第四十九章 大人の事情
今日は賑やかだね」
宇治の別邸を訪れた安信は、楽しげな声に微笑んだ。
「はい。今日は幸様が薬草と干柿を持ってきてくださいました。奥様も、ずいぶんご気分がよろしいようで」
「そうか。それはよかった」
安信は北の方の部屋へと向かった。
「楽しそうだね」
そう声をかけて部屋に入ると、北の方が嬉しそうに顔を上げた。
「あなた、幸さんが干柿をくださったのですよ」
「ほう。おいしそうだね」
「お父様、それでね、幸様が小さい頃、木登りをして柿の木から落ちたことがあるのですって。それも、落ちた先にあったのが渋柿だったそうで……。そのお話がおかしくて」
「安信様も、いかがですか?」
「……ああ、これはどうも。ごちそうになります」
思わず受け取った安信は、ふと幸の顔を見た。
そして、その瞳に目を奪われた。
藍色――。
今まで気づかなかった。幸は、こんな色の瞳をしていたのか。
なぜだろう。
どこかで、この瞳を見たことがあるような気がする。
「どうかなさいましたか?」
幸に尋ねられ、安信ははっと我に返った。
「あ、いや……干柿など、ずいぶん久しぶりにいただくものだからね。懐かしくなってしまった」
「菜々子がまだ幼かった頃、柿をいただいたからと、みんなでこっそりかじってみたことがありましたでしょう。ところが、それが渋柿で……。菜々子は泣き出すし、私も、はしたないことに、思わず口から出してしまって。あなたも、あのときはひどい目に遭いましたね」
「そんなこともあったね」
安信も、思わず笑った。
「まあ、そんなことがあったのですか。私、覚えておりませんわ」
菜々子は不思議そうに両親を見つめた。
安信は、そんな娘をしみじみと眺めた。
「……菜々子も、大人になったものだ」
「ええ、本当に」
北の方も、愛おしそうに娘を見つめた。
しばらく、穏やかな空気が部屋を満たした。
だが、やがて北の方が尋ねた。
北の方は、静かに目を伏せた。
「……やはり」
そのひと言には、予感していたことが現実になった悲しみが滲んでいた。
菜々子は何も言わず、ただ父の顔を見つめていた。
喜びも、戸惑いも、まだ言葉にはならない。
その場にいる誰もが口を閉ざす中、幸だけが静かに頭を下げた。
「おめでとうございます」
そして、菜々子に向き直った。
「菜々子様。私が申し上げるまでもないことかもしれませんが……」
幸は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
菜々子様なら、きっと立派にお役目を果たされることと存じます。どうかご自身のお心を大切に、菜々子様らしくお進みくださいませ」
「それでは、私は皇太后様にお伝えしてくる。しばらくは戻れそうにないが、今はしっかりと身体を休めて、都へ帰る支度をしておこう」
幸は北の方に向き直り、静かに告げた。
「北の方様、私は菜々子様を信じております。どうか北の方様も、御心安らかにお過ごしくださいませ」
「父上には、どのようにお伝えすればよいかしら」
「皇太后様から、お話があるはずです」
「そう……。父上も、きっと喜んでくださるわ。私、父上にお会いして、直接お話ししたいの」
「わかった。都へ戻ったら、相談してみよう。これからは何かと忙しくなる。今のうちに、ゆっくり身体を休めておきなさい」
そう言ってから、安信は幸に目を向けた。
「幸殿、妻を頼みます」
幸は何も言わず、静かに頷いた。
屋敷の外には、早春の柔らかな日差しが降り注いでいた。
穏やかな一日だった。
一方、安信の異母弟は、どこからか菜々子の入内が本決まりになったという噂を聞きつけていた。
「菜々子の入内が決まりそうだ」
異母弟の高影は、苦々しい顔で言った。
「まあ、やはり噂は本当でしたのね」
妻が驚いたように声を上げる。
「まったく、同じ側室腹だというのに、北の方は昔から安信ばかりを贔屓になさって。あのように、のらりくらりとした男のどこがよいのやら。おかげで皇太后様まで、私たちとは扱いが違う。こちらはいつも損な役回りだ」
「それに、菜々子は帝より年上だとか。容姿だって、取り立てて目を引くほどでもありませんのに。まったく、どうしてあのような娘が選ばれるのでしょう」
妻は、さらに不満を募らせた。
「それに比べて華子は、名に負けぬ華やかな娘ですわ。帝より年下ですし、気立てもよい。どう考えても、華子の方が妃にふさわしいと思いませんこと?」
「まったくだ。そもそも我が家も大納言家。瑠美殿のご実家は左大臣家かもしれぬが、こちらは藤原摂関家の血筋。家柄からして違う」
二人は顔を見合わせ、どこか不満げに扇を揺らした。
やがて、高影が思い出したように口を開いた。
「そういえば、今度の五節の舞に、兼之殿の娘、瑞穂殿が出るらしい」
そう言って妻の顔を見た。
「瑞穂殿?」
「ああ。兼之殿のことだ。大方、帝の女御にでも推挙してもらおうという魂胆だろう」
「まあ、ずうずうしいことですわね」
妻は眉をひそめたが、ふと考え込むような顔になった。
「でも、瑞穂殿のあの美貌には、さすがの華子も敵わないかもしれませんわ……」
「なあに、帝はまだ十六だ。ずいぶん大人びてはいるが、まだまだ若い。瑞穂殿が確かに美しいのは認めるが、それが帝の好みに合うかどうかは別の話だ」
高影は、意味ありげに声を潜めた。
「帝の家系は、ほら……先々帝にしても、好みというものがあっただろう」
「ああ、確かにそうですわね」
妻は何かを察したように笑った。
「それなら、華子にも十分勝算がありますわね」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。
そのとき、高影がすっと立ち上がった。
「どちらへ?」
妻が尋ねる。
「皇太后様のところへ根回しに行ってくる。華子を五節の舞姫に加えていただくためにな」
そう言って、高影は部屋の隅に用意してあった手土産に目を向けた。
「あら、まあ。それでは私は、実家の父に話を通しておきますわ。こちらも力を貸してもらわなくては」
妻も立ち上がり、二人はそれぞれの思惑を胸に、部屋を後にした。




