49、 彼女です
たった一言で、関係が変わることがある。
きっかけは、ほんの小さな場面。
でも、その言葉は、確かに未来へつながっていく。
今日、ふたりの距離に名前がついた。
ゴールデンウィークの映画館は、人の熱で少しだけ浮き立っていた。
ポスターの前で立ち止まりながら、たかこちゃんがうれしそうに言う。
「これ、観たかったんです!朱海さん、ありがとうございます!」
その横顔がきらきらしていて、俺は思わず笑った。
正直に言えば、ただの付き合いのつもりだった。
アニメ映画なんて久しぶりだし、詳しくもない。
家で、サブスクで十分。
ただ、優待券があるし、たかこちゃんが行きたいなら、それでいいと思った。
チケットカウンターに並ぶ。
今日は社員が対応していた。
「あら、朱海くん。お休み?」
見慣れた制服。
バイト先の、少し年上の社員、川島玲子。
「はい。今日は客です」
そう答えると、玲子の視線が、ゆっくりとたかこちゃんに移る。
観察しているようにも見える。
「……彼女?」
ほんの軽い口調だった。
でも、わずかな間があった。
俺は迷わなかった。
「はい」
自然に、息をするみたいに出た言葉だった。
隣で、たかこちゃんの肩がぴくりと揺れる。
玲子は一瞬だけ目を止めて、それから営業用のきれいな笑顔に戻った。
「そう。ごゆっくりどうぞ」
チケットの半券が差し出される。
その瞬間、空気がほんの少しだけ張りつめた気がした。
気にするな。
そのままたかこちゃんの手を取った。
「行こう」
歩き出してから、たかこちゃんが小さな声で言う。
「……いいの?」
「なにが?」
「……やっぱ、いいや」
それだけ言うと、たかこちゃんは黙った。
でも、つないだ手が少し熱くなる。
シアターの中は暗く、スクリーンが光り始める。
物語は予想以上に熱くて、まっすぐで、気づけばぼくのほうが夢中になっていた。
一人だったら泣いていたかもしれない。
エンドロールが流れるころ、隣を見ると、たかこちゃんは静かに目を潤ませている。
外に出ると、初夏の光がまぶしい。
「ね? 面白かったでしょ?」
得意げな顔に、俺は素直にうなずく。
「うん。……想像以上、ずっとよかった」
本当によかったんだ。
さっきの空気なんて、どうでもよくなるくらいに。
少し歩いたところで、たかこちゃんがふと聞く。
「さっきの、ほんと?」
「なにが?」
「いえ、やっぱ、いいです」
立ち止まって、人の流れの中で、ぼくはちゃんと彼女を見る。
「ほんとだよ」
今度は、ゆっくり言った。
映画の熱にやられていた、訳ではない。
たかこちゃんの頬が、光の中でほんのり赤くなる。
「じゃあ、次は何見る?」
その問いが、未来みたいに聞こえた。
「じゃあ、一緒にえらぼうか」
そう答えると、彼女は笑って、また手を握り直す。
好きなものが増えた。
好きな人と一緒に。
映画館のポスターが、青空の下で輝いている。
その隣を歩きながら、俺はもう一度、心の中で言った。
――彼女です。
この日から、たかこちゃんの敬語が減った。
それは、小さな始まりだった。




