2.初夜
「それでは、つつがなくお務めを果たされますよう」
そう述べて、丁寧に腰を折った侍女が寝室を出ていく。その背中を見送り、アスペラはひとつ大きく息を吐いた。
「お務め、ね……」
感情のこもらない声で呟いて、こみ上げる眠気に誘われるように、ふらふらと疲れた足取りで寝台へと歩み寄る。横になってしまえばそのまま眠ってしまいそうで。柔らかな寝台の誘惑は大きかったものの、意識を保つためにも腰を下ろすに留めた。
さらさらと肌を流れていく絹の感触は良く覚えのあるものだが、普段身につけているものよりもはるかに薄くて頼りない。そんな感覚をごまかすように、寝衣の上にまとったガウンの合わせをぎゅっと両手で握りしめた。
もっとも、そんなことをしたところで、身につけている寝衣の頼りなさにはまったく変わりはなく。諦めて手を離すと、ため息を吐いて天を仰いだ。
早朝から続く長い激動の一日で、頭も体も痺れるように疲れを訴えている。だが、本日大聖堂で婚姻の宣誓を終えて新妻となったばかりのアスペラには、先刻侍女が告げた通り、本日最後にして重要な務めがあった。
残念ながら、眠れるのはまだしばらく先になるだろう。それまではなんとかこみ上げる眠気を誤魔化せないかと、視線を巡らせ。寝台の脇にある卓上の水差しを手にしたところで、前触れもなく扉が開いた。
扉の向こうから姿を現したのは、当然ながら、本日主神への宣誓にてアスペラの夫となったアスピシオ辺境伯、その人である。
水差しを手にしたところで固まった間抜けな花嫁の姿に、ゆったりとした足取りで部屋へと踏み入って来た青年は、ぱちりとひとつ大きく目を瞬き。けれど、そのまま何も言うことなく、扉を閉めて寝台へと歩み寄ってきた。アスペラもしばし動きを止めていたものの、すぐに気を取り直すと、現れた夫を横目に水杯に水を注いだ。
「水、飲まれますか?」
端的にかけられた言葉に、青年は再び目を瞬いて。無表情に強張っていた頬を、ふっと緩めた。
「頂きましょう」
その返事に肯くと、もう一つの水杯にも水を注ぎ、青年へと差し出す。隣に立った青年は礼を言ってそれを受け取ると、卓の横に置かれている椅子にゆっくりと腰を下ろした。
自分のために用意した水を口にしていたアスペラは、杯の水を半分ほど飲み干してから、水杯を握ったままじっと自分を見つめて来る夫に気づく。
夜の寝室は柔らかな室内灯の明かりのみが灯されており、昼間に比べれば大分薄暗い。それでも、互いの瞳の彩が分かるほど近い距離に、二人はいた。
彼女の視線に気づいているだろうに、青年は何も言うことなく、じっとアスペラの姿を見つめている。続く沈黙に、先にしびれを切らしたのはアスペラだった。
「……どうかなさいましたか?」
これが夜会で会った慇懃無礼な貴族青年ならば遠慮なく棘を出すのだが、相手は曲がりなりにも神の認めた夫である。アスペラとしてはなるべく声に不愉快さをのせないよう気を使ったものの、その声は相変わらず冷たく淡々と静かな夜の静寂に響いた。
そんなアスペラの声に、ようやく青年も自分の不躾さに気づいたようで、ゆったりと目を瞬くとその端正な顔に柔らかな苦笑へを浮かべる。
「ああ……不躾な真似をして、すみません。こうしてしっかりと姫のお顔を拝見するのは、始めてだと思いまして」
柔らかな声で紡がれた言葉に、アスペラも昼間の控え室で青年の顔を見たときのことを思い出した。彼女がまともに夫となる相手の顔を見た、始めての記憶。だが、彼の方はあの時ヴェールを隔てていたために、アスペラの顔をしっかりと見ることは出来なかったのだろう。
その事実に思い至って、思わず失笑せずにはいられなかった。もっとも、その笑みはずいぶんと苦いものではあったけれど。
「そういえば、そうですわね。わたくしも――……旦那様のお顔をきちんと拝見したのは、今朝が始めてでした」
アスペラの言葉に、青年はクスリと笑みをこぼした。決して嫌な笑いではなかったものの、なぜ笑われたのかが分からずに、アスペラは柳眉を寄せる。
「ああ、すみません」
そんなアスペラの思いに気づいたように、青年は謝罪を口にした。そしてゆっくりと手を伸ばすと、膝に置かれているアスペラの片手をそっと取った。
