第五十四章 それぞれの思い
大納言家では、小乃葉の出産を前に、屋敷中が慌ただしくなっていた。
というのも、これまで大納言家の娘たちは、なぜか皆、嫁ぎ先で子を産んでいた。実家に戻って出産するのは、小乃葉が初めてだったのである。
普段は冷静沈着な大納言の北の方も、今回ばかりは緊張と不安を隠せずにいた。
一方、父親である大納言は、
「まあまあ、そう慌てずともよい。いずれ生まれるものなのだから」
と、いつもと変わらぬ悠然とした様子である。
それが、北の方の苛立ちをいっそう募らせていた。
「陰陽師は、まだなのですか?」
侍女を呼んでは、何度も尋ねる。
そこへ、家人が駆け込んできた。
「陰陽寮より、幸様がおいでになりました!」
「早く、お通しして!」
北の方が声を上げると、ほどなくして、陰陽師の装束に身を包んだ幸が姿を現した。
間近で見る幸の姿に、北の方は思わず息をのんだ。
「なんて濃い藍色の瞳……」
噂には聞いていた。しかし、こうして目の前にすると、どこか人ならぬものを思わせる、不思議な気配が感じられた。
「遅くなりまして、申し訳ございません」
幸は静かに頭を下げた。
「いえ、お待ちしておりました。こちらへ」
北の方に案内され、小乃葉の部屋へと入る。
苦しげな息を繰り返す小乃葉のそばに、幸は膝をついた。
そして、にっこりと微笑むと、その手を優しく握った。
「小乃葉様、どうぞお気を楽になさってください。大丈夫ですよ。まもなく、お生まれになります」
不思議なことに、先ほどまで苦痛に歪んでいた小乃葉の表情が、ふっと和らいだ。
その直後、元気な産声が部屋いっぱいに響き渡った。
「おめでとうございます! 姫君のご誕生です!」
侍女の声が上がる。
北の方は、待ちきれないとばかりに部屋へ駆け込んだ。
生まれたばかりの姫君を見つめ、それから、疲れ切った小乃葉へと目を向ける。
「よく頑張りましたね……。さあ、お父様にも、この宝物をお見せしませんとね」
そう言って、北の方はようやく安堵したように微笑んだ。
やがて、小乃葉の意識も少しずつはっきりとしてきた。
「……幸様?」
「はい。小乃葉様、本当によく頑張られましたね」
幸は、小乃葉の手を握ったまま答えた。
「お生まれになった姫君は、きっと美しく、気高い女性にお育ちになることでしょう。本日は、本当に良き日でございますね」
そう言ってから、幸は生まれたばかりの姫君へ、静かな眼差しを向けた。
「命がいつ、どのように生まれるか。それは、人の思いどおりにはなりません。けれど、生まれた日だけで、その方の運命が決まるわけでもございません。
ただ、良き日に生まれたのだと、明るい未来を思い描くことは許されるのではありませんか」
小乃葉は、幸の言葉を聞いて、かすかに微笑んだ。
「……本当に。そうでございますね」
そう答えたものの、すぐに疲れが押し寄せてきた。
「少し……疲れました。眠っても、よろしいでしょうか」
「もちろんでございます。どうぞ、お休みください。しばらく、私がそばにおりますから」
幸はそう答え、小乃葉の手を握り続けた。
新しい命が生まれた部屋には、穏やかな静けさが満ちていた。
一方、兼之の屋敷では、瑞穂が東宮妃として入内する日が近づいていた。
さすがの兼之も北の方も、準備に追われる日々を送っていた。
まずは、瑞穂に仕える女房たちを選ばねばならない。身の回りに置く調度や家具を整え、御所で女房たちを取り仕切る者への挨拶や贈り物の手配も必要だった。
兼之は、各大臣家や縁のある屋敷を訪ねては、挨拶と根回しに奔走した。朝から晩まで慌ただしく、気がつけば一日が終わっている。
