↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

55/55

第五十五章 瑞穂の旅立ち

季子は、娘の装束や調度の一つひとつを、丁寧に確かめていた。

幾度も確認してきたはずなのに、どうしても気になるところが見つかる。娘の入内の日が、いよいよ近づいているのだ。

ついに、この日が来る。

季子は、ふと手を止めた。

自分は兼之の妻となったことを後悔してはいない。けれど、心のどこかには、東宮妃になれたかもしれないという思いが、今も残っていた。

あのとき、自分が歩めなかった道を、今度は娘が歩もうとしている。

瑞穂が、自分の思いを受け継いでくれる。

そう思うと、胸に込み上げるものがあった。

そして、ついに入内の日が迫った。

今日は、入内に先立ち、陰陽師と最後の確認を行う。陰陽寮から保忠と幸が屋敷を訪れることになっていた。

瑞穂は、あの日以来、幸と会っていなかった。

また会えると思うと、朝から心が弾んでいた。

「陰陽寮の方がお見えになりました」

侍女の知らせに、兼之たちは居住まいを正した。

「お通しなさい」

保忠と幸が部屋に通された。

季子は、都でも評判の陰陽師である幸を見つめた。瑞穂から聞いていた、あの藍色の瞳が目に留まる。

――本当に、異国の猫のような瞳ね。

そう思いながら、季子は幸を迎えた。

一方、瑞穂は以前とは違う幸の雰囲気に気づいていた。

陰陽師の装束をまとっているせいだろうか。

以前は、どこか人を寄せつけない冷たさを感じていた。けれど、今日は違う。静かな佇まいの中に、人としての温かみが感じられる。

瑞穂は、そんな幸に親近感を覚えた。

兼之は、さっそく当日の段取りを確認し始めた。

出立の時刻、方角に間違いはないか。最近、この屋敷で物忌みはなかったか。東宮御所までの道筋に、何か不吉なことは起きていないか。

一つひとつ、細かく確認していく。

その間、保忠は兼之たちと打ち合わせを続け、幸は別の部屋で、瑞穂が持参する、家具、調度品を入念にみていた。

そこへ、瑞穂がそっと姿を現した。

「幸様!」

「瑞穂様……」

幸は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。

「この度は、おめでとうございます」

幸が丁寧に頭を下げる。

「ありがとうございます。幸様とお会いするのは、あの日以来ですね」

瑞穂は嬉しそうに笑った。

「あの節は、大変お世話になりました」

「いいえ」

「今日は陰陽師の装束をお召しだからでしょうか。あの時とは、ずいぶん違う雰囲気ですわ」

「そうでしょうか?」

「でも、こちらの方が幸様らしいですわ」

幸は微笑んだ。

「本業ですから」

二人は顔を見合わせて笑った。

やがて瑞穂は、少し声を落とした。

「ところで幸様。皇太后様の一件は、大変だったと伺いました。私も、さすがに宮中へ入るのが怖くなってしまいましたわ」

そう言うと、瑞穂はわずかに肩を震わせた。

幸は、瑞穂の表情を見つめた。

「そうですね……。瑞穂様、怨霊やあやかしと呼ばれるものは、人の思いが作り出すこともございます。ですから、本当に恐ろしいのは、人の心なのかもしれません」

幸は一度言葉を切り、続けた。

「けれど、人の思いには裏も表もございます。同じ思いであっても、受け取る側によって、怨霊にもなれば、一途に誰かを思う気持ちにもなるのです」

「……」

「瑞穂様がこれからお立ちになる場所は、決して容易なものではないと存じます。私が瑞穂様のすべてをお守りすることはできません。けれど、陰陽寮の一人として、そして同じ女性として、お力になりたいと思っております」

幸は柔らかく微笑んだ。

「同じ御所におりますから、これまでよりお会いする機会も増えるかもしれませんね」

「幸様……ありがとうございます」

瑞穂は、幸の手を取った。

「皆、私のことを怖いもの知らずだと思っているようです。私自身も、ずっとそのように振る舞ってまいりました。でも……入内の日が近づくにつれて、やはり怖くなってきたのです。東宮様のお役に立てるのか、私に務まるのか……」

瑞穂は幸の腕をつかみ、うつむいた。

その声は、かすかに震えていた。

幸は、瑞穂の顔をゆっくりと見つめた。

「瑞穂様。私は、東宮様のお生まれになった星と、瑞穂様の星を拝見いたしました」

「星を?」

「はい。お二人は、互いに助け合う巡り合わせにございます」

「助け合う……?」

「ええ。どちらか一方が相手を支えるのではございません。東宮様がお困りのときには瑞穂様が支え、瑞穂様がお迷いになったときには、東宮様が手を差し伸べる。そうして、お二人で歩んでいかれる星でございます」

瑞穂は、少し驚いたように幸を見つめた。

「私が東宮様をお支えするだけではないのですね」

「もちろんでございます。夫婦とは、そのようなものではございませんか」

幸は、いつもの静かな微笑みとは違う、柔らかな笑顔を見せた。

「どうか、お一人で背負おうとなさらないでくださいませ」

瑞穂の目に、うっすらと涙が浮かんだ。

「幸様、ありがとうございます。なんだか、心が軽くなりました」

幸は、瑞穂の手をそっと握り返した。

「瑞穂様なら、大丈夫でございます」

瑞穂は、今度は顔を上げて微笑んだ。

幸と瑞穂が部屋から戻ってきたとき。

季子は、娘の表情が先ほどとは違うことに気づく。

「瑞穂、何かよいことでもありましたか?」

「はい、お母様。少しだけ、楽しみになってまいりました」

兼之も娘の顔を見て、ほっとしたように笑う。

「そうか。それならよかった」

季子は瑞穂の装束に目をやる。自分がかつて夢見た東宮妃の装束を、今、娘が身にまとう。

けれど、もう自分の夢を娘に背負わせているとは思わない。

瑞穂は瑞穂自身の人生を歩もうとしているのだ。



そして時はあっというまに過ぎ・・・

今日の弥生の空はどこまでも晴れわたっていた。

「出立!」

その声を合図に、瑞穂を乗せた輿がゆっくりと動き出した。

華やかな装束に身を包んだ供の者たちが続き、東宮御所へと向かう行列は、まるで都の春を彩る絵巻のようであった。

その行列の豪華さは、後々まで人々の語り草になったという。

瑞穂、二十一歳。

それは、母の夢を受け継ぐだけではない、自らの未来へと踏み出す旅立ちであった。

              第一部完結





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。