87、 同じじゃないこと
信じたい、だから信じる
大切なあの人を
これからも、ずっと
すぐ隣に、朱海さんがいる。
でも、いつもとは距離の感じ方が全然違う。
近いのに、遠い。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が出てこない。
歩き出そうとして、ふと足が止まった。
その瞬間――
くん、と袖を引かれる。
「……まだ、逃げる?」
低い声。
責めてるわけじゃないのに、胸が締め付けられる。
振り返れないまま、首を横に振った。
「……逃げない」
やっと出た声は、思っていたより小さくて、震えていた。
次の言葉がでてこない。
それから、そっと。
今度は、袖じゃなくて――指先が触れる。
びっくりして顔を上げた瞬間
「ちゃんと、こっち見て」
大好きな、優しい声が、耳のそばで響く。
心臓が、うるさいくらいに鳴り始めた。
「さっきの人、玲子っていうんだ」
朱海さんが話し始める。
「前に付き合ってた」
やっぱり。
わかってた。
でも、ちゃんと聞くと苦しい。
「——愛してた?」
自分でも驚くほど、素直に聞いていた。
まっすぐに見つめる。
「愛してないよ」
意外と、すぐに返ってきた。
ほんとかなぁ、なんて考える余裕がでてきたのか。
「子供だったからな。だって高2だぜ?」
苦い笑い。私は笑えない。
「でも、好きだった。多分」
少し強く吹いた風が、私の足を止める。
「……夜は……一緒にいたの?」
はぁ。
息がしずらい。
一瞬、絵里さんの家に泊まってた山本さんの事が、頭をよぎる。
聞かなきゃいいのに、でも、知りたい。
‥‥早く、答えてよ‥‥!
「——まぁ、一応」
ほら、聞かなきゃいいのに。
気づかないフリを、どうしてできないんだろう。
大好きな朱海さんの顔が、にじんで見えなくなっていく。
「ガキだったんだよ、俺が」
「どうして別れたの」
「俺は、部活や、友達の方が楽しかっただけで。彼女は俺に大人になる事を求めてた」
「じゃあ、今は大人じゃん」
「今は修さんがいるでしょ。子供も生まれるんだよ」
足が止まり、朱海さんが一歩近づく。
「だから、本当に終わってるの」
まっすぐな声。嘘じゃないってわかる。
「——じゃあ」
私も一歩近づく。
「私にも同じことして」
私だって子供じゃない。
一瞬、空気が止まった。
朱海さんが困ったように息を吐く。
そして、私の首筋に手をかけ、
引き寄せて…おでこに唇が触れた。
やさしい体温。
私は思わず、朱海さんを両手でつきとばして叫んだ。
「違うじゃない、全然違うでしょ!」
でも、朱海さんは、目をふせて静かに答えた。
「そうだよ、違う」
「だから何で…」
言いかけた私をそのまま抱きしめた。
強く、とても強く、窒息しそうなくらいに。
「違うことをしてるんだ」
「おでこにキスも、好きな女の子をバイクに乗せるのも。こうして道端で抱きしめるのも……初めてで」
震えてる、声。
「誰かにした事は一度もない」
「なにそれ」
「たかこちゃんだけなんだよ」
……ずるい。
さっきとは違う、涙があふれ出す。
朱海さんの鼓動が速い。子犬みたい。
そのままずっと抱きしめられて。
鼓動がゆっくりになる頃、人の気配。
犬? 誰かくる。
「朱海さん、誰か来たよ。離して」
「……いやだ」
「……こんなとこで」
「大丈夫」
「でも」
「だめ」
朱海さんを見上げると、泣きそうな、優しい顔。
…綺麗な瞳。
しばらく見とれていると。
さっきより、やわらかくて、温かい体温。
…安心する。
朱海さんの体温が、私の心をとかしていく。
「続きは…また」
その言葉に思わず笑ってしまう。
帰り道。
さっきよりも、少しだけ近い距離で、ゆっくり歩く。
「ごめんなさい」
聞こえないくらいで言ったのに……………
夜の道を、また歩き出す。
つないだ手は、そのまま。
少しだけ勇気を出して、朱海さんの腕にそっと寄り添った。
驚くかと思ったのに、何も言わない。
見上げると、自然と視線が合った。
「ん?」
「…嫌?」
「まさか」
ただ、もう少しだけ歩幅をゆっくりにしてくれた。
ちょっと照れたように笑うから、私も笑ってしまった。
さっきまでよりも、ずっとそばにいる。
「あのね、ママが小説を書いてるんだって。今度一緒に…」
「……それは、ちょっと待って」
恥ずかしそうに笑う朱海さんの横顔を見て、私も笑った。
私は、よく間違える。
これからも色んなことがあるかもしれない。
迷ったり、喧嘩したり、泣いたり。
でもね。
この人となら。
ふたりでなら。
きっと、その先にはもっと素敵な景色が待ってる。
これからも、ずっと。
そう、信じてる。




