第四十六章 将之は将之である
皇太后の容体は、みるみるうちに回復していった。
やがて起き上がれるようになり、少しであれば歩くこともできるまでになった。
今回の出来事を太政大臣から聞いた帝は、ただちに事態の解決を図るよう命じた。太政大臣もまた、陰陽寮に対し、速やかに調査を進めるよう指示を出した。
しかし、宮中では、事件の解決を待つ間にも、別の話題が広がっていた。
それは、英嗣と幸の武勇伝である。
「英嗣様は、陰陽師の幸様をお救いになるため、火の玉を握り潰して、その中へ飛び込まれたそうですわ」
「あら、私が聞いたお話では、鬼火に焼かれそうになった英嗣様を、幸様が身を挺してお守りになったとか」
「いいえ、倒れた幸様を英嗣様が抱き上げ、そのままお逃げになったそうよ。そのお姿は、まるで火の鳥のようだったとか」
「まあ、違いますわ。腰を抜かした英嗣様を、幸様が抱きかかえてお逃げになったと聞きましたわよ」
あちらでも、こちらでも、話は食い違うばかり。
けれど、どの噂にも共通していることがひとつあった。
英嗣と幸が、二人で危難に立ち向かったということだ。
そして、その噂を聞くたびに、面白くない顔をする男がいた。
将之である。
「まったく……なんだよ、英嗣、英嗣って。幸さんには気のないふりをしておいて、ちゃっかり二人で……」
ぶつぶつと不満を漏らす将之に、冬弥は呆れた顔を向けた。
「将之様。お二人は、皇太后様をお救いになったのですよ」
「皇太后様はいいんだよ!」
将之は、むっとして言い返した。
「私が気に入らないのは、二人で夜を過ごしたということなのだ!」
「二人と申しましても、皇太后様もいらっしゃいましたし、悪霊もおりました。護衛の者たちも大勢いたはずですが……」
「そういう問題ではない!」
冬弥は、もはや何を言っても無駄だと悟り、深いため息をついた。
そのとき、使いの者がやって来た。
「太政大臣様がお戻りになりました。至急、お部屋へ参るようにとの仰せです」
「まったく! こちらは今、大事なことを考えているというのに……」
将之は不機嫌そうに立ち上がり、父のもとへ向かった。
「父上、お呼びでしょうか」
「うむ、入りなさい」
将之が部屋に入ると、太政大臣は顔を上げた。
「今日、皇太后様にお会いしてきた。だいぶ回復なさっておられたぞ」
「それは、ようございました」
将之は、ひとまず型どおりに答えた。
「そこでだ。皇太后様は、しばらく入道の屋敷へ移り、静養なさりたいとのことだ。その間、宮中の奥向きのことは中宮様にお任せしたいとお考えらしい」
太政大臣は、少し考えるように間を置いてから続けた。
「帝も東宮も、まだお若い。こういう折には、どうしても母親に頼りたくなるものだが、今、宮中でその役目を担えるのは中宮様しかおらぬ。もっとも、東宮もおいでになるのだから、中宮様がすべてを取り仕切るようなことにはならぬだろう」
そして、将之をまっすぐに見た。
「そこで、お前に頼みがある。帝と東宮、そして中宮様の間を、うまく取り持ってほしいのだ。それぞれの相談相手となり、三者の間に行き違いが生じぬよう努めてほしい」
「私が……ですか?」
「そうだ。お前ひとりで判断できぬことがあれば、私に相談すればよい。左大臣も右大臣も、話のわかる方々だ。よく相談して進めればよいのだ」
太政大臣は、力強くうなずいた。
「お前ならできると見込んでのことだ。頼んだぞ」
「……はい」
将之は、力なく返事をした。
「どうした? 何か気に入らぬことでもあるのか」
父が怪訝そうに眉をひそめる。
「いえ、決してそのようなことは。ただ……先日の悪霊騒ぎもございますし、宮中のあちこちでお祓いをなさった方がよいのではないかと」
すると、太政大臣は感心したように顔をほころばせた。
「なるほど。それは確かに一理あるな。皇太后様のお休みなった御殿も、帝のおわす清涼殿も、念のためお祓いをしておいた方がよかろう。よし、明日にでも陰陽寮に相談するとしよう」
「陰陽寮に?」
将之は、思わず身を乗り出した。
「あっ、いえ、父上。その件は、私が明日、陰陽寮へ出向いて相談してまいります。どうぞ、お任せください!」
先ほどまでの不機嫌さは、どこへやら。
将之は、急に生き生きとした顔になった。
「そうか。では、頼んだぞ」
太政大臣が満足そうにうなずくと、将之は軽い足取りで部屋を出ていった。
その背中を見送った太政大臣は、控えていた冬弥を呼んだ。
「冬弥、入りなさい」
「はっ」
冬弥が進み出ると、太政大臣は声を落として言った。
