第五十章 太政大臣の思い
太政大臣は、今回の文書生たちの騒動を、どのように収めるべきか思案していた。
文書生たちの抗議活動については、少しずつ都の貴族たちの間にも噂が広がり始めていた。
しかも、事態は思わぬ方向へと進んでいた。
抗議に参加した者と、参加しなかった者との間で溝が生まれ、今度は、その矛先が博士たちに向けられたのである。
「まったく、頭でっかちなお坊ちゃまたちは、扱いが面倒だ」
太政大臣は、苦笑いを浮かべた。
さらに式部卿は、息子の行動に対する責任を取るかたちで、自ら謹慎している。
太政大臣としては、瑞穂の東宮妃への入内について、式部卿とも相談を進めておきたかった。しかし、当の本人が不在では話を進めるわけにもいかない。
何事にも筋を通そうとする、あの頑固な性格を思えば、こちらの都合だけで話を進めることもできなかった。
「……早く戻ってきてもらいたいものだ」
太政大臣は、ひとり呟いた。
そしてその日のうちに、右大臣、左大臣、大納言を自邸へ密かに招き、今後の策を練ることにした。
三人が集まると、太政大臣はさっそく本題を切り出した。
「本日は、これからの朝廷のあり方について、皆様のお考えも伺いたく、お集まりいただきました」
そう前置きしてから、太政大臣は自らの考えを語り始めた。
「私は、東宮を中心に若い公達をまとめていきたいと考えております。彼らには、これからの朝廷を担う者として、自ら考え、行動する力を身につけてもらわねばなりません」
そこで一度、言葉を切った。
「そして、東宮には帝との結びつきを、より深めていただきたい。帝のお考えを知り、帝のお言葉を受け止め、その御意向のもとで若い者たちが力を尽くす。そうしてこそ、将来の朝廷は盤石なものとなりましょう」
大臣たちは、黙って耳を傾けていた。
「そのためにも、東宮のお側を支える者たちを、今から整えておく必要がございます」
太政大臣は、三人を見渡した。
「瑞穂殿を東宮妃としてお迎えしたいと考えております」
その言葉に、大臣たちの視線が集まった。
「瑞穂殿には、これまで都の外で培われた経験がございます。華やかな宮中で育った姫君たちとは違うものを、あの方は身につけておられる。東宮をお支えするうえでも、きっと力になってくださるでしょう」
もちろん、瑞穂ひとりに東宮を支えさせようというのではない。
東宮の周囲に信頼できる者たちを集め、帝との間に確かな信頼を築き、若い公達がそれぞれの立場で力を発揮できるようにする。
そのための一手として、瑞穂の入内を考えていたのである。
「これは、私ひとりで進められる話ではございません。皆様にも、この考えをご理解いただき、それぞれのお立場から力を貸していただきたいのです」
太政大臣は、そう言って大臣たちの返答を待った。
右大臣は、しばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「太政大臣のお考え、よくわかりました。実は私も、若い者たちの動きについて、少々耳にしております」
「ほう、それは?」
左大臣が顔を向けた。
「文書生たちの中には、ただ学問を修めるだけでなく、今の世のあり方について、自分たちなりに考えている者もいるようです」
右大臣は、言葉を選ぶように続けた。
「身分や家柄によって、初めから進む道が決まってしまう。そのような世の中に、疑問を抱く者もいるのでしょう。もっとも、彼らはまだ若い。考えが足りぬところもあるでしょうが……」
「だからこそ、でございます」
太政大臣が静かに応じた。
「若いうちから、世の中を考えることをやめさせてはなりません。たとえ考えが未熟であっても、耳を傾け、正すべきところは正し、学ばせる。それが、上に立つ者の務めではないでしょうか」
右大臣は、わずかに頷いた。
「なるほど。押さえつけるのではなく、導くということですな」
「そうです。東宮には、彼らの思いを受け止め、まとめていただきたい。そして、帝にも若い者たちの考えを知っていただく。彼らが朝廷に仕えることの意味を、自ら見いだせるようにしたいのです」
右大臣は、太政大臣を見つめた。
「若い者たちが都の外から世の中を見ることには、意味があると考えているようでした。常尚殿を大宰府へ向かわせる話も、その一つなのでしょう」
「そうですな。都にいては見えぬものもある。外から都を眺めることで、初めて気づくこともございましょう」
太政大臣は、そこで一度言葉を切った。
