第八章 摂関家の六男登場
どうにもやりづらい――と、英嗣は困っていた。
例の藤原の六男坊が、御簾の向こうからこちらをちらちらとのぞいているのだ。
ほかの近衛たちも気になったらしい。
「中将、あの方はどなたですか? 先ほどから、こちらをちらちらと……」
「気にするな。蔵人頭だ」
「えっ? では、なぜこちらに? 帝から何かご伝令でも?」
「いや。帝は今日はゆっくりなさっているはずだ」
そう答えたものの、英嗣自身が気になって仕方がない。
仕事に集中しようとしても、御簾の向こうから視線を感じる。
かといって、部下たちの手前、「帰れ」とも言えない。
ふと見ると、近くに侍従が控えている。
英嗣は書類を片付けるふりをしながら、さりげなく侍従を御簾の前へ呼んだ。
「……おたくのご主人様、目立ってますよ」
「申し訳ございません。主人がどうしても英嗣様とお話ししたいと申しまして……」
「私と?」
「はい。どうしても、お話ししたいことがあるようでして」
英嗣はちらりと御簾を見る。
「何でしょうね?」
そして声を落とした。
「まあ、いずれにしても、あんなところから覗かれていては、皆が怪しみます。後ほど、こちらから伺うとお伝えください」
「ありがとうございます! すぐに申し伝えます」
侍従は深々と頭を下げると、御簾から離れ、将之のもとへ駆け寄った。
何やら耳打ちする。
すると――
将之の顔がぱっと明るくなった。
そして、嬉しそうにその場を立ち去っていく。
その姿を見送って、英嗣は小さく息を吐いた。
近衛たちも、ほっと胸を撫で下ろした。
ようやく、仕事に集中できそうである。
その日は、英嗣は早めに仕事を切り上げた。
これから太政大臣の館へ向かうのだ。あまり遅くなっては失礼にあたる。
急な呼び出しだったので、身なりを整える暇もなかったが――まあ、今日は太政大臣は宿直のはずだ。館で顔を合わせることもないだろう。
そう思うと、少し気が楽になった。
「まるで、お忍びだな」
英嗣は苦笑した。
やがて太政大臣の館の前に着くと、まず使いの者を立てた。
ほどなく館の者が出てきて、丁寧に挨拶をすると、英嗣の牛車をそのまま門内へ通した。
英嗣の屋敷も、それなりの広さがある。
しかし――
「……広いな」
思わず呟いた。
さすがは太政大臣の館である。
案内されるまま進み、ようやく将之の居間へ通される。
ところが、部屋に入った英嗣は、さらに驚いた。
なんと、夕餉まで用意されている。
「将之様、このようなお支度まで……。私、何も持たず参ってしまい、恥ずかしい限りです」
「何をおっしゃる。私と英嗣殿の間では、遠慮など無用ですよ」
将之はにこにこと笑った。
――いや、将之殿とは、普段挨拶を交わす程度なのだが。
英嗣は心の中で呟いた。
「さあさあ、遠慮なさらず。まずは一献」
将之が盃を差し出す。
「これは……」
断るわけにもいかず、英嗣は盃を受け取った。
将之が酒を注ぐ。
慌てて英嗣も酒を注ぎ返すと、将之は嬉しそうに笑い、そのまま盃を口に運んだ。
英嗣も酒をいただく。
しかし――
一体、何のために呼ばれたのだ?