「今の話は聞いていたな。将之の補佐を頼む」
「承知いたしました」
「それから、妹のところへ使いにいってくれ。今回の騒ぎですっかり予定が延びてしまった。さぞ心配していることだろう。『計画通り進める』とだけ伝えてくれればよい」
「かしこまりました」
冬弥は一礼した。
太政大臣は、ふと思い出したように口元を緩めた。
「それにしても、将之はよくお祓いのことに気づいたものだ。皇太后様の御殿も、清涼殿も、確かに祓いをしておくに越したことはない。なかなか見どころがあるではないか」
冬弥は、思わず苦笑した。
――将之様が気にしておられるのは、お祓いそのものではないのですが……。
しかし、それを口にすることはせず、ただ静かに頭を下げた。
次の日、将之は一目散に陰陽寮へ向かった。
「保忠殿はいらっしゃるか?」
陰陽寮の官人に尋ねると、
「はい。少々お待ちくださいませ」
と告げられた。
ほどなくして、保忠が姿を現した。
「将之殿、これはいかがなさいましたか?」
「実は……」
将之は、ことの次第を保忠に話した。
「かしこまりました。ただちに手配いたしましょう」
保忠はそう答えたが、ふと、将之がしきりに辺りを見回していることに気づいた。
「何か、気になることでもございますか?」
「あっ、いや……その、幸殿はいらっしゃるかと思いまして」
将之は、慌てて取り繕った。
「ああ、幸ですか。先日の一件で少々疲れが出たようで、しばらく静養するため、宇治へ帰らせました」
「えっ! 宇治に帰ったのですか!」
思わず声を上げる将之。
「はい……それが、何か?」
「あっ、いや、その……この間の皇太后様の件で、皇太后様から幸殿にお伝えしたいことを託されまして……」
「それは申し訳ございません。もし私でよろしければ、幸に伝えておきますが」
保忠がそう申し出ると、将之は慌てて首を振った。
「い、いやいや! 急ぎのことではありませんので。後日、改めて参ります」
「そうですか。では、明日にでも誰かを宇治へ遣わしましょう」
「……えっ」
思わず言葉に詰まる将之。
「いやそこまでは・・・」口からでまませである。とは言えない将之。
将之は、すっかり気落ちした様子で陰陽寮をあとにした。
用事は済んだ。
それはそれでよかったのだが……。
どうにも、急に張り合いがなくなってしまった将之であった。
次の日、将之のもとに、いかにも冴えない様子の陰陽師がやってきた。
「将之様、どちらからお祓いを始めましょうか?」
「では、この辺りから……」
将之は宮中の一角を指し示した。
だが、心の中では別のことを考えていた。
本当なら、幸殿と一緒に「あちらはどうでしょう」「次はあの辺りへ参りましょう」などと話しながら、楽しく宮中を巡るはずだったのに……。
「将之様?」
陰陽師が不思議そうに首をかしげる。
「あ、いや。次は中宮殿へ参ろう」
そう言って渡り廊下を渡りかけた、そのときだった。
「幸殿!」
将之は思わず声を上げた。
陰陽師がぎょっとして振り返る。
「ニャー」
聞こえてきたのは、なんとも愛らしい猫の鳴き声だった。
結衣姫の飼い猫、白が、将之を見上げて人懐こく鳴いている。
「……なんだ、猫か。幸殿に見えた。私も相当、重症だな」
将之は苦笑した。
ところが、白の顔を見つめているうちに、ふと何かが引っかかった。
「この猫……どこかで見たような……」
そのとき。
「しろ! しろ! どこに行ったの?」
几帳の向こうから、結衣姫が勢いよく飛び出してきた。
あまりの勢いに、渡り廊下から落ちそうになる。
「危ない!」
将之はとっさに結衣姫を抱きとめた。
「危ない!」
陰陽師も思わず叫ぶ。
その騒ぎに、中宮殿の奥から女御や伊予の局が顔を出した。
「いったい、何事ですか?」
そして、目に飛び込んできたのは、将之の腕の中に抱きとめられた結衣姫の姿だった。
「結衣! あなたという子は、どこまで落ち着きがないのですか!」
中宮の声が響き渡った。
「佐紀殿が休養に入られて、まだそれほど経っていないというのに、このありさま。あなた方も、もう少ししっかりなさいませ!」
中宮は、居並ぶ女御たちにも厳しい目を向けた。
普段は穏やかで優しい中宮だからこそ、その叱責は皆の胸にこたえたらしい。
女御たちはそろって、申し訳なさそうに頭を下げた。
「これでは、佐紀殿にも早々に戻ってきていただかねば困りますね。伊予の局!」
「は、はい! まことに申し訳ございません」
「結衣! 聞いているのですか?」