「私は、そのような若者たちの力を、これからの朝廷に生かしたいのです」
右大臣の話を聞き、左大臣も静かに口を開いた。
「実は私も、常々思っていたことがございます」
二人の大臣が、左大臣に目を向けた。
「人は、生まれた家によって、その先の人生まで決められてしまう。家柄がよければ、さしたる才がなくとも重く用いられ、反対に、どれほど才があろうとも、生まれた家によっては、その力を世に示す機会すら得られぬ……」
左大臣は、ゆっくりと言葉を継いだ。
「これが、果たして朝廷にとってよいことでありましょうか」
しばし、部屋に沈黙が流れた。
「もちろん、家を守ることも、家を継ぐことも大切です。しかし、それだけで人の価値を決めてしまっては、いずれ朝廷を支えるべき人材まで失うことになりましょう」
右大臣が、深く頷いた。
「私も、同じことを考えておりました」
左大臣は太政大臣に向き直った。
「若い者たちが、今の世に疑問を抱いているというのなら、ただ過ちとして退けるのではなく、まずは話を聞くべきでしょう。彼らが何を見て、何を考え、何を変えたいと願っているのか。それを知ることも、我らの務めではございませんか」
太政大臣は、満足げに目を細めた。
「左大臣殿のお言葉、まことに心強く存じます」
そして、居並ぶ大臣たちを見渡した。
「そこで、一つ提案がございます」
太政大臣が、居並ぶ大臣たちを見渡した。
「文章生たちを、一度、地方へ派遣してみてはどうかと考えております」
「地方へ?」
大納言が、意外そうに聞き返した。
「はい。主要な国々へ派遣し、受領や国司と直接会い、現地の実情を調べさせるのです。賄賂が横行しているという噂は、果たして事実なのか。民はどのような暮らしをしているのか。役人たちの仕事ぶりも含め、実際に見聞きしたことをまとめさせたい」
太政大臣は、そこで一度言葉を切った。
「そして、都へ戻った者たちは、東宮のもとで報告をまとめる。東宮から帝へ奏上し、それをもとに、帝と大臣たちが意見を交わすのです」
「ほう。それは面白いですな」
大納言が感心したように声を上げた。
「文章生たちにとっては、なかなか骨の折れる仕事となりましょうな」
左大臣が言うと、太政大臣は頷いた。
「もちろん、容易なことではございません。しかし、今回の騒ぎに加わった者たちを、何事もなかったかのように大学寮へ戻すわけにもまいりません」
太政大臣は、少し厳しい表情になった。
「いったん都を離れ、自らの行いを振り返る時間を持つことも必要でしょう。都にいては見えぬものも、地方へ行けば見えてくる。自分たちが学んできたことが、世の中でどのように生かされているのか。それを自分の目で確かめるのです」
「しかし……」
右大臣が慎重に口を開いた。
「文章生の中には、罰として地方へ追いやられたと受け取る者もいるのではありませんか」
「確かに、そのように思う者もおりましょう」
太政大臣は、ためらうことなく答えた。
「実際、今回の騒ぎに加担した者たちなのですから、そう思われても仕方のないところはございます」
そして、声に力を込めた。
「だからこそ、東宮が率いることに意味があるのです。単に地方へ追いやるのであれば、これは処罰にすぎません。しかし、東宮が彼らの報告を受け、共に考え、帝へ奏上するのであれば、話は違います」
大臣たちは、黙って耳を傾けていた。
「東宮ご自身が、若い者たちの考えを受け止め、彼らと共に世の実情を知る。そして、帝にもその声を届ける。これは、東宮のお立場だからこそできることだと、私は考えております」
しばらく考え込んでいた大臣たちも、やがて頷いた。
「なるほど。やってみる価値はありそうですな」
大納言の言葉に、右大臣も左大臣も同意を示した。
「では、この一件について、大納言殿から皇太后様へお話しいただけませんか」
太政大臣が頼むと、大納言は、ははは、と笑った。
「私でよろしければ、お話ししてみましょう」
その返答に、太政大臣は満足げに頷いた。
大納言家は、古くから朝廷に重きをなしてきた由緒ある家柄である。皇太后に話を通すにも、その家格と人脈は大きな意味を持つ。
家柄だけで人の価値を決めてはならぬ。
そう考える太政大臣であっても、家柄が政治を動かす力を持つことは、よく承知していた。
理想を掲げるだけでは、物事は進まない。時には古くからのしきたりを重んじ、時にはそのしきたりを逆手に取る。
それもまた、政治というものであった。
こうして、三人の大臣の合意のもと、新たな策が動き始めた。