そんな疑問を抱えたまま、しばらく酒を酌み交わしていると、
「……時に、英嗣殿」
来た。
英嗣は姿勢を正した。
「はい」
「……あの方とは」
「……あの方?」
「いや、その……あの方とは、どのような……」
将之は言葉を濁す。
「どのような?」
「その……」
英嗣は首を傾げた。
「どなたのことでしょう?」
「いや、だから、あの方だ」
「はい?」
話がまったく進まない。
英嗣が困った顔をしていると、とうとう横で控えていた侍従が口を挟んだ。
「申し上げてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「将之様は、先日、幸様と英嗣様が何やら楽しそうにお話しされていたのが、ずっと気になっておいでなのです」
「……!」
将之が侍従を見る。
「おい……冬祢」
「申し訳ございません。ですが、このままでは何もお聞きになれませんので」
英嗣は思わず将之を見た。
将之は、ばつが悪そうに盃を置いた。
「……そういうことだ」
「はあ……」
英嗣はようやく合点がいった。
「幸さんのことですか?」
「そうだ!」
将之の返事だけは、やけに早かった。
「まさか……幸さんとの?」
英嗣が、ふっと笑った。
「いやはや、なるほど。幸さんね」
「なにがおかしい」
将之が少し頬を膨らませる。
「申し訳ない。幸さんと私は、幼い頃から一緒に遊んでいた幼馴染みなんですよ」
「えええええっ!」
将之が目を丸くした。
「私、幼い頃にしばらく吉野で暮らしておりまして。その頃、幸さんも吉野にいらしたんです。野山を駆け回ったり、一緒に昼寝をしたり……よく遊びました」
「えええええっ! 幸殿と寝たのか?」
「だから、子供の頃ですよ」
英嗣は吹き出した。
将之の反応がいちいち可愛らしく、からかいたい気持ちを抑えるのに苦労する。
「……あの方にも、子供の頃があったのか」
将之は、しみじみと遠くを見る。
「さぞかし、美しかったのだろうな……」
「いえ。真っ黒に日に焼けて、髪などいつ整えたのか分からないほど、ぼさぼさでしたよ」
「そんなはずはない!」
将之が即座に否定した。
「英嗣殿、私を油断させようとしても……」
そのとき――
「将之様!」
侍従の冬祢が慌てて駆け込んできた。
「御父上がお帰りになりました!」
「ええっ!」
将之の顔が引きつる。
「今日は宿直だと聞いていたぞ!」
「なにやら物忌みで、急遽お戻りになったようで……」
「まずい!」
英嗣も顔色が変わった。
――よりによって、今か。
春の除目の件もある。
今日、自分がここへ来ていることを父に知られれば、何を言われるか分からない。
「冬祢! 表を見てこい!」
「はい!」
冬祢が飛び出していく。
だが――遅かった。
---
屋敷に戻った太政大臣は、輿から降りながら尋ねた。
「今日は、将之に客か?」
「はい。左大臣家の中将様がお見えです」
「ほう。中将とな?」
太政大臣の眉が、わずかに動く。
「では……英嗣殿か」
「はい」
「そうか」
太政大臣は、ほんの少し笑った。
「せっかくだ。会ってみよう」
「……」
輿をおり、そのまま将之の居間は向かった
その途中冬祢は太政大臣と鉢合わせとなった。
「失礼いたしました。ただいま将之様へごらいきゃ・・・」
慌てて太政大臣の前に回り、歩調を緩めようとする。
「わかっておる、その来客にあいに来たのだ」
――まずい。
冬祢は時間を稼ごうとしたが、太政大臣の足取りは思いのほか速い。
あっという間に、将之の居間へ着いてしまった。
「これはこれは、英嗣殿」
襖が開く。
英嗣は、びくりと顔を上げた。
「今日、貴殿が来ているとは知らなんだ。しかも……二人がこのように親しいとは、つゆほども知らなかった」
「太政大臣様におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
英嗣は素早く頭を下げる。
「本日は、将之殿に帝の近衛としてのお役目について、少々お聞きしたいことがございまして」
英嗣は一瞬、言葉を選んだ。
「将之殿のお人柄に甘え、ついつい長居をしてしまいました」
「そうか、そうか」
太政大臣は、にこやかに頷いた。
「少しは将之も役に立てばよいのだがの」
「父上……」
将之は、すっかり固まっている。
太政大臣は息子を一瞥すると、再び英嗣へ視線を戻した。
「英嗣殿」
「はい」
「帝のお側を守る役目は、気苦労も多いことであろう」
太政大臣は穏やかに笑った。
「しっかりと頼みましたよ」
その一言に、英嗣の背筋が伸びた。
「……はっ。肝に銘じます」
太政大臣の言葉は、それだけだった。
だが英嗣には、その一言が妙に重く感じられた。
「……ありがたきお言葉にございます」
何を考えているのか分からない。
だが――
全部、見透かされているような気がする。
英嗣は、それ以上余計なことを言わないことにした。
「将之殿のお人柄に甘え、長居をしてしまいました。本日はこの辺りで失礼いたします。太政大臣様には、改めて御礼に伺わせていただきます」
深々と頭を下げる。
「さすがは左大臣家のご子息。礼儀も見事なものだ」
太政大臣は穏やかに笑った。
「今度、ゆっくりとな」
「……はっ」
英嗣は、何とか声を絞り出した。
太政大臣は居間を後にした。
「本日は、お越しいただき誠にありがとうございました。主人に代わりまして、御礼申し上げます」
冬祢が深々と頭を下げる。
英嗣は、にやりと笑った。
「今日は、ご主人をいたわってやれ」
「……はい?」
「あの様子では父親が居間にきたことも覚えておらぬぞ、相当、緊張しておられたからな」
そう言い残し、英嗣は屋敷を出た。
そして輿に乗った瞬間――
「…………」
全身から、すうっと力が抜けた。
「はぁ……」
思わず深いため息が漏れる。
「……怖い方だ」
英嗣は、天を仰いだ。
太政大臣は、何も聞かなかった。
何も追及しなかった。
それなのに――
**何もかも見抜かれたような気がした。**
英嗣は輿に揺られて急に疲れがでていつの間にか寝てしまった。




