第四十六章 炎上
「相模殿、どちらへ参られる?」
寺の住職が、立ち去ろうとする相模に声をかけた。
「私の用は、もうございませんので。これにて失礼いたします」
相模は、何事もなかったかのように答えた。
「どういうことだ! まだ終わってはおらぬ!」
住職の声が、堂内に響き渡った。
相模は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「住職……私にとっては、帝も皇太后様も、生きようが死のうが、どうでもよいのです」
その目には、何の感情も浮かんでいなかった。
「ただ、自分の術がどれほどのものか、試してみたかった。それだけのこと」
相模は、住職をじっと見据えた。
「それにしても、まさか呪いの対象が入道一派だったとは……。北の方を仕留めることはできましたが、これ以上、厄介な犯罪の片棒を担ぐのは御免ですな」
「お前……」
住職が、低くうなった。
「陰陽寮ではまともに扱ってもらえぬ、女が幅を利かせる陰陽寮など潰してしまえ。貴族どもも一掃してやる。そう豪語していたのは、お前ではなかったか!」
住職の顔が、次第に赤く染まっていく。
「それを今さら、裏切るというのか!」
「おやおや」
相模は、薄く笑った。
「私は陰陽師ですよ。人の恨みや妬みにつけ込み、それを術に利用する。それが私の専門でございます」
そして、冷ややかに言い放った。
「ですが、自分の身に危険が及ぶとなれば、話は別です。そこまでして差し上げる義理はございません」
「な、なんだと……!」
住職の声が震えた。
「お前は、入道一派が憎くないのか! このような都にしてしまった入道が憎くないのか!」
言葉を重ねるたび、住職の怒りは激しさを増していった。
「人を人とも思わず、皇太后とて、自分たちの繁栄のためなら利用する。邪魔になれば、人の命さえ奪う……。そんな者どもを、憎いと思わぬのか!」
住職の拳が、固く握りしめられた。
「私は憎い……!」
その声には、長年押し殺してきた恨みが滲んでいた。
「妹を……あのように惨めな死に追いやった者どもが、憎くてならぬのだ!」
住職の顔が、みるみる歪んでいく。
「先帝は、無理やり妹を我がものにしておきながら、財力が欲しくなれば、さっさと入道の娘を迎えた。挙げ句の果てには、年の離れた大納言家の娘まで寵愛して……」
声がかすれた。
「いったい、私の妹は何だったのだ……!」
その叫びは、もはや相模に向けられたものなのか、それとも、遠い過去に向けられたものなのか、住職自身にもわからなかった。
長年の恨みが、心の奥底に封じ込めていた何かを呼び覚ましていた。
気がつけば、住職の顔は、すでに人のものとは思えぬほどに歪んでいた。
まるで、怒りそのものが人の姿を借りて、そこに立っているかのようだった。
だが、相模はもう住職を見てはいなかった。
「では、私はこれにて」
淡々と告げると、踵を返し、寺を出ていった。
住職は、その背中を見送ることもなく、ただ立ち尽くしていた。
相模が去ったことさえ、もう気にならなかった。
住職の胸を満たしていたのは、憎しみだけだった。
そして、その憎しみが自分自身をどこまで変えてしまったのか、彼は気づいていなかった。
「徳秀……しっかりしろ」
住職の名を呼ぶ男がいた。
徳秀は、なかなか収まらぬ怒りを抑えきれず、鬼のような形相で振り返った。
「きゃっ!」
女が思わず悲鳴を上げた。
「な、なんでしょう……」
恐怖に震える女の手を、男がそっと握った。
「大丈夫ですよ。私がついています」
その言葉に、女は少しずつ落ち着きを取り戻した。
男は改めて住職に向き直った。
「徳秀……私がわかるか?」
「わからぬ……お前は誰だ」
住職が低い声で尋ねた。
「私だよ。一宮だ」
「……?」
住職はしばらく黙り込んだ。
「一宮……」
その名を繰り返したとき、鬼のようだった顔から、少しずつ険しさが消えていった。
やがて、いつもの住職の顔に戻る。
「……一宮か」
「ああ」
唐津の君は、懐かしむように微笑んだ。
「お前、出ていったのではなかったか?」
「ああ。少しばかり、都巡りをしていたのさ」
「……そうか」
住職は、それ以上何も尋ねなかった。
唐津の君は、隣に立つ女へ目を向けた。
「こちらは、式部卿の娘、佐紀様だ」
「式部卿……」
住職は、その名を繰り返した。
唐津の君は、住職をじっと見つめた。
「頭のいいお前のことだ。我々が何をしに来たのか、わかるな」
住職は答えなかった。
佐紀が一歩前に出た。
「式部卿の娘、菅原佐紀と申します。こちらに、弟はおりますでしょうか」
