第九章 開かずの扉があいた
「姫様! 結衣姫様!」
女房たちが慌ただしく姫の姿を探していた。
そこへ、騒ぎを聞きつけた伊予の局がやって来た。
「何事です? 何をそんなに騒いでいるのです」
「申し訳ございません。今日から手習いが始まるというのに、姫様がどこにもお見えにならなくて……」
「まあ、それは困りましたね」
伊予の局はあたりを見回した。
「とにかく、手分けして探しましょう」
姫君の大捜査が始まった
そのころ、何も知らぬ佐紀は、中宮殿に向かう廊下を案内の女御の後につき歩いていた
佐紀にとっては、久しぶりの内裏である。
夫が存命だった頃、一度だけ管弦の宴に招かれたことがあった。その時に見た内裏は、世にも艶やかで美しく、まるで別世界のようだった。
あれ以来の内裏である。
女御に案内され、佐紀は美しい中庭を眺めながら
姫君話はどのような方が楽しみに歩いていた。
色とりどりの花々が咲き誇り、風が吹くたびにかすかな香りが漂ってくる。
その時だった。
「……あら?」
植え込みのあたりで、何かがカサカサと動いた。
佐紀が足を止める。
すると、
「しろ! やっと捕まえた!」
花の陰から、小さな女の子がひょこりと顔を出した。
腕の中には、真っ白な子猫がいる。
「あらまあ……」
佐紀は思わず微笑んだ。
「なんと可愛らしい姫様でしょう」
少女は佐紀に気づくと、ぱっと顔を上げた。
「こんにちは!」
くりくりとした目で、元気よく挨拶をする。
「こんにちは。あなたのお名前は?」
「結衣です」
「まあ、結衣姫様でしたか」
「はい!」
佐紀が子猫を見ると、結衣姫は嬉しそうに抱きしめた。
「この子はしろというの?」
「はい。白いから、しろです!」
「可愛い子猫ですね」
「はい。でも……」
結衣姫は少し困った顔をした。
「いたずらっ子なのです。すぐにどこかへ行ってしまうし、花の中にも入ってしまうし……」
「まあ、それはお世話が大変ですね」
「そうなのです」
結衣姫は猫を抱いたまま、少し考えるように俯いた。
「でも、猫が欲しいってお母様にお願いしたら、自分でお世話をするなら飼ってもよいって言われたのです」
「まあ。では、姫様はしろのお世話を頑張っているのですね」
「はい!」
元気よく答えたものの、結衣姫はまた白を見る。
「でも、しろはすぐ逃げるのです……」
佐紀は少し考えてから、にっこり笑った。
「それでは、どうしたら白が逃げないのか、一緒に考えてみましょうか」
「一緒に?」
「ええ。一人で考えるより、そのほうが楽しいでしょう?」
結衣姫の目が輝いた。
「はい!」
その時、後ろから女房の声がした。
「まあ! 姫様、こんなところに!」
佐紀は振り返り、思わず笑った
中宮殿に、佐紀は姫君とともに到着した。
中宮は、心配そうな顔で姫を待っていた。
「結衣! 急にいなくなって、心配しました」
姫君の姿を認めると、中宮の顔に、ほっとした色が浮かんだ。
「お母様、申し訳ございません。しろを、探しておりましたら、中庭におりましたの」
「まあ、中庭に? しろは、なぜそのようなところへ……」
「そうですわね。なぜ……」
伊予の局も首をかしげた。
「結衣は、どこから中庭へ出たのです?」
中宮が尋ねると、姫君は一方を指さした。
「あちらの扉が開いておりましたの」
「まあ……あちらは……」
伊予の局の顔色が変わった。
「あの扉は、いつも施錠してございますのに」
「女御、見てきてください」
伊予の局が命じると、数名の女御が急いで扉のところへ向かった。
ほどなくして、一人の女御が戻ってきた。
「伊予の局様……」
「どうしました?」
「いつの間にか、鍵が外されております」
