第五十一章 皇太后と瑞穂の母の対決
兼之は、北の方である季子とともに、入道の屋敷を訪れていた。
皇太后から、二人そろって呼び出しを受けたのである。
「皇太后様におかれましては、その後、お加減はいかがでございましょうか」
兼之が挨拶すると、皇太后は穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。おかげで、だいぶ回復いたしました。そろそろ御所へ戻ろうかと思っております」
「まあ、それはようございました」
季子も安堵したように微笑んだ。
「本日、二人に来てもらったのは、太政大臣から、瑞穂殿を今年の五節の舞姫に選びたいという話があったからです。私としては、少々気になることがありましてね。それを確かめておこうと思ったのです」
「……え?」
兼之と季子は、思わず皇太后の顔を見た。
皇太后は、まず兼之に目を向けた。
「兼之殿、一つお尋ねしたいことがございます」
「何でございましょう」
「あなた方の本当の狙いは何です?」
「えっ……」
二人は思わず顔を見合わせた。
「あなた方と入道家との間には、昔からの因縁があり、深い溝があることも承知しております。今回、なぜ瑞穂殿を舞姫に選ぼうとしているのか。それを聞いているのです」
突然の問いに、兼之はわずかに目を見開いた。
「皇太后様……」
季子は皇太后を真っすぐに見つめた。
「何です? 申したいことがあれば、遠慮なくおっしゃいなさい」
皇太后の目に鋭い光が宿った。
「まさか皇太后様、私たちが帝のもとへ娘を入内させたくて、今回の話を進めているとお考えなのですか?」
季子の真っすぐな声に、皇太后は一瞬、言葉に詰まった。
「……違うのですか?」
思わず本音が口をついて出た。
季子は、にっこりと微笑んだ。
「違いますわ」
そして、少しも臆することなく続けた。
「皇太后様。当家は、あの政変の後、二度と不相応な望みや野心を抱かぬよう、家中の者にも言い聞かせております。娘を帝の妃になどと考えたこともございません」
季子は一度言葉を切り、皇太后の顔を見た。
「ようやく朝廷が、今上帝のもとで新たな改革を進めようとしているのです。それを娘の入内などで妨げるのは、愚かなことでございましょう。帝は立派なお方です。さすがは皇太后様のお子だと、私も感心しております。見習いたいほどですわ」
そう言って、季子はちらりと皇太后を見た。
「今回の五節の舞は、新たな朝廷がますます繁栄するよう、五穀豊穣を願うものと聞いております。瑞穂という名は、豊葦原瑞穂国からいただいたもの。まさに、この国の実りを願う舞にふさわしい名ではございませんか」
季子は笑顔を向けた。
「このたびは、瑞穂という名の娘が舞姫を務めることに意味があると、太政大臣から説得されまして、お受けしたのですわ」
皇太后は、それ以上追及することなく、窓の外へ目を向けた。
季子は、そんな皇太后の横顔をじっと見つめていた。
やがて皇太后は、静かに口を開いた。
「私はこれまで、藤原家の人間であることに誇りを持って生きてまいりました」
その声には、これまでの自分を振り返るような響きがあった。
「藤原家なくして、朝廷はまとまりませぬ。わが一族があってこその朝廷だと、そう信じておりました。誰かの恨みを買おうとも、一族を守ること。それが、ひいては帝を守ることにもなる。私は、それこそが自分の務めだと考えてきたのです」
皇太后は、ふっと息をついた。
「けれど……今回のことは、さすがにこたえました」
そう言って、苦笑した。
「だからといって、帝の母として、また藤原家の人間として、一族を守ることをやめるわけにはまいりません」
その言葉に、兼之も季子も黙って耳を傾けた。
「ですから、太政大臣から瑞穂殿の五節の舞について話を聞いたとき、正直に申せば、帝の妃になりたいのではないかと思いました」
皇太后は、二人をまっすぐに見た。
