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碧い航海日誌   作者: 松本朱海|徒然なるままに
それからの話

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89/93

89、 誤解はつづくよ

みんな勝手なことを言う、知らないくせに。

知ろうともしない。

だから僕は━━━


あの日のことは、解決したと思っていた。


玲子が倒れて、元気になって。

たかこちゃんの誤解も解けて、終わった話。

少なくとも、自分の中では、そう思っていた。


……でも、どうやらそうじゃなかったらしい。


「なあ、朱海」


仕事中、後ろから声をかけられる。

振り返ると、古いバイト仲間が、妙ににやけた顔をしていた。


「お前さ、いつの間に結婚したの?」

「……は?」


思わず手が止まる。


「いやだから、玲子さんと。もう、そういう感じなんだろ?」


一瞬、言葉の意味を探す。


「ちょっと待って。なんの話?」


そう言うと、そいつは「あれ?」と首をかしげた。


「お前だろ?この間のやつ」


——この間。

そこで、ようやく思い当たる。

玲子が倒れて、そのまま歩けなかったから、修さんの車まで運んだ。

ただ、それだけ。


「抱き合ってたって話になってるしさ」

「そのままお姫様だっこしてたって」


まあ、見え方としては、そう見えたかもしれない、でも。


「でさ、玲子さん妊娠してるって聞いて、完全にそういう流れだと思って」

「……いや、それは違う」


はっきり否定する。


「妊娠してるのは本当。でも相手は俺じゃない」

「え、そうなの?」

「旦那いるから。ちゃんと」


そこまで言うと、相手は「あー…」と納得したように頷いた。


「じゃあ全部、勘違いか」

「そういうこと」


短く答えながら、周りに目を向ける。

——嫌な予感がした。


休憩に入ると、それはすぐに確信に変わる。

視線。

小さな声。

そして、すぐに逸らされる目。


「ほら、あの子」

「やっぱりそうなんじゃない?」


完全に、広がってる。

小さく息を吐く。


——まあ、こういうのは放っとくと勝手に大きくなる。

自分のことだけならいい。

でも。


「……修さんに迷惑かかるな」


それが、一番引っかかった。

どうするか考えながら、持ち場に戻る。

結局、なにも思いつかないまま、夕方になってしまった。


夕礼の時間。

いつも通りの並び。

でも、どこか落ち着かない空気。


その中で、修さんが前に立つ。

軽く周りを見渡してから、いつもの調子で口を開いた。


「えーと、その前にちょっとだけいい?」


ざわっと空気が揺れる。


「なんかさ、今日うちの店、ちょっとした恋愛ドラマみたいになってるらしいじゃん」


一瞬、静かになって……

くすっと、誰かが笑った。

妙に耳に残る。

嫌な感じだ。


「朱海と玲子がどうこうって話」


そのまま、さらっと名前が出る。

思わず顔を上げると、修さんはこっちをちらっと見て、軽く肩をすくめた。


「結論から言うと——それ、全部違うから」


空気が一気に動く。


「玲子はちゃんと相手いるしな」


そう言って、今度は少しだけ優しく笑う。


「で、その相手が俺」


一瞬の静寂。


それから、一気にざわめきが広がった。


「え、そうなの!?」

「マジで!?」


驚きと納得が混ざった声。

修さんは気にせず続ける。


「あと、ついでに言っとくと、入籍したから。で、お腹の子も俺の」


さらっと、とんでもないことを言う。

でもその声は、どこか誇らしげだった。


「まあ、そんな感じだからさ」


軽く手を叩く。


「変な誤解で盛り上がるのはここまでな」


場の空気が、すっと整う。


「聞きたいことあるやつは、あとで俺のとこ来いよ」


にやっと笑って、


「のろけ話、長めにするけどな」


その一言で、空気が一気に崩れた。

笑い声が広がる。


「絶対長いやつじゃん!」

「聞きに行くわそれ!」


さっきまでのざわつきが、嘘みたいに消えていく。

——うまい。

思わず、心の中で呟く。


強く否定するでもなく、でもちゃんと全部ひっくり返して、最後は笑いで締める。

これ以上ない収め方だった。

夕礼が終わって、持ち場に戻る途中。

修さんとすれ違う。


「悪いなぁ、勝手に巻き込んで」

「いえ、助かりました」


素直にそう言うと、修さんは軽く笑った。


「まあ、ついでだしな」

「ついで、ですか」

「そ、どうせそのうち言うつもりだったし」


さらっと言ってのける。


「それに——」


一瞬だけ、視線がこっちに向く。


「変なことで、誰か困るのも嫌だろ」


その言葉に、小さく頷いた。


「はい」


それだけで十分だった。

余計な誤解は、もうない。

少なくとも、この場所では。


ふと、頭の中に浮かぶ。

……たかこちゃんがこれ聞いたら、びっくりするだろうな。


少しだけ苦笑して、仕事に戻る。

よし、つぎ、行こう。

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