中宮が結衣姫の方へ目を向けた。
ところが、そこにいるはずの結衣姫の姿が見当たらない。
代わりに、猫を抱いた将之が、どうしたものかと立ち尽くしていた。
中宮は、はっとして顔を赤らめた。
「これは……大変失礼いたしました。将之殿がいらっしゃるとは気づかず……。ところで、結衣は? 結衣はどこへ行ったのです?」
「あの、中宮様……結衣姫様はこちらに」
将之の背後から、ひょっこりと結衣姫が顔をのぞかせた。
「結衣!」
中宮がじろりと睨む。
結衣姫は、母の叱責をものともせず、将之の後ろに身を隠した。
まったく、油断も隙もない。
どうやら、この姫君、なかなかの知能犯でもあるらしい。
「あの、中宮様……」
すっかり成り行きを見守っていた陰陽師が、おずおずと声をかけた。
「こちらのお部屋のお祓いで最後になりますが、よろしゅうございますか?」
中宮は、先ほどまでの厳しい表情を一変させ、にっこりと微笑んだ。
「ええ、どうぞ」
こうして、ようやくお祓いが始まった。
その間、白はずっと将之の腕の中に収まり、気持ちよさそうに目を細めていた。
将之もまた、すっかり白が気に入ったようだった。
もちろん、その理由は単純である。
「……なんだか、腕の中に幸殿がいるような気がする」
そんなことを思いながら、将之は白をそっと撫でていた。
やがて、お祓いが終わると、伊予の局が気を利かせた。
「将之殿、先ほどは大変失礼いたしました。よろしければ、お茶でも召し上がっていかれませんか?」
「これは、ご丁寧に。では、お言葉に甘えまして」
将之は白を抱いたまま、中宮殿の一室へ通された。
「将之殿、結衣のやんちゃぶりには驚かれたでしょう。本当にお恥ずかしいことです」
中宮はそう言いながら、餡子餅をおいしそうに頬張る結衣姫に目を向けた。
「いえいえ。私にも玖瑠実という妹がおりまして、ちょうど結衣姫様と同じくらいの年頃です。妹に比べれば、結衣姫様の方がよほど大人びていらっしゃいますよ」
将之は、にこやかに答えた。
「あら、そうなのですか」
中宮も、ようやく表情を和らげた。
しばらく皇太后さまのお加減の話やしばらく中宮様に奥向きのまとめをお願いするなど話をしていたそのとき、将之が突然、声を上げた。
「あっ!」
「どうかなさいましたか?」
中宮が尋ねる。
「いえ、この猫……どこかで見たことがあると思っていたのですが……東宮御所で見かけたのです」
「えっ?」
中宮が目を丸くした。
「東宮御所で、ですか?」
「はい。春ごろだったと思います。私がたまたま朝早く東宮御所へ伺った際、東宮様のそばに、この猫がいたのです」
将之は、ようやく思い出したという顔で続けた。
「どうやら、毎朝決まった時刻に朝餉をもらいに来ていたようでして。東宮様は魚がお嫌いだと聞いておりましたが、そのときは猫と魚を分け合って召し上がっていました。なんとも楽しそうなご様子で……。女御たちも、東宮御所が明るくなったと喜んでおりました」
その話を聞いた中宮と伊予の局は、顔を見合わせた。
そして、
「ふふふ……」
「まあ、そうでしたの……ふふふ」
とうとう、こらえきれずに笑い始めた。
「えっ? 何かおかしなことでも……?」
将之は、きょとんとした。
結衣姫も、不思議そうに白を見つめた。
「そうなの? 白は東宮様お世話になっていたのですねなんて恐れ多い……」
そう言って、白をじろりと睨んだ。
もちろん、白はどこ吹く風である。
東宮御所で魚を分けてもらおうが、中宮殿で姫君に追いかけ回されようが、白にとっては、どこも居心地のよい場所にすぎない。
事情を知らぬ将之だけが、ますます不思議そうな顔をしていた。
そしてついに、中宮をはじめ、居合わせた女御たちは、我慢しきれず大笑いしたのであった。
将之は鼻歌まじりに、蔵人頭の部屋へ戻ってきた。
それを見た部下たちは、思わず顔を見合わせた。
「おい、将之様は、先ほど陰陽師とぶつぶつ言いながら、いかにもつまらなそうに出ていかれたではないか」
「それが今度は、鼻歌まじりだぞ」
「お祓いというものは、そんなに楽しいものなのか?」
皆、不思議そうに将之の姿を眺めていた。
当の将之は、そんな周囲の視線など、まるで気にも留めていない。
幸に似た猫を見つけ、しかも中宮殿で楽しいひとときを過ごしたのだ。
思い出すだけで、頬が緩んでしまう。
本人にしてみれば、実に単純な話である。
ただ、それだけのことだった。
……もっとも、本人が思っているほど、周囲には単純な話には見えなかったのだが。