「娘の入内を足がかりに、兼之殿が再び中央政界で力を得ようとしているのではないか。そう考えたのです。今も、その懸念が消えたわけではございません」
季子が、思わず顔を上げた。
「私も、そなたたち一族と良い関係を築くことが、帝のため、ひいては入道藤原家のためになると思っております」
皇太后は続けた。
「太政大臣から、これからの朝廷について話を聞きました。一人に権力を集中させれば、物事が早く進むという利点はあります。しかし、その者の資質によって政治そのものが変わってしまう危うさもある、と」
皇太后は、ゆっくりとうなずいた。
「なるほどと思うところもございました。東宮が帝を支え、帝と力を合わせて朝廷を治めていく。それがかなえば、政も安定するでしょう。私も、これまでより少し後ろに下がり、帝を見守っていこうと思っていた矢先でした」
そこで皇太后は、二人に視線を戻した。
「それだけに、今回の話には、正直、騙されたような気持ちにもなりましてね。兼之殿、あなたの本心を確かめておこうと思ったのです」
その声が、わずかに低くなった。
「私は、そなたたちをすべて信じているわけではありません。けれど、信じなければ前に進めないこともあるのでしょう」
部屋に静かな沈黙が落ちた。
しばらくして、皇太后は少し表情を和らげた。
「中宮は、政治を支えることには向いておりません。東宮殿にも、どなたか良い后が来てくだされば、東宮も落ち着いて政に集中できるかもしれませんね」
「皇太后様……」
季子は、返す言葉を見つけられなかった。
皇太后は、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、瑞穂殿はおいくつでしたか?」
「二十一歳でございます」
「……東宮と、ちょうど良い年頃ですね」
皇太后は、独り言のようにつぶやいた。
季子と兼之は、皇太后の表情を注意深く見つめた。
やがて皇太后は、二人に向き直った。
「今日は、そなたたちの考えを聞くことができました。わざわざ呼び出して申し訳ありませんでした。太政大臣にも、私が疑っていたことを詫びていたとお伝えください」
兼之は、言葉を選ぶようにして答えた。
「……皇太后様のお気持ち、藤原家を守ることの重み、ひしひしと感じております。わが家は、あの政変で大宰府へ逃れた身。今さら過去を振り返ったところで、変えられるものでもございません」
兼之は、ゆっくりと顔を上げた。
「ただ、以前よりは少しばかり、世間というものを知ったつもりでおります。皇太后様の目に、私どもがどのように映っているのかも……多少は想像できるようになりました」
「そうですか」
皇太后は静かにうなずいた。
そして、次の瞬間、その目に鋭い光が宿った。
「私も、これからも誠心誠意、帝にお仕えいたしましょう」
それだけを告げた。
兼之と季子は、深く頭を下げ、屋敷を後にした。
帰りの牛車の中で、二人はしばらく黙っていた。
やがて兼之が口を開いた。
「皇太后様は、やはりおそろしい方だな」
「ええ。あそこまで、物事をはっきりとおっしゃるとは思いませんでした」
「ああ」
兼之は、しばらく考え込んでいたが、ふと口を開いた。
「お兄様が言っていた通りだな。女であれば、政の頂点に立つこともできたお方だ」
「本当に……」
季子も、感心したようにつぶやいた。
兼之は、窓の外に目を向けた。
「皇太后は、東宮妃に、もしや瑞穂を考えているのかもしれぬな」
「ええ……私もそう思いました」
「まあ、いずれにせよ、こちらの予定通りだが……」
「ええ。さすがお兄様だわ」
季子は、楽しそうに笑った。
「ふっ……瑞穂にとっても、よい試練になるだろう」
季子は、そっと目を伏せた。
「あの子なら、きっと乗り越えられる。だって、私の娘ですもの」
胸の内でそう言い聞かせる。
その眼差しには、もはや母としての心配だけではない、政治の先を見据える者としての冷静な光が宿っていた。