「…………」
住職は、ただ黙って佐紀を見つめていた。
佐紀は、ひるむことなく続けた。
「もし弟がおりましたら、どうか家に戻るよう、お話しいただけないでしょうか」
そして、静かに住職の目を見た。
「弟は、住職様を信じております。そして、自分たちの手で都を変えるのだと、真剣に考えております」
佐紀の声に、次第に力がこもった。
「どうか、そのような弟たちの気持ちを、心を、傷つけないでください」
住職は、何も答えなかった。
「弟たちは、まだ未熟です。これから学び、世を変えるとはどういうことなのか、自らの力で知っていく。その権利がございます」
佐紀は一度、言葉を切った。
「若者たちには、若者たちなりの理想がございます。たとえ、それが世間知らずの考えであったとしても……自ら考え、悩み、答えを見つけていくことが大切なのではないでしょうか」
その眼差しは、まっすぐだった。
「周りの大人は、そのような若者たちを見守る立場にあると、私は考えております。自分の目的のために、彼らを思いのままに動かしてよいはずがございません」
佐紀は深く頭を下げた。
「どうか、住職様のお力で、弟を家に戻してくださいませ。お願いいたします」
それだけ告げると、佐紀は顔を上げた。
唐津の君も、それ以上は何も言わなかった。
二人は静かに寺をあとにした。
住職は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、何事もなかったかのように本堂へ戻り、経を唱え始めた。
低く響く読経の声が、静まり返った堂内を満たしていく。
しばらくして、住職は読経を止めた。
「……そこに隠れているのだろう」
返事はない。
「すべて聞いていたのだろう」
住職は、振り返ることなく言った。
「帰りなさい。ここはもう、お前たちと鬼ごっこをする場所ではない」
しばしの沈黙のあと、住職は静かに続けた。
「……もう、わかっただろう」
その声には、先ほどまでの怒りはなかった。
ただ、深い疲れが滲んでいた。
* * *
しばらくして、宮中に知らせが駆け巡った。
「北の寺が燃えている!」
火の手は瞬く間に大きくなり、夜空を赤く染めていた。
知らせを受けた兼之は、兵部省の官人たちを率いて、急ぎ寺へと向かった。
「徳秀殿! 徳秀殿、どこにおいでか!」
兼之は、激しく燃え上がる本堂へ駆け込んだ。
その奥に、人が倒れているのが見えた。
「徳秀殿!」
駆け寄ると、そこには住職が倒れていた。
「徳秀殿、しっかりなさってください!」
兼之が抱き起こすと、住職はかすかに目を開いた。
「こ、これを……」
震える手で差し出したのは、一通の書状だった。
「太政大臣へ……」
住職は、息も絶え絶えに言った。
さらに、もう一つの品を兼之へ差し出す。
「そして……これを、一宮様へ……」
それは、一つの位牌だった。
「徳秀殿! しっかりなさって……!」
兼之の声が響く。
だが、住職の手から力が抜けた。
「……徳秀殿?」
返事はなかった。
兼之は、しばらく住職の顔を見つめていた。
しかし、火の手は容赦なく本堂を呑み込んでいく。
そのとき、兼之は奥にもう一人、人が倒れていることに気づいた。
「常尚殿!」
急いで駆け寄り、その身体を抱き上げた。
まだ少年の面影を残す顔は、眠っているかのように穏やかだった。
「みな、下がれ! 本堂が崩れるぞ!」
兼之は常尚を抱え、燃え盛る本堂から駆け出した。
その直後だった。
ごおおおおっ――。
轟音とともに、本堂が崩れ落ちた。
火の粉が夜空へ舞い上がる。
兼之は、立ち尽くした。
腕の中には、まだ少年の顔をした常尚がいた。
その顔は、まるで何も知らず、何もかもから解き放たれたかのように、静かに眠っていた。
兼之は、ただその顔を見つめていた。
燃え落ちる本堂を前に、しばらく動くことができなかった。
「兼之殿!」
遠くから声が聞こえた。
兼之が振り返ると、唐津の君が駆け寄ってきた。
「唐津の君……」
唐津の君は、兼之の腕の中にいる少年に目を留めた。
「この子は……?」
「常尚殿です」
兼之は、少年を見下ろしながら答えた。
「生きているのか?」唐津の君が尋ねた
「はい。煙はそれほど吸っていないようです。おそらく、火の手が大きくなる前に気を失ったのでしょう」
唐津の君は、ほっと息をついた。
「申し訳ございませんが、式部卿の屋敷まで送り届けていただけませんか。私は、まだ現場を離れるわけにはまいりませんので」
「わかった。私に任せなさい」
唐津の君は、常尚をそっと抱きかかえた。
「では、頼みます」
