第六章 冷たい瞳の陰陽師見習い
朝から、宮中の中宮の御所が、いつになくざわついていた。
今日は、元陰陽寮の陰陽頭・賀茂忠継が参内する日だからである。
――もっとも、皆が忠嗣を見たいわけではない。
忠嗣に同行してくる、幸を一目見たいのである。
宮中には、男性が立ち入ることのできない場所も多い。
女御たちにとって、普段、間近で男性を見る機会はそう多くない。
まして幸は、どこか中性的な雰囲気を漂わせている。
涼やかな顔立ち。
凛とした立ち姿。
誰に媚びることもなく、時折浮かべるのは、氷のように冷たい微笑み。
それが、なぜか女御たちの間では大人気なのである。
「今日、あの方もご一緒に参内されるそうよ。楽しみですわ」
「本当に。いつも冷静で、それでいて、誰にも媚びることなく凛々しいお姿……」
「まあ、あの美しくて冷たい瞳に見つめられたら、私、心臓が凍ってしまいそう」
「心臓が凍ったら死んでしまうじゃありませんか。大袈裟ですわ」
「まあ、あなたは情緒がありませんこと。私にとっては、まさに光の君ですわ」
そんな声が、あちらこちらから聞こえてくる。
その様子を御簾の内から聞いていた中宮は、思わず苦笑した。
「本当に……忠嗣様がお越しになるというだけで、この騒ぎですもの。忠嗣様、何か勘違いされなければよろしいのですが」
「まあ、中宮様。忠嗣様がおいくつだと思われていますの?」
身の回りの世話をする伊予の局が、くすくすと笑った。
「今さら勘違いなどなさいませんわ。ほほほ」
「伊予の局、失礼ですわよ……」
そう言いながらも、中宮は袖で口元を隠し、くすくすと笑う。
「ですが、この中で一番楽しみにしていらっしゃるのは、中宮様ではございませんか?」
「まあ……」
伊予の局は、いたずらっぽく中宮を見る。
「今日のお香など、たいそう春らしい、素敵なお香ですこと」
「まあ、いじわるね」
中宮も笑った。
そのとき、
「賀茂忠嗣様、お越しになりました!」
先触れの声が響いた。
途端に、御所の空気が変わる。
「まあ!」
「いらしたのね」
女たちは慌てて姿勢を正し、髪や衣の乱れを整える。
中宮も、ふっと表情を改めた。
さて――今日は、どんな顔をしてお会いしましょうか。
御簾の向こうから、静かな足音が近づいてきた。
忠嗣は中宮の御前に通された。
普段ならば御簾を隔てての対面である。
しかし忠継は、長年にわたり宮中の祈祷や占いに携わり、中宮とも幾度となく言葉を交わしてきた。
そのため、この日は御簾を上げ、直接対面することが許されていた。
「中宮様におかれましては、ご機嫌麗しゅうお過ごしのことと存じます。本日は内密にとのこと。事情も分からぬまま参りましたが、何なりとお申し付けくださいませ」
忠嗣が深々と頭を下げる。
「ええ。本日は、忠嗣殿に少しお聞きしたいことがあり、お呼び立てして申し訳ございません」
「いえいえ。中宮様のお呼びとあれば、どこへなりとも駆けつけますが……」
忠嗣はちらりと幸を見る。
「幸も一緒に、とは……いかがしたことでしょう? 何か、私どもに落ち度でもございましたでしょうか?」
隣では、幸が何事もなかったように控えている。
「え……と……いえ、その……」
中宮が、少し頬を赤らめた。
すると横から、伊予の局が袖で口元を隠し、くすくすと笑う。
「結衣姫が、幸様に猫を見せたいと、朝からせがんでおりまして」
「はあ……猫、と申しますと……あの猫でございますか?」
忠嗣が目を丸くする。
そのとき、幸が顔を上げ、ほんの少し首をかしげた。
「まあ……」
どこからか、声が漏れた。
「首をかしげたお顔も素敵……」
「?」
幸はまったく意味が分からない。
忠嗣と顔を見合わせる。
「……何のことでしょうな」
「さあ……」
二人が首をかしげている間にも、女たちの視線は幸に集まっていた。
中宮が、苦笑しながら御簾の奥へ声をかける。
「結衣姫。お待ちかねの幸様がおいでになりましたよ」
「はい、お母様!」
明るい声が返ってくる。
すると御簾の向こうから、結衣姫が猫を抱いて姿を現した。
「わあ! 幸様! こんにちは!」
満面の笑みで、幸のもとへ駆け寄ってくる。
その勢いに驚いたのか、抱かれていた猫が、
ぴょん!