「あの……?」
これからすることを思えば、動揺するほどでもないだろう細やかなふれあい。けれど、成人してからは兄たちとすら手をつないだ記憶もないアスペラにとっては、なんの隔たりもない他人の体温は温かくもどこか恐ろしいものだった。
無意識に引こうとした手は、けれど自分よりも遥かに大きな手に包み込まれてしまい、叶わない。長いまつげを瞬かせてその手を見下ろしたアスペラに、夫となった青年の柔らかな声が降る。
「私は、クレスキト・アクゥイラ・ドゥキス・アスピシオ。ジール王家より、アスピシオ辺境伯を任じられております。どうぞ、クレスとお呼びください」
「ええと、わたくしは……」
突然の名乗りに、アスペラはぱちぱちと軽く目を瞬き。とりあえず、自らも名乗るべきかと口を開きかけたものの、言葉は途中で空に消えた。今の自分がなんと名乗るべきであるのか、それが咄嗟に分からなかったのだ。
そんな困惑と逡巡にわずかに視線を巡らせたアスペラの様子に、彼――クレスキトは柔らかく微笑む。その眼差しはどこまでも優しいものだったが、アスペラはなぜか浮かんできた不快感に、思わずむっと顔をしかめた。もっとも、彼女のそんな一連の表情の変化は、この国の王太子殿下のように身近かつ他人の機微に敏い一部の者にしか、感じ取れないごくごく微かなものではあったのだが。
そもそもアスペラは立派な引きこもりであるからして、他人と関わった経験というものが極端に少なかった。そのためこうして赤の他人を前にして、どのような態度を取るのが正しいのかなど、さっぱり分からなかったし、自分に向けられる柔らかな笑みがどのような意図を持っているかなど、推し量りようもない。
手に触れた温もりの意味も、優しい微笑みの意味も分からなくて、クレスキトを直視出来ずに視線を落とした。
「正直、初めて公爵家でお会いした時は、もっと気難しい方なのかと思っていたのですが。とてもお可愛らしい方で、安心しました」
「は……?」
自らの人生に終ぞ縁のなかった言葉に、アスペラは思わず素で思い切り顔を顰めてしまった。
偏屈、冷淡、無愛想の人嫌いというのが、他人がアスペラを評する言葉の大多数である。娘に甘い父親や、比較的アスペラを気にかけてくれている次兄をしても、本当に幼い頃を除いては、可愛らしいなどと言われた記憶はなかった。
(この方、実はとても目が悪いのかしら……)
思わず相手の視力を疑ったアスペラに、クレスキトは再び軽く失笑した。
「ふふふ、視力には問題はありません。姫のお顔もとても良く見えていますよ」
「な……っ」
口に出していないはずの疑問をあっさりと否定した夫に、アスペラは思わず目を瞠る。
つい先刻まで、どこにでもいるような、アスペラにとってはその他大勢の貴族の青年と大差なかったはずの男性が、まるで見たことのない化け物に思えてしまう。
生まれた時から傍にいる兄たちにすら、何を考えているのか分かりにくいと言われるアスペラだ。その変化の乏しい表情ゆえに、他人に自分のことを察されるという経験が、彼女にはほとんどなかった。
「先ほど改めて名乗ったのは、姫に私の名を覚えて頂きたかったからです。さすがに私も、妻に名すら覚えられていないのは悲しいので」
「……それ、は……」
確かにアスペラは夫の名をまったく記憶に留めていなかった。興味もなかったし、その必要性も感じられなかったのだ。結婚する前ならば『アスピシオ卿』と呼べば足りたし、結婚してからも『旦那様』と呼べば良いと考えていた。アスペラにとって夫はあくまで『夫』という存在であって、そこに相手の個への興味は一切存在していなかったのだ。
そのため、結婚前に一度顔を合わせたものの、彼の名も、年も、その他一切の情報を記憶に留める努力すらしなかった。アスペラにとって彼はずっと『王太子が選んだ、条件に合う結婚相手』というだけの存在だった。
そんな彼女の思いを、彼は分かっていたということなのか。
そう思えば、以前に会った際の自分の態度に、口唇を噛むしかできない。
「年は今年二十六になりました。ご存知かもしれませんが、娘が一人おります。娘の名はアメーリス、五歳になります。まだ幼いので、今回は同行させず、領地で乳母が面倒を見ております」
