第五十五章 瑞穂の旅立ち
季子は、娘の装束や調度の一つひとつを、丁寧に確かめていた。
幾度も確認してきたはずなのに、どうしても気になるところが見つかる。娘の入内の日が、いよいよ近づいているのだ。
ついに、この日が来る。
季子は、ふと手を止めた。
自分は兼之の妻となったことを後悔してはいない。けれど、心のどこかには、東宮妃になれたかもしれないという思いが、今も残っていた。
あのとき、自分が歩めなかった道を、今度は娘が歩もうとしている。
瑞穂が、自分の思いを受け継いでくれる。
そう思うと、胸に込み上げるものがあった。
そして、ついに入内の日が迫った。
今日は、入内に先立ち、陰陽師と最後の確認を行う。陰陽寮から保忠と幸が屋敷を訪れることになっていた。
瑞穂は、あの日以来、幸と会っていなかった。
また会えると思うと、朝から心が弾んでいた。
「陰陽寮の方がお見えになりました」
侍女の知らせに、兼之たちは居住まいを正した。
「お通しなさい」
保忠と幸が部屋に通された。
季子は、都でも評判の陰陽師である幸を見つめた。瑞穂から聞いていた、あの藍色の瞳が目に留まる。
――本当に、異国の猫のような瞳ね。
そう思いながら、季子は幸を迎えた。
一方、瑞穂は以前とは違う幸の雰囲気に気づいていた。
陰陽師の装束をまとっているせいだろうか。
以前は、どこか人を寄せつけない冷たさを感じていた。けれど、今日は違う。静かな佇まいの中に、人としての温かみが感じられる。
瑞穂は、そんな幸に親近感を覚えた。
兼之は、さっそく当日の段取りを確認し始めた。
出立の時刻、方角に間違いはないか。最近、この屋敷で物忌みはなかったか。東宮御所までの道筋に、何か不吉なことは起きていないか。
一つひとつ、細かく確認していく。
その間、保忠は兼之たちと打ち合わせを続け、幸は別の部屋で、瑞穂が持参する、家具、調度品を入念にみていた。
そこへ、瑞穂がそっと姿を現した。
「幸様!」
「瑞穂様……」
幸は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「この度は、おめでとうございます」
幸が丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます。幸様とお会いするのは、あの日以来ですね」
瑞穂は嬉しそうに笑った。
「あの節は、大変お世話になりました」
「いいえ」
「今日は陰陽師の装束をお召しだからでしょうか。あの時とは、ずいぶん違う雰囲気ですわ」
「そうでしょうか?」
「でも、こちらの方が幸様らしいですわ」
幸は微笑んだ。
「本業ですから」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて瑞穂は、少し声を落とした。
「ところで幸様。皇太后様の一件は、大変だったと伺いました。私も、さすがに宮中へ入るのが怖くなってしまいましたわ」
そう言うと、瑞穂はわずかに肩を震わせた。
幸は、瑞穂の表情を見つめた。
「そうですね……。瑞穂様、怨霊やあやかしと呼ばれるものは、人の思いが作り出すこともございます。ですから、本当に恐ろしいのは、人の心なのかもしれません」
幸は一度言葉を切り、続けた。
「けれど、人の思いには裏も表もございます。同じ思いであっても、受け取る側によって、怨霊にもなれば、一途に誰かを思う気持ちにもなるのです」
「……」
「瑞穂様がこれからお立ちになる場所は、決して容易なものではないと存じます。私が瑞穂様のすべてをお守りすることはできません。けれど、陰陽寮の一人として、そして同じ女性として、お力になりたいと思っております」
幸は柔らかく微笑んだ。
「同じ御所におりますから、これまでよりお会いする機会も増えるかもしれませんね」
「幸様……ありがとうございます」
瑞穂は、幸の手を取った。
「皆、私のことを怖いもの知らずだと思っているようです。私自身も、ずっとそのように振る舞ってまいりました。でも……入内の日が近づくにつれて、やはり怖くなってきたのです。東宮様のお役に立てるのか、私に務まるのか……」
瑞穂は幸の腕をつかみ、うつむいた。
その声は、かすかに震えていた。
幸は、瑞穂の顔をゆっくりと見つめた。
「瑞穂様。私は、東宮様のお生まれになった星と、瑞穂様の星を拝見いたしました」
「星を?」
「はい。お二人は、互いに助け合う巡り合わせにございます」
「助け合う……?」
「ええ。どちらか一方が相手を支えるのではございません。東宮様がお困りのときには瑞穂様が支え、瑞穂様がお迷いになったときには、東宮様が手を差し伸べる。そうして、お二人で歩んでいかれる星でございます」
瑞穂は、少し驚いたように幸を見つめた。
「私が東宮様をお支えするだけではないのですね」
「もちろんでございます。夫婦とは、そのようなものではございませんか」
幸は、いつもの静かな微笑みとは違う、柔らかな笑顔を見せた。
「どうか、お一人で背負おうとなさらないでくださいませ」
瑞穂の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「幸様、ありがとうございます。なんだか、心が軽くなりました」
幸は、瑞穂の手をそっと握り返した。
「瑞穂様なら、大丈夫でございます」
瑞穂は、今度は顔を上げて微笑んだ。
幸と瑞穂が部屋から戻ってきたとき。
季子は、娘の表情が先ほどとは違うことに気づく。
「瑞穂、何かよいことでもありましたか?」
「はい、お母様。少しだけ、楽しみになってまいりました」
兼之も娘の顔を見て、ほっとしたように笑う。
「そうか。それならよかった」
季子は瑞穂の装束に目をやる。自分がかつて夢見た東宮妃の装束を、今、娘が身にまとう。
けれど、もう自分の夢を娘に背負わせているとは思わない。
瑞穂は瑞穂自身の人生を歩もうとしているのだ。
そして時はあっというまに過ぎ・・・
今日の弥生の空はどこまでも晴れわたっていた。
「出立!」
その声を合図に、瑞穂を乗せた輿がゆっくりと動き出した。
華やかな装束に身を包んだ供の者たちが続き、東宮御所へと向かう行列は、まるで都の春を彩る絵巻のようであった。
その行列の豪華さは、後々まで人々の語り草になったという。
瑞穂、二十一歳。
それは、母の夢を受け継ぐだけではない、自らの未来へと踏み出す旅立ちであった。
第一部完結