と結衣姫の腕から飛び降りた。
そして迷うことなく、幸の膝元へすり寄っていく。
「あっ!」
結衣姫が嬉しそうに声を上げる。
「ほら、お母様! 私が言ったとおりでしょう? この猫、絶対に幸様を好きになりますわって!」
「まあ、結衣姫……」
中宮は微笑みながらも、たしなめる。
「分かりましたから、あまりはしゃいではいけませんよ。皆様の前ですから、少しお控えなさい」
「はい、お母様。分かりました」
結衣姫は素直に頷くと、幸の隣にちょこんと座った。
そして、じっと幸を見つめる。
幸は膝元の猫をそっと撫でながら、結衣姫を見返した。
いつもは、氷のように冷たく見えるその瞳。
けれど今、その瞳には不思議な温もりがあった。
結衣姫は、それを敏感に感じ取っていた。
――この瞳は、私だけのもの。
幼い心の中で、結衣姫はそう思っていた。
「では、早速ですが……」
中宮が、少し居住まいを正した。
「忠嗣殿にお聞きしたいことがございます。結衣姫の教育係について、どなたかご推薦いただけないかと思いまして。お心当たりはございませんか?」
「結衣姫様の教育係ですか……」
忠継は、ちらりと結衣姫を見る。
「はい。結衣姫も今年で数えの十歳になります。世間では、そろそろ輿入れを見据えた教育が始まる頃と聞いております」
中宮は少し言葉を選びながら続けた。
「漢詩や和歌、手習いなど……きちんとした方に、しっかりとご指導いただければと思っております」
「なるほど……」
忠嗣は頷いた。
そして、声を少し落とした。
「輿入れ……というお話も、すでに?」
「まあ、まさか」
中宮は小さく笑った。
「そのような話が決まっているわけではございませんわ。ただ……先帝がお亡くなりになり、私も今は中宮などという身に余る立場におりますけれど、明日にはどのような身になっているか分かりません」
その言葉に、忠嗣の表情がわずかに引き締まった。
「財産などというものは、失えばそれまでのものです。人の手に渡ることもございましょう。けれど……」
中宮は、静かに続けた。
「身につけた知識や教養は、自分で学んだものである限り、一生離れていくことはありません」
そして、結衣姫を見る。
「姫にとって、死ぬまで誰にも盗まれることのない財宝となるでしょう」
その言葉に、忠嗣はしばし黙っていた。
「……どのような人生を送ることになったとしても、決して邪魔にはならない。そういうことですね」
「ええ」
中宮は穏やかに微笑んだ。
「結衣姫には、どのような未来が訪れても、自分の力で歩いていけるものを身につけてほしいのです」
忠嗣は深く頷いた。
「中宮様のお考え、よく分かりました」
そして、少し考えてから口を開く。
「相応しい方を、ご推薦いたしましょう。実は、心当たりがございます」
「まあ」
「漢詩や和歌はもちろん、絵にも心得のある方です。きっと姫様の良き師となってくださるでしょう」
「まあ、それは心強いこと」
「まずは先方のお気持ちを伺ってみましょう。承知いただけましたら、改めて参内いたします」
「何卒、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
忠嗣が頭を下げた、そのとき――
「……?」
ふと、幸のほうを見る。
幸の膝の上には、いつの間にか結衣姫がいた。
大人たちの話に飽きてしまったのだろう。
小さな頭を幸の胸元に預け、すうすうと寝息を立てている。
「まあ……姫」
その膝の横では、先ほどの猫までが丸くなり、気持ちよさそうにすやすやと寝息を立てている。
「まあ……姫も猫も、すっかり幸様がお気に入りのようですね」
中宮が思わず微笑む。
御簾の向こうから、先ほどから感じていた女御たちの視線。
中宮は、その理由がようやく分かった。
――なるほど。
これだったのですね。
中宮は伊予の局と顔を見合わせる。
伊予の局も、袖で口元を隠しながら、くすりと笑った。
二人の視線の先では、幸が何も知らず、眠る結衣姫と猫を静かに見つめていた。