「……まさか」
中宮と伊予の局は、顔を見合わせた。
しばし、誰も口を開かなかった。
やがて中宮が、静かに言った。
「すぐに、右近中将を呼びなさい」
その一言で、中宮殿の空気が一変した。
女房たちが行き交い、警護の者が呼ばれる。
先ほどまでの穏やかな中宮殿が、にわかに慌ただしくなっていった。
佐紀は、その様子を黙って見つめていた。
――なぜ、鍵は外されていたのだろう。
さすがに、結依姫もしろをだいて緊張していた、御簾の中で佐紀はそっとと結衣姫の肩を、だいていた。
一通りの調べが終わると、右近中将は御簾の前に進み、中宮に状況を報告した。
「お部屋の中から、縁の下まで確認いたしましたが、怪しい人影などはございませんでした。
しかし、念のため、しばらくこちらの警備を続けさせていただきます。ただ、あまり大事にして中宮様方をお騒がせすることのないよう、警備の者にも申しつけておきますので、どうぞご安心ください」
そう言うと、右近中将は深く一礼し、その場を立ち去った。
その手際のよさに、中宮をはじめ、女御たちも感心した様子で顔を見合わせた。
「……今の方、どなたですの?」
女御の一人が小声で尋ねる。
すると伊予の局が、何でもないことのように答えた。
「左大臣家の、大伴英嗣様です」
「あら……」
中宮も、その名を聞いて微笑んだ。
「まあ、それは安心ですわ」
その言葉に、女房たちもほっとしたように頷いた。
けれど、佐紀だけは、先ほどの英嗣の言葉を思い返していた。
本当になにもなかったのかしら?
英嗣は中宮殿を後にすると、その足で父・左大臣の執務の間へ向かった。
「左大臣様にお目にかかりたい」
そう告げると、ほどなくして返事があった。
英嗣は部屋へ入り、父の前に座った。
「何かあったのか」
左大臣が尋ねる。
英嗣は答えず、懐紙を取り出した。
そして、それを父に見せる。
左大臣は一瞬、目を細めた。
「……近習を」
静かな声だった。
呼ばれた近習に、
「この部屋のまわりに人がいないか確認せよ。誰も近づけるな」
と命じる。
近習が出ていくのを確認すると、英嗣は父の近くへ身を寄せた。
そして、袂から白い懐紙に包まれた小さなものを取り出した。
そっと開いて見せる。
その瞬間、左大臣の顔色が変わった。
「……これは?」
「はい。中宮様の御座所、その縁の下から見つけました」
「なんと……」
左大臣は言葉を失った。
「本日、中宮殿で騒ぎがございました。その調べのために私も参りました。部屋の内から縁の下まで、念のため隈なく確認いたしましたところ、これが……」
英嗣は包みを閉じた。
「見つけた者には固く口止めをしております。しかし……ただ事ではないと思い、父上にお知らせした次第です」
「中宮殿の騒ぎとは?」
「本殿との境にある扉の施錠が、外されておりました」
「……鍵が?」
「はい」
英嗣は続けた。
「中宮様のお許しを得て調べましたが、その際にこれが見つかりました」
大臣は、しばらく黙っていた。
「中宮様は、このことをご存じか?」
「いいえ」
英嗣は首を横に振った。
「むやみにお伝えして、かえってご不安にさせてもいけないと思い、まだ申し上げておりません。ただ、警備は厳重にしております」
左大臣は、包みを見つめたまま考え込んだ。
やがて、顔を上げる。
「分かった」
そして、少し考えてから言った。
「英嗣。今から陰陽寮へ行け」
「保忠様に?」
「……いや」
左大臣は一度言葉を止めた。
「忠嗣様にしよう」
英嗣が顔を上げる。
「宇治の庵まで参れ。少々遠いが、お前自身が行くのだ」
そう言うと、左大臣は脇に置かれていた巻物を一巻取り出した。
