第五十三 旅立たち
「父上、姉上、行ってまいります」
式部卿・菅原家に、新たな旅立ちの時が訪れていた。
このたびの勅命により、文章生たちが地方へ派遣されることとなった。もちろん、佐紀の弟・常尚も例外ではない。
式部卿は、息子を見つめて言った。
「元気でな。無理をしてはいけない。しかし、せっかくの機会だ。自分の目で世の中を見てきなさい。今回のことは、お前にとって、必ずよい経験になるはずだ」
「はい、父上」
常尚は、まっすぐに父を見つめて答えた。
佐紀もまた、唐津の君に向き直った。
「あなたも、どうかお気をつけて。弟をよろしくお願いいたします」
そう言って、ほほ笑んだ。
そう、二人は結婚したのであった。
あの日の出来事が、二人の心を深く結びつけるきっかけとなったのである。
佐紀も唐津の君も、再婚同士であった。大人同士の縁であり、式部卿も二人の結婚に反対することはなかった。
しかし、常尚の起こした一件もあり、式部卿はしばらくの間、家のことについても自粛を続けていた。そのため、二人の結婚を世間に公表できずにいたのである。
ところが、佐紀の懐に新しい命が宿っていることがわかった。
そろそろ公表しようかと考えていた矢先、今回の勅命が下ったのだった。
そして、偶然にも常尚の派遣先は大宰府と決まった。
唐津の君も、かつて大宰府で暮らしたことがある。土地にも多少の心得があるため、常尚に付き添い、共に赴くことにしたのである。
結婚したばかりの二人であったが、佐紀にとっては、何よりも弟の身の安全が大切だった。
「常尚を、どうかよろしくお願いいたします」
改めて頭を下げる佐紀に、唐津の君は優しくうなずいた。
唐津の君にとっても、常尚はもう、ただの知人ではない。義弟となり、式部卿という義父もできた。ようやく自分にも家族ができたのだという喜びを、しみじみと感じていた。
そして、その家族のために力を尽くせることが、何よりもうれしかった。
「佐紀も、くれぐれも身体をいたわるのですよ。結衣姫様のご教育も、ほどほどにな」
「そうですわね……。そういえば、中宮様の妹君である小乃葉様も、まもなくご出産のご様子。結衣姫様は、まるでご自分が出産されるかのように、あれこれと尋ねていらっしゃるのです。しかも、私にまで……。さすがに、どうしたら子ができるのかと尋ねられたときには、何と答えればよいものか……」
佐紀は頬を赤らめた。
唐津の君も、思わず苦笑した。
「それは……確かに、答えに困りますね」
二人は顔を見合わせ、笑った。
しばらくの別れを前にしても、そこには悲しみばかりではなく、穏やかな喜びがあった。
「では、そろそろ出立いたしましょう。落ち着いたら、都へ戻ります。その折には、土産をたくさん買ってまいりますよ」
唐津の君はそう言うと、常尚とともに牛車へ乗り込んだ。
牛車がゆっくりと動き出す。
佐紀と式部卿は、遠ざかっていく牛車を、いつまでも見送っていた。
その先に待つものが何であろうとも、今の二人には、信じて送り出すことしかできない。
そして佐紀は、そっと自分のお腹に手を添えた。
まだ見ぬ我が子とともに、夫の帰りを待つ日々が始まるのだった。