一方の瑞穂も、東宮妃として恥ずかしくないよう、日々の教育に励んでいた。
作法に和歌、御所での振る舞い、女房たちとの接し方……。覚えることは尽きず、さすがに瑞穂も、毎日の稽古が終わるころにはぐったりしていた。
そもそも、瑞穂の入内がここまで順調に進んだのには、いくつかの事情があった。
話は、五節の舞の頃に遡る。
あのとき、兼之たちは皇太后とのやり取りをうまく収めたつもりでいた。ところが、その後、思いがけないところから援護を受けることになった。
皇太后である。
皇太后は、大臣や公卿たちと顔を合わせるたび、今年の五節の舞について、こんな話をしていた。
「ここだけの話ですが、今年の舞姫には瑞穂殿が選ばれておりますのよ。瑞穂殿が舞えば、天から舞い降りた天女でさえ、思わず見とれてしまうのではないかと思うほどですの。ほほほ」よ
そんな言葉を、あちらこちらで繰り返していたのである。
皇太后にしてみれば、瑞穂を褒めることは、東宮妃にふさわしい女性として周囲に認めさせることにもつながる。帝の妃には絶対したくないのであった。
思惑が違っても結果目的は一緒で当の兼之たちにとっては、思いがけない援護となっていた。
また、今回の五節の舞では、太政大臣家から玖瑠実が童女として加わっていた。実に愛らしい姫で、舞姫たちに花を添えていた。
そして、もう一人、注目を集めた女性がいた。
瑞穂の対抗馬ともいえる、高影の娘である。
その美しさには、誰もが驚いた。瑞穂がいなければ、間違いなく話題をさらっていたであろう。とにかく華やかで、ひときわ目を引く存在だった。
しかし、その華やかさは、皇太后をはじめ、宮廷に仕える女御たちにとって、いささか目障りでもあった。
皇太后は、舞を見ながら小さく眉をひそめた。
「まったく……。身内だからということで、無理に加えましたけど、あのような下品な踊りを披露するとは」
ずいぶんな酷評である。
もっとも、周囲の女御たちも、口には出さずとも似たような思いを抱いていたようだった。
こうして、今年の五節の舞は、例年以上に華やかな顔ぶれとなった。
それぞれの思惑が入り交じるなか、舞姫たちは見事な舞を披露したのである。
一方、東宮は予想どおり、五節の舞で舞う瑞穂に心を奪われた。
舞う姿の美しさはもちろん、その気品ある佇まいに、東宮はすっかり魅了されてしまったのである。
そして、太政大臣を通じて兼之に、できるだけ早く瑞穂を入内させてほしいとの申し出があった。
実は、皇太后もこの話に一役買っていた。
皇太后には、ひとつ気がかりがあった。
五節の舞を見た帝が、瑞穂を気に入り、自らの妃に望むようなことになっては困るのである。
そこで、皇太后はあらかじめ帝に釘を刺していた。
「東宮は、すでに瑞穂殿を心に決めておられるようです。ここで帝が同じ女性をお望みになるようなことがあれば、東宮のお立場もございましょう。何より、皇室の秩序を乱すことにもなりかねません」
息子である帝の気持ちを、先回りして封じたのである。
もっとも、帝には帝で、別の思い人がいた。
中宮である。
帝の心は、今もなお中宮に向けられていた。皇太后の心配は、幸いにも取り越し苦労に終わったのである。
しかし、この帝の中宮への思いが、やがて菜々子を苦しめることになる。
それは、まだ先の話である。
こうして振り返れば、今年の五節の舞は、実にさまざまな思惑が入り交じった催しであった。
東宮の恋心、皇太后の思惑、太政大臣家の思惑、そして帝の秘めた恋心。
それぞれの思いを背負った舞姫たちが一堂に会した今年の五節の舞は、後々まで語り草となるほど、華やかで見事なものであった。
こうして皇太后の援護で瑞穂の東宮妃としての入内は、いつの間にか決定のことのようになっていた。
