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第四十四章 保忠の思い

「ふう……今日は疲れたな」

珍しく保忠は、ひとり自室で酒を飲んでいた。

このところ宮中では何かと騒ぎが続き、こうしてひとり、酒を傾ける夜さえなかった。

皇太后を悪霊から守った幸も、さすがに精魂尽き果てた様子だった。忠嗣は、そんな幸を宇治へ帰すことにした。

都に留めておくのは危険だ。そう考えたのだろう。

とはいえ、都もまた不穏な状況にあった。

相模の怨術によって、都に潜む妖しどもが騒ぎ始めている。いつ清涼殿を襲うとも知れず、宮中を守るためにも、陰陽寮を預かる保忠が都を離れるわけにはいかなかった。

本来ならば、自ら宇治へ、幸と同行したいところである。しかし、今はそれもかなわない。

忠嗣は都に残り、迫り来る災いに備えなければならなかった。

さらに宮中がこれほど騒がしい折、右近中将である英嗣を宇治へ同行させるわけにもいかなかった。

それでも英嗣は、自分が幸を送り届けると言って聞かなかった。

結局、英嗣の義兄にあたる安信が、宇治の妻と娘に会いに行くというので、それに同行することになったのだが……。

保忠は、先ほどの英嗣の顔を思い出し、思わず苦笑した。

「義兄上、幸さんにもし、そのお手を触れるようなことがございましたら、一生呪いますよ」

そう言い放った英嗣の、あの真剣な顔。

「まったく……私まで呪い殺されるかもしれぬな」

保忠は酒を口に運び、格子の向こうから差し込む月の光を見つめた。

ふと、遠い昔のことが思い出された。

幸が初めて賀茂家の屋敷にやって来た日のことだ。

「保忠、今日から幸を妹と思って、面倒を見てあげなさい」

父の忠嗣にそう言われ、保忠は目の前の少女を見た。

日に焼けた肌に、ぼさぼさの髪。生え替わりの時期なのか、前歯も何本か抜けている。男の子と見間違えそうな幼い少女だった。

けれど、保忠は、その姿よりも先に、少女の瞳に目を奪われた。

深い藍色――。

これまで一度も見たことのない、不思議な色だった。幼い少女は、その瞳でまっすぐに保忠を見つめていた。まるで、こちらの心の奥まで見透かしているかのように。

その瞬間、保忠はなぜか、言葉を失った。

目の前にいるのは、どこにでもいるような幼い少女のはずだった。

それなのに――。

この子は、いったい何者なのだろう。

保忠はすぐに風呂の用意をさせ、汚れた着物を脱がせた。

そのとき、ふと気づいた。

この子からは、太陽の匂いがする。

どこか懐かしく、不思議な匂いだった。

当時の保忠は、陰陽師の跡取りとして修行に励んでいた。なかでも結界を作るのが好きで、人のいない小高い丘に結界を張っては、ひとり遊んでいたものだった。

ある日のこと。

「お兄様……これは?」

気づけば、幸が結界の内側に立っていた。

保忠は目を見張った。

誰にも入れぬよう張った結界を、この少女は何の苦もなく越えてきたのだ。

「お兄様、きれいですね……」

幸は、目の前に広がる光景を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。

保忠は驚きを隠せなかった。

この結界が見えているのか。それとも、自分と同じものを感じ取っているのか。

――この子は、一体何者なのだろう。

その日から、保忠は幸に陰陽道の基礎を教えるようになった。

幸もまた、楽しそうに学んだ。

けれど、幸にはひとつ、苦手なものがあった。

夢である。

悪い夢を見た夜には、決まって泣きながら保忠の寝床へやって来た。

「お兄様……怖い夢を見たの」

そう言って、幼い幸は保忠のそばに潜り込む。

保忠は妹をあやすように、その背を撫でた。

それが当たり前の日々だった。

だが、二人とも少しずつ大人になっていった。

いつの頃からだろう。

保忠は、幸を妹としてだけ見られなくなっていた。

幸は相変わらず、悪い夢を見ると保忠の寝床へやって来る。

以前と何も変わらない。

けれど、保忠にとっては、次第にそれが苦しくなっていった。

幸を大切に思う気持ちに、いつしか別の想いが混じってしまったからだ。

そんなある日、父の忠嗣が二人を呼んだ。

「今日から、幸も保忠も、同じ寝床で休むことはならぬ」

突然の言葉に、保忠は父を見つめた。

忠嗣は、静かに続けた。

「保忠は陰陽寮へ行き、そこで修行を積みなさい。幸は私とともに、この屋敷で陰陽師の修行を続けるのだ」

それだけだった。

父は何も説明しなかった。

けれど、保忠にはわかった。

父は、自分の心の変化に気づいていたのだ。

そして保忠もまた、そのとき悟った。

――自分と幸は、同じ道を歩むことはあっても、同じ人生を歩むことはないのだと。

保忠は、月明かりの中で静かに息を吐いた。

いつしか、遠い昔の少女は美しい女性へと成長していた。

そして今、その幸を命懸けで守ろうとしている男がいる。

「英嗣殿は……思いきり手をつかんでくれたものだな」

保忠は右手に残る痣を見つめ、苦笑した。

あの男は、幸を失うことを恐れ、もう自分の想いを隠そうともしない。

「まったく……あれほど真っ直ぐに想いをぶつけられるとはな」

保忠は酒をひと口飲んだ。

「幸……お前は、いつになったら気づくのだろうな」

月は何も答えず、静かに夜空に浮かんでいた。


今回は、幸と私が張った結界の中で、相模の放った怨霊と戦うことができた。だが、次も同じようにいくとは限らない。

相模も、ようやく幸の陰陽師としての才能に気づいたはずだ。そして、結界を操る力において、自分は幸に及ばないということも。

「さて……相模は次に、どのような手を使って挑んでくるのかな」

保忠は、月明かりの差し込む格子の向こうを眺めながら、静かにつぶやいた。

「まったく……父上も私も、とんでもない陰陽師を育ててしまったものだ」

口元には苦笑が浮かんでいたが、その目には笑いがなかった。

幸の力は、もはや相模にとって見過ごせぬ脅威となっただろう。ならば次は、幸の力を封じるか、あるいはその力を逆手に取る策を講じてくるかもしれない。

保忠は盃を傾け、残った酒を飲み干した。

――もう、幸を守るだけでは足りない。

相模の狙いを見極め、その先手を打たねばならぬ。

保忠は空になった盃を置き、月を見上げた。

「次は、こちらもそう簡単にはやらせぬぞ、相模……」

静かな決意が、その胸に宿っていた。







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