「これは先日、摂津の国司から手に入れたものだ。天竺の巻物だという」
英嗣は巻物を受け取った。
「これを忠嗣様に見せよ」
「……これを?」
「本物かどうか見てほしい、と伝えるのだ」
左大臣は、それ以上は何も説明しなかった。
「使いを出す理由になる。それでよい」
英嗣は父の顔を見た。
何かを尋ねようとしたが、やめた。
「承知いたしました」
英嗣は巻物を懐に収め、部屋を出た。
その背中を見送りながら、左大臣は一人、先ほどの白い懐紙に包まれたものを思い浮かべていた。
――あれは、いったい何を意味するのか。
左大臣にも、まだ分からなかった。
英嗣は詰所に戻ると、指示をだした
まず、宇治の忠嗣殿に、巻物の件で伺いたい
中宮の護衛の者には、今日から自分が不在になる、警備を怠るな、しかし、出入りは自由で結構、だが、誰が出入りした、人だけではなく、物、動物、虫まで、見逃すな、そして戻ったら報告すること、右近衛将監に指示、そして、帝に気づかれないよう、護衛の強化を命じた。
英嗣は全て、整えた後宇治へ向おうとしと牛車に乗ろうとすると、宇治へ使いをだした者が、帰つてきた
「なんだ、もう戻ってきたのか、宇治でなにかあったのか?」
「いえ、宇治に向かいましたところ、途中で、宇治に帰る忠嗣様たちに会いまして、ご要件をお伝えしたら、おまちしています、と返事を頂きました」
「そうか…?忠嗣様たちとは?」
「はい、幸様もご一緒でした」
「幸さんも?」
「はい」
英嗣は一瞬、目を丸くした。
「そうか。わかった」
それだけ言うと、何事もなかったような顔で牛車に乗り込んだ。
――ところが。
屋敷に戻るなり、英嗣は家人を呼んだ。
「長尾! いるか?」
「はい、英嗣様。こちらに」
長尾が駆けてくる。
「今から宇治の忠継様の庵へ向かう。支度を頼む」
「かしこまりました」
「手ぶらでは失礼だからな。酒と肴になるものを。それから……何か、砂糖菓子なども用意してくれ」
長尾の手が、ぴたりと止まった。
「……砂糖菓子、でございますか?」
「ああ」
「忠嗣様が召し上がるとは存じませんが……」
「……」
英嗣は、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「その……幸さんも、一緒らしいのだ」
すると長尾の顔が、ぱっと明るくなった。
「それはそれは!」
「何だ」
「では、とびっきりのお菓子をご用意いたしましょう!」
「いや、待て」
英嗣の顔がみるみる赤くなる。
「別に、そういう意味ではないぞ。幸さんに会いに行くわけではない。あくまで用があって行くのだ」
「はいはい」
「本当に用があるのだぞ」
「はいはい」
「時間がない。急いでくれ」
「承知いたしました。では、幸様がお喜びになりそうな――」
「長尾!」
「はい?」
「……余計なことはするな」
しかし少し間をあけて
「……酒より砂糖菓子のほうを念入りに包んでおけ」
長尾はにこにこと笑いながら、準備に取りかかった。
英嗣は「まったく……」と呟きながらも、口元が緩んでいる。
「これでは、将之殿と一緒ではないか……」
ふと我に返り、首を振る。
「いや、違う。私は公務で行くのだ。公務だ」
そう呟きながら、もう一度衣の襟元を整えた。
その様子を、傍らで着替えを手伝っていた家人がじっと見ている。
さっきから英嗣の顔は、赤くなったり、平静に戻ったり、また赤くなったりしている。
家人はとうとう堪えきれず、長尾のほうをちらりと見る。
長尾もまた、何も言わずにニヤリと笑った。
「……公務、でございますな」
「そうだ!」
英嗣は即座に答えた。
しかし、その返事だけは妙に大きかった。




