第十章 思春期の英嗣
宇治へ向かう牛車の中で、英嗣は長尾に、今回の出来事について話して聞かせた。
「それは、怪しいですね」
話を聞き終えた長尾が、眉をひそめる。
「まあ、忠嗣様のご意見を伺わなければ、何とも言えないがな」
英嗣はそう答えると、牛車の揺れに身を任せた。
「それにしても、忠嗣様が宇治へ幸さんをお連れすることになって、本当に良かったですね。私は会えるのが楽しみです」
長尾は、どこか弾んだ声で続けた。
「吉野にいた頃は、みんなでよく遊びましたね。川で水浴びをしたり、桜の木の下に寝転んだり……」
懐かしそうに笑う長尾を見て、英嗣も思わず頬を緩めた。
「そうだな。あの頃は、身分などというものも知らず、ただ自分たちの世界で生きていた」
遠い昔を思い返すように、英嗣は目を細めた。
「何も難しいことを考えずに済んだものだ」
「幸さん、私のことを覚えていてくださるでしょうか?」
長尾が、ふと不安げに尋ねる。
「忘れるわけがないだろう。みんな、あの頃が一番幸せだったんだから」
英嗣はそう言って、膝の上に置いた包みを見つめた。
中には、幸への土産にと用意した砂糖菓子が入っている。
包みをそっと抱え直すと、英嗣は再び遠い吉野の日々に思いを馳せた。
やがて、夕刻も近づいた頃、牛車は宇治の庵に到着した。
門の前では、家人と幸が一行を出迎えていた。
「お待ちしておりました」
幸が静かに会釈する。
「幸さん!」
英嗣は、待ちきれなかったかのように、手にしていた包みを差し出した。
「これは?」
幸は不思議そうに首を傾げ、包みを軽く揺すってみせた。
「砂糖菓子ですね」
包みの中身に気づいた幸が、ふっと笑みをこぼす。
その笑顔につられるように、英嗣も笑った。
すると、傍らに控えていた長尾が、待ちかねたように英嗣の袖をそっと引いた。
「ああ、そうだった」
英嗣は、思い出したように声を上げた。
「幸さん、覚えているかい?」
「え?」
幸は、英嗣の隣に立つ男へと目を向けた。
しばらく、その顔をじっと見つめる。
「……長尾?」
「長尾なの?」
驚きと戸惑いの入り混じった声だった。
「はい」
長尾が顔を上げる。
その瞬間、幸は思わず長尾の手を取った。
「まあ、こんなに大きくなって……。本当に久しぶりね」
そう言った幸の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
長尾もまた、懐かしさに胸をいっぱいにしたように、嬉しそうに笑った。
英嗣は、そんな二人の姿を黙って見つめていた。
幸が、これほどまでに感情をあらわにする姿を見るのは、久しぶりだった。
いつもは冷静で、どこか人を寄せつけないような幸が、今は昔のままの笑顔を見せている。
その笑顔を見ていると、英嗣の胸にも、吉野で過ごした日々が鮮やかによみがえってくる。
懐かしい。
あの頃に戻れたら、どんなにいいだろう。
けれど、目の前で長尾の手を握り、嬉しそうに笑う幸を見ていると、なぜか胸の奥が少しだけざわついた。
自分には見せなかった、あんな表情。
そんな思いがよぎったことに、英嗣自身も少し戸惑った。
彼は、幸の横顔をそっと見つめ直した。