瑞穂自身も、すでに覚悟を決めていた。兼之も北の方も異存はなく、周囲の話もまとまり、あとは入内の日取りを決めるだけだった。
ところが、その日取りがなかなか決まらない。
そんなある日、思いがけない来客があった。
東宮が、お忍びで兼之の屋敷を訪れたのである。
兼之も北の方も、突然の訪問に驚きながら、大いに喜んで東宮を迎えた。
瑞穂もまた、少し恥じらいながら東宮の前に進み出た。
未来の夫となる人を、こうして間近に見るのは初めてだった。
噂には聞いていたものの、東宮は思いのほか整った顔立ちをしており、その立ち居振る舞いには気品があった。これまで瑞穂が出会ってきた誰とも違う、雅やかな雰囲気をまとっている。
瑞穂は、思わず目を伏せた。
一方、東宮もまた、目の前に現れた瑞穂を見つめ、満足そうに微笑んだ。
やはり、この人を選んでよかった。
そんな思いが、その表情から伝わってくるようだった。
「瑞穂殿には、入内の支度で何かとご苦労をおかけしているようですね」
東宮がそう声をかけると、瑞穂は静かに答えた。
「いいえ。皆がよくしてくださいますので、何も心配はございません」
「それならよいのですが……。実は、私も一日も早くお迎えしたいと思っているのです」
その言葉に、瑞穂は再び頬を赤らめた。
兼之と北の方は、そんな二人の様子を、ほほえましく見守っていた。
二人は、まだ多くを語り合ったわけではない。
それでも、互いを目の前にしたことで、これから始まる夫婦としての暮らしが、急に現実味を帯びてきたのだった。
東宮が帰ったあと、北の方は嬉しそうに言った。
「東宮様も、ずいぶん瑞穂をお待ちくださっているようですね」
「そうだな。あれほどお気に召してくださったのなら、こちらも早く支度を整えねばなるまい」
兼之も、娘の幸せを思い、安堵した様子だった。
それ以来、東宮からは、瑞穂の入内を待ち望む声が、たびたび届くようになった。
しかし、そう簡単にはいかなかった。
入内の日取りをはじめ、重要な事柄は陰陽寮に占わせ、吉日を選んで進めなければならない。何事も慎重に決める必要があり、思うようには進まなかったのである。
瑞穂の輿入れに関する日取りや儀式の段取りは、すべて陰陽寮の保忠に任されていた。
ところが、当の東宮からも、日取りについて尋ねる文がたびたび届く。
「まだ決まらぬのか」
そんな催促を受けるたび、保忠は困り果てた。
占いによって吉日を定める以上、東宮が待ち遠しく思っているからといって、勝手に日を早めるわけにもいかない。
「お気持ちはよくわかりますが、こればかりは……」
保忠は、返事を書くたびに頭を悩ませるのであった。
そして、もっとも忙しい日々を送っていたのが、東宮の衣装や身の回りの支度を任された将之である。
本来、蔵人頭である将之が、そこまで細かな世話をする必要はなかった。
しかし、東宮には、身の回りのことを気兼ねなく相談できる者が少ない。そのうえ将之は、瑞穂の叔父であり、太政大臣の息子でもある。東宮にとっては、何より信頼できる相手だった。
衣装のことから儀式の段取り、さらには瑞穂を迎えるために必要なあれこれまで、次々と相談が持ち込まれる。
「まったく……。私は蔵人頭なのですがね。いつから東宮様のお支度係になったのでしょう」
将之は、顔を合わせる者ごとに愚痴をこぼしていた。
だが、頼りにされること自体は、決して嫌いではない。
東宮が心から自分を頼っていることも、瑞穂を迎える日をどれほど待ち望んでいるかも、将之にはよくわかっていた。
結局、文句を言いながらも、将之は今日もまた、東宮のために忙しく立ち働くのであった。




