86、 明かりの届かない場所で
ごめんなさい。
そう言えば、すぐにおわるかもしれないのに。
私が悪いのに。
でも、でもさ、私はただ……
廊下に出ると、家の中の空気が急に遠くなった気がした。
リビングの灯りは感じるのに、足元だけがやけに暗い。
階段の手すりに手をかけたまま、動けなかった。
一歩、踏み出そうとして、止まる。
会ったら、何を言えばいい?
どんな顔をすればいいの?
わからないまま、時間だけが過ぎていく。
階段の一番上に座る。
小さい時ここに座って、リビングから聞こえる家族の声を聴くのが好きだった。
でも、今は……。
下からは、かすかに話し声が聞こえる。
ママと知らない男の人の声。
その中に、朱海さんの声はない。
その時、下から微かな足音がした。
階段を上がってくる気配。
胸が、苦しい。
――どうして、あの時。
逃げなければよかった……のかな。
話をすればよかった……のかな。
たったそれだけのことなのに、できなかった自分が情けない。
反射的に顔を上げるけど。
逃げたいのに、逃げたくない。
その矛盾を抱えたまま、私はただ座ってた。
「……たかこちゃん」
薄暗い階段で、朱海さんの影が伸びる。
また、泣いちゃいそうで、何も言えない。
「おいで」
いつものように、差し出された手。
取っていいのか、意地を張っているのか。
――自分でもわからない。
どうやって階段を降りたのか、覚えていない。
気づいたら、リビングで座ってた。
知らない男の人が、私に深く頭を下げる。
「初めまして、保科といいます。
先程、朱海くんに妻と子供の命を助けていただき、ありがとうございました」
「え…?命……?」
話を聞いて、体から力が抜ける。
「あの時逃げていなければ、今頃三人で“よかったね”って言いながら、ご飯食べてたって事ね」
ママが、冗談っぽく言う。
保科さんをママが玄関で見送っている間、私は朱海さんを見つめていた。
何を言えばいいのかわからない。
謝らなきゃって思うのに、言葉が出てこない。
代わりに
「…外、いい?」
朱海さんが口を開いた。
私が悪い。
でも、追いかけてきてほしかった。
でも、それは無理で。
どうしようもなかった。
玄関をでると、ぐちゃぐちゃになった頭に、
夜風が少し冷たくて気持ちいい。
さっきまでの空気が、嘘みたいに静かだった。
少し先を歩く朱海さんの背中を、ただ見つめる。
いつもより、少しだけ距離を空けて。
呼び止めたいのに、声が出ない。
その時。
「……寒くない?」
振り返りもせずに、朱海さんが言う。
優しい声。
それだけで、また泣きそうになる。
「……平気」
強がったつもりなのに、声が少し震えた。
それ以上なにも言ってくれないんだ。
次の瞬間、ふっと影が近づいてきて――肩に、何かがかけられる。
「無理すんなよ」
低い声が、すぐ近くで落ちた。
距離が、近い。
さっきまでよりも、ずっと。
顔を上げれば、触れてしまいそうで。
怖くて、動けない。
「……なんで」
やっと絞り出した声は、小さすぎて消えそうだった。
「え?」
「なんで……そんな優しいの」
聞きたかったのは、そんなことじゃないのに。
本当は……
もっと、違うことを
言いたいのに。




