第四十七章 太政大臣の勝負
兼之は、太政大臣の屋敷を訪れた。
住職が死の間際に託した書状を差し出すと、太政大臣は黙って受け取り、読み始めた。
兼之は、太政大臣が読み終えるのを静かに待った。
やがて、太政大臣は書状をたたむと、しばらく手元を見つめていた。
「兼之殿、今回の騒ぎ、そなたはどう考える?」
それは、兼之にも考えを述べる機会を与えようという、太政大臣の配慮であった。
「そうですな……」
兼之は少し考え、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「事を大きくしないほうが、賢明かと存じます」
「ほう……その心は?」
「まず、今回の騒ぎの真の目的が何であったのか、それを裏付ける証拠がございません。また、文書生のうち、誰が関わっていたのかも、今となっては憶測でしか探ることができませぬ」
兼之は一度言葉を切り、さらに続けた。
「ならば、個人的な恨みによる事件として収めたほうが、皆も納得しやすいのではないでしょうか。それに、今回は陰陽師も絡んでおります。ここは陰陽寮の力を借り、事を収めるのがよろしいかと存じます」
「うむ……そうだな」
太政大臣は小さくうなずいた。
「事を大きくしたところで、何かが変わるわけでもあるまい。私怨によるものとして収めるのがよかろう」
そう言って、手元の書状に目を落とした。
「住職も、自分一人でしでかしたことだと書いておる。己の恨みに付け込まれ、陰陽師に都合よく利用されてしまった……とな」
太政大臣は、深いため息をついた。
「「ただな……今回の騒動に加わった、頭でっかちな若者たちをどう治めるか。それが問題だ」
太政大臣は、顔をしかめた。
「押さえつければ、かえって反発いたしましょう。かといって、好きにさせるわけにもまいりません」
兼之は、少し考えてから答えた。
「ならば、考えるだけでなく、実際に何かを成す機会を与えてはいかがでしょう」
「何かを成す、とな?」
「はい。学問を修め、議論を重ねることは大切です。しかし、それだけでは世の中は変わりませぬ。己の考えが正しいと申すのであれば、それを実際の政に役立ててみればよいのです」
太政大臣は、兼之の顔を見つめた。
「なるほど……。若者たちの意見を聞くだけでなく、働いてもらうということか」
「さようにございます。ただ罰するよりも、己の未熟さを知る機会を与えるほうが、先々のためにもなりましょう」
太政大臣は、しばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「東宮に、その役目を担っていただくか……」
兼之は、静かに頭を下げた。
「若い者たちの考えを聞き、世の中の実情を知る。それは東宮様にとっても、よき学びとなりましょう」
太政大臣は、窓の外へ目を向けた。
「若者たちの熱意を、ただの騒ぎで終わらせるわけにはいかぬな……」
その言葉には、若者たちへの苦言だけでなく、これからの朝廷を担う者たちへの期待も込められていた。
「東宮様も、今回のことで、ご自身の立場を理解されたことでしょう。自らの足で歩き始めなければ、何も始まらぬということも……」
兼之が言うと、太政大臣は小さくうなずいた。
「まあ、世間知らずの東宮様には、よい勉強となったわけだ」
「帝と比べてはなんだが、なんだかんだと、皇太后様は帝をしっかりとお育てになりましたからな」太政大臣といい苦笑した。
「そうですね。悪い噂も多い皇太后様ですが・・並みの大臣など蹴散らすくらいの頭の良さをお持ちですからね」
そして、少し考えるように間を置いた。
「皇太后様は、守らねばならぬものが多いお方だ。それでも、誰かに甘えることなく、ご自身の務めを果たしてこられた。……まあ、そこが世の男たちには、生意気に映るのだろうがな」
そう言って、太政大臣は笑った。
「東宮様には、そうした教育を指南できるお方が、これまでおそばにいなかった。それゆえ、持って生まれた才を十分に生かせなかっただけだ。これからは、もっと働いていただかねばな」
そう言って、ふっと間を置くと、太政大臣は兼之に顔を向けた。
「ところで、兼之殿。瑞穂殿は、いくつになられた?」
「二十一にございます」
「そうか……」
太政大臣は、顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
「兼之殿。どうだろう。瑞穂殿を東宮の妃に迎えては」
「えっ……!」
兼之は、思わず声を上げた。
「瑞穂を、でございますか?」
「そうだ」
太政大臣は、ゆっくりと言葉を継いだ。
「先ほども申したが、東宮様は頭がよい。物事を理論的に捉え、筋道を立てて考えることに長けておられる。しかし、想像力が足りぬ。自分のしたことが、周囲にどのような影響を及ぼすのか。そこまで思いが至らぬのだ」
兼之は、黙って耳を傾けた。
「ご本人は理路整然と考えておられるつもりでも、周囲から見れば、何の意味もないこともある。東宮様には、ご自身が周りからどう見られているのか、そして、どう見られるべきなのかを知っていただきたい」
太政大臣は、そこで一度言葉を切った。
「そのためには、いつでも率直に助言できる者が、そばにいたほうがよい」
そして、静かに続けた。
「私も瑞穂殿のことを、すべて存じているわけではない。だが、これまで幾度かお会いした折の様子から察するに、瑞穂殿、ご自身がどう見られているかを理解しておられる。それだけでなく、ご自身がどうありたいのかも、よく考えておられるように思う」
太政大臣は、兼之をまっすぐに見つめた。
「東宮様に足りぬものを補い、時には耳の痛いことも申せると思うのだ。瑞穂殿なら、東宮様のお力になれるのではないか。どうだろう、兼之殿」
兼之は、すぐには言葉が出なかった。
これまで兼之は、太政大臣の動きの遅さに、もどかしさを感じることが幾度もあった。何事にも慎重すぎる。決断までに時間がかかりすぎる。そう思っていたのだ。
しかし、今、こうして話をしてみると、その見方がいかに浅かったかを思い知らされた。
太政大臣は、ただ動かずにいたのではない。
人を見ていたのだ。
その者が何を考え、何を持ち、何が足りないのか。そして、誰と誰を結びつければ、それぞれの力が生きるのか。
東宮の欠点を見抜き、瑞穂の持つ資質を見極め、その二人がともに歩む先まで考えている。
兼之は、初めて自分の小ささを知った気がした。
「……さすがのご慧眼にございます」
兼之は深く頭を下げた。
東宮のことも、瑞穂のことも、これほどまでに理解しようと努めている。その考えに、異を唱える気にはなれなかった。
「ぜひ、そのお話を進めていただきたく存じます」
兼之は、平伏したまま答えた。
兼之が帰ったあと、太政大臣はひとり、先ほどまでのやり取りを振り返っていた。
これまでになく素早く事を進めた自分に、思わず苦笑する。
「私としたことが、少々功を焦ったか……。だが、思いのほか、うまく運んだものよ」
そう呟いた
入道も、北の方も、すでにこの世にはいない。
しかし、それで入道一派の力が失われたわけではない。
都随一の財力を誇る一族。その影響力は、いまだ朝廷の隅々にまで及んでいる。
「……なめてかかってはならぬな」
太政大臣は、表情を引き締めた。
「これからは、あの一族とも、うまく付き合っていかねばならぬ……」
東宮を支え、若い公達に働く場を与える。その一方で、入道一派を無用に刺激することなく、朝廷の均衡を保たなければならない。
人を見極め、時機を見定め、時には相手の思惑さえ利用する。
太政大臣にとって、これからが本当の勝負であった。