おそらく知らされるのは初めてではないそれらの情報を、今度はきちんと聞いていることを示すようにしっかりと相槌をうつ。そんなことすら、顔合わせの時にはした記憶がなかった。
そんなアスペラの意図に気づいたのか、クレスキトはその目を柔らかく和ませた。
「そうですね、他に何か聞いておきたいことはありますか?」
尋ねられて、アスペラは僅かに目を瞠る。ゆっくりと二度、瞬きをする間考えを巡らせて――結局、首を横に振った。きちんと彼の言葉に耳を傾けようとは思ったけれど、そう思ったところで、急に根堀り葉掘り知りたいことが湧くほど、夫への興味があるわけではなかった。
「いえ……特には」
そんな彼女の答えすらも予想していたのか。それを責めることなく、クレスキトはひとつ肯くに留めた。そしてそんなアスペラの態度にも鷹揚に、彼の口唇からは変わらない優しい声が紡がれる。
「それでは、そろそろ休みましょう。明日は王宮での謁見がありますから、領地へ向かうのは明後日になります。今日はお疲れでしょうから、ゆっくり休んでください」
「は……」
思わず素直に肯きそうになって、動きを止める。さすがのアスペラでも、かけられた新妻を労るような言葉が、この初夜の床ではだいぶおかしなものであることぐらいは理解出来た。
「どうかなさいましたか?」
握っていた妻の手を放すと、着ていたガウンをさっさと脱ぎ捨てて寝支度を始めたクレスキトは、そんな妻の様子に首を傾げた。だが、その言葉はむしろアスペラが言いたいものである。
夫の言葉の意図を確認するために、その顔を見上げて。アスペラは彼ほど相手の機微を察することに長けてはいなかったが、それでも向けられる表情に、今度こそはっきりとその美貌を顰めた。
「今の言葉は、どういう意味ですか?」
普段は特段意識しなくとも淡々とした口調のアスペラだったが、これほどに気を使って言葉を紡いだのは、彼女の人生で初めてのことかもしれなかった。それほどまでに気をつけなければ、声に彼を咎める響きが混ざってしまいそうだった。
だが、言われた夫の方はといえば。先刻までの察しの良さは夢か幻だったのかと思うほど、きょとりと目を瞬くばかりで。アスペラは細く深く呼吸をすると、意識してゆっくりと重たい口唇を開いた。
「旦那様は、わたくしとの離縁をお望みなのですか?」
「え?」
その言葉に、すっきりとした切れ長の目が驚愕に見開かれる。
出会ってから今まで、常に余裕のある微笑みを崩さなかった青年の表情が変わったことに、アスペラの溜飲は僅かに下がった。それでも、これだけはしっかりと確認しなければならない。彼の返答次第では、自分の身の振り方について考えておかなければならないのだから。
氷よりも冷たい薄青の瞳でじっと夫の顔を睨み上げれば、青年は弾かれたように慌ただしく首を横に振った。
「まさか! そのようなつもりでしたら、そもそも初めから婚姻など結びませんでした。なぜ、そのような……」
「わたくしとの離縁をお望みではないのならば、結婚出来ない理由のある恋人でもいらっしゃるのですか?」
「ありえません!! そんな相手がいる状態で、アミークス公爵家のご令嬢を妻に迎えたり出来ませんよ!」
アスペラはアミークス公爵家の娘で王太子殿下の又従兄弟だ。表沙汰に出来ない恋人などがいる状態でそんな娘と結婚して、相手の逆鱗に触れたりしてしまえば、アミークス公爵家だけではなく、王太子殿下の顔にまで泥を塗ることになる。
そうなってしまえば、どのようなことになるか。少しでも考える頭があれば分かるだろう。
必死に否定する夫を冷たい眼差しで睥睨して。アスペラは、ゆっくりと深く一つ息を吐いた。
「それでは、旦那様――今宵、夫としての務めを、果たしてくださいませ」
アスペラの言葉に、再び青年の動きが止まる。彼は目を見開いたまま、しばしじっと、妻となった娘の表情の薄い顔を見つめた。
「それは……貴女はご自分の言っていることが、どういうことか、分かっているのですか?」
「もちろんですわ」
アスペラとて、そこまで無知ではない。きちんと母親の女官から初床の心得は教えられたし、そこで何が行われるかも聞かされていた。