兼之はそう告げると、再び燃え盛る寺へと向き直った。
唐津の君が門を出たのを見届けると、兼之は兵部省の官人たちに指示を出し、現場の指揮を執り始めた。
* * *
唐津の君を乗せた牛車は、一路、式部卿の屋敷を目指した。
式部卿の屋敷では、寺の火事を聞きつけた使用人たちが慌ただしく動き回っていた。式部卿と佐紀も、弟を捜しに寺へ向かう支度を整えているところだった。
そのとき、門前に牛車が止まった。
使用人がそれに気づき、急いで駆け寄る。
門が開かれ、牛車が車寄せにつけられると、中から常尚を抱いた唐津の君が降りてきた。
「常尚!」
佐紀と式部卿が、そろって駆け寄った。
式部卿は、唐津の君から息子を受け取ると、その顔をじっと見つめた。
「常尚……」
いつも冷静な式部卿の目が、潤んでいた。
「唐津の君様、誠にありがとうございます。何とお礼を申し上げればよいのか……」
佐紀もまた、憔悴しきった顔に、ようやく安堵の色を浮かべていた。
「さあ、このようなところでは何です。どうぞ中へお入りください」
式部卿は唐津の君を屋敷の奥へと招き入れた。
式部卿は常尚を寝所に運び、薬師を呼び、家人たちに指示を出す。
屋敷の中は、しばらく慌ただしい騒ぎに包まれた。
唐津の君は、その様子を見守っていたが、常尚が無事に屋敷へ戻ったことに安堵したのだろう。珍しく、強い眠気に襲われた。
「……この屋敷は、なんとも落ち着くな」
ふと、そんなことを思った。
家人たちは忙しく行き交い、あちこちから声が聞こえてくる。それなのに、不思議と心が安らぐのだった。
唐津の君は、知らぬまに横になっていた
そして、いつしか眠りに落ちていた。
* * *
どれほど時がたったのだろう。
唐津の君が目を覚ますと、いつの間にか寝所へ移されていた。
「……なに、眠ってしまったのか」
ゆっくりと身を起こした、そのときだった。
「お目覚めになりましたか?」
部屋の外から、佐紀の声がした。
「佐紀殿……。もしや、ずっとそこに?」
唐津の君は慌てて身繕いをした。
「これは失礼しました。そのようなところにおられては、寒いでしょう。もし差し支えなければ、どうぞお入りください」
少し遠慮がちに声をかけると、
「では、失礼いたします」
佐紀が静かに部屋へ入ってきた。
佐紀は蝋燭に火をともすと、唐津の君に向き直った。
「このたびは、弟のこと、本当にありがとうございました。父はただいま常尚のそばについておりますので、まずは私から、お礼を申し上げます」
深々と頭を下げる佐紀。
その知的で落ち着いた振る舞いに、唐津の君は、改めて心を引かれるものを感じた。
だが、彼はその思いを胸にしまい、静かに答えた。
「どうか、そのようにおっしゃらないでください。私がしたことなど、たいしたことではございません。本当に常尚殿を救い出したのは、兵部省の兼之殿です」
佐紀は、はっと顔を上げた。
「参議様が……?」
「ええ。燃え盛る本堂の中へ飛び込み、常尚殿を抱えて外へ連れ出されたのです」
「まあ……!」
佐紀の顔から、再び血の気が引いた。
「なんということ……。皆様のお命を危険にさらしてしまうなど……。弟は、なんと罪深いことを……」
声が震え、目に涙が浮かんだ。
「佐紀殿」
唐津の君は、穏やかに呼びかけた。
「今は、まだ冷静に物事を考えられぬこともございましょう。どうか、早まったことだけはなさらぬよう、式部卿にもお伝えください」
佐紀は、うつむいたまま黙っていた。
「中宮様も、このたびのことを大変心配しておられます。きっと、よいように取り計らってくださるでしょう」
「…………」
佐紀は、何も答えなかった。
ただ、ぽろぽろと涙をこぼした。
これまで、どれほど心を張り詰めてきたのだろう。
弟の行方を案じ、父を支え、自分自身の不安を押し殺してきた。
ようやく弟が戻ってきたというのに、今度は多くの人々が命の危険にさらされたと知った。
張り詰めていたものが、もう限界だったのかもしれない。
唐津の君は、泣き続ける佐紀を見つめていた。
その姿が、なぜだか、今にも消えてしまいそうに見えた。
気がつけば、唐津の君は、そっと佐紀の肩を抱き寄せていた。
佐紀は、驚くことも、身を離すこともしなかった。
ただ、唐津の君の胸に顔をうずめた。
そして、堪えていたものをすべて吐き出すかのように、泣き続けた。
唐津の君は、何も言わず、その肩を抱いていた。
今は、慰めの言葉など必要ない。
ただ、この人が泣きやむまで、そばにいてやりたい。
そう思っている自分に、唐津の君自身も、まだ気づいてはいなかった。




