こう。