正直、そのようなことをしたいかしたくないかと聞かれれば、当然、今日まともに認識したばかりの相手としたくなどはない。だが、かといってきちんとした夫婦関係を結ばないまま過ごしてしまえば、夫の一存でいつ離縁されるか分からない状態になってしまう。そんなことは絶対に許容出来なかった。
夫婦は契を交わして初めて正式な夫婦と認められる。アスペラとクレスキトは政略結婚とはいえ、明朝にわざわざその証を確認されたりはしないものの、契らなければアスペラは永遠にアミークス公爵家の娘のままだ。
最悪、離縁されるにしたところで、契さえ交わしていればアスペラは実家に出戻らずにアスピシオ辺境伯家の元妻として神殿に入ることも出来る。だが、契を交わしていなければ、アスペラはアミークス公爵令嬢として実家に帰らなければならなくなってしまうのだ。
「アスペラ姫、私にはすでに子もおりますし、別にそれほど急いで契を結ばねばならない理由もありません。もうしばらく互いに共に過ごしてから床入りをするのでも問題はないと思うのですが……」
まともに顔を合わせたのが今日という夫婦の妻にとって、クレスキトの心遣いは、本来ならば喜ぶべきところなのだろう。うら若い、というには薹が立っているものの、アスペラは今まで兄弟以外の異性とろくに親交のなかった貴族の娘だ。そんな相手に対して、本来ならばクレスキトは寛大な夫である。
だが、アスペラにとってはまったく嬉しくもない提案だった。むしろ、ここできちんと夫婦とならねば、なんのために婚姻を結んだのか分からないのだ。夫婦の義務を果たして、はじめて夫婦と認められるのならば、一刻も早くそれを果たしたかった。
「いいえ。お気遣いはありがたいですけれど、それはわたくしの望むところではありません。離縁をお望みでないのでしたら、どうか、今宵わたくしをきちんと旦那様の妻としてくださいませ」
毅然と夫の顔を見据えて言えば、彼はしばし言葉を失い。
けれど、睨みつけるが如くひっしと見つめるアスペラに引く気がないことを察したのか、やがてゆっくりとため息を吐いた。
「……分かりました」
肯いた夫に、アスペラはほっと肩の力を抜く。けれど、すぐに本当の試練はこれからであることを思い出して再び体を強張らせた。そんなアスペラの薄衣に包まれた肩を大きな手が気遣うようにそっと撫でた。
「旦那様?」
その仕種の意味も分からなくて、軽く首を傾げて見上げれば、その薄青の瞳が浮かべる光に青年は柔らかく微笑んだ。ほの暗い光の中で見るその微笑が、先刻までのものとは違って見えて、アスペラは無意識に息を飲む。
「どうか、私のことはクレスと。寝台の中でまで、妻にそのように呼ばせる趣味はありませんので」
冗談めかした口調ながら、向けられる眼差しが危うくて。アスペラは震える睫毛を瞬かせて、乾いた口唇をそっと開いた。
「……ク、レス……さま……」
「はい、アスペラ」
耳朶に注ぎ込むように紡がれた声からは、何かアスペラの背筋を震わせるものが滴り落ちているようで。目の前にいる人が、姿は同じまま全く違う誰かに変貌してしまったような恐怖が走った。
「あ……」
そんなアスペラの思いを察したのか、無意識に逃れようとした彼女の細腰を、見た目よりも逞しい腕が捕らえた。俯いたアスペラの小さな頤に、輪郭を辿るように固い指先が触れて、上向かせる。
「ぁっ……」
小さく上がった悲鳴を飲み込むように、口唇が重ねられて。強く触れ合わせた柔らかくも熱い感触に、目を見開いたアスペラはなされるがままとなるしかなかった。
薄い口唇を濡れた熱が熱心に辿り、幾度も吸われる。訳がわからないままに、震えながらもきつく結び合わせた口唇のあわいを、誘うように舌先がくすぐって。その感触にむずがるように首を振れば、咎めるようにふっくらとした下唇をごくやわく食まれた。小さな痛みに思わず開いた隙間に、するりと熱が忍び込んで――そこから先は、もう受け止めることすらまともに出来なかった。
アスペラの小さな口内を、他人の熱が好き勝手に蹂躙し、貪り尽くす。その熱に、肌を辿る指先に、まるで自分という存在が溶かされてしまうようで。
溺れる人間が藁を掴むように、アスペラは無意識のまま必死に、目の前の体にしがみついたのだった。