第四十三章 決意
瑞穂は小乃葉からの文を読んでいた
新しい命が宿っていること、そしてその命を守るため実家に戻つたことなど
瑞穂は、すでに決心をしていた、まえに踏みだすことを、唐津の君にも文をだした、けじめと気持ちの整理のためだった。
自分の人生と向き合う為に、唐津の君は、胸にしまうこととした、だれも知らぬ思いだ
瑞穂は母の部屋へいき、母のまえに座ったそして
「私は東宮妃になります」と宣言した。
母も黙って頷く
それは、この二人か、生涯をかけて決心をした瞬間だ
母は、細かいことは言わない、
「瑞穂、貴方を信じます、そして、どののようなことがあっても、この母を信じなさい、世の中の全てを敵に回しても、貴方を守リますよ」
といった。その目には瑞穂以上の決意があった。
「その時がくるまで、自分のことは自分でまもるのです。わかりましたね」
「はい、お母様」とだけいった。
「東宮様、いかがなされましたか?」
東宮は、母の菩提寺にある阿弥陀如来像の前に、静かに座していた。
いつもとは違う東宮の様子を気にかけ、住職が声をかけたのである。
「住職……以前、あなたは世の不合理について、私に話してくださいましたね」
「はい」
「そのときは、なるほどと思いました。確かに、この世には理不尽なことが多い。生まれた家柄によって、人の行く末が決まってしまうこともある」
東宮は、阿弥陀如来像を見上げた。
「しかし……果たして、すべてがそうなのでしょうか」
住職は、訝しげに東宮を見つめた。
「私たちが声を上げれば、本当に世の中は変わるのでしょうか。変わること自体はできるかもしれません。ですが、それは本当に、今よりよい世になるということなのでしょうか」
「東宮様、それはもちろん、よくなるに決まっております」
住職は、ためらいなく答えた。
「では、よい世とは、どのような世なのですか?」
「それは……誰もが平等である世でございます」
「平等とは?」
「身分にかかわらず、誰もが自分の思うように生きられることでしょう」
「自分の思うように生きる……それは、どのようなことでしょうか」
住職は、少し考えてから答えた。
「身分に関係なく、誰もが話し合い、物事を決められる世でございます」
「皆で話し合い、決めるのですか。では、そこで意見が分かれたとき、誰が決めるのでしょう」
「それは、皆でございます」
「皆が納得するまで話し合うのですか?」
「さようでございます」
東宮は、静かに住職を見つめた。
「しかし、皆が納得しなければ、物事は決まりません。反対に、皆が自分の望みを押し通そうとすれば、話し合いそのものが成り立たなくなるのではありませんか」
「それは……己の欲を捨て、互いに譲り合うことが肝要でございます」
「では、譲り合えぬ者がいたら?」
住職は言葉に詰まった。
東宮は、さらに問いを重ねた。
「皆が話し合っても、意見をまとめる者がいなければ、何も決まりません。では、誰がまとめるのですか?」
「それは……帝でございましょう」
「では、誰が帝に申し上げるのですか?」
「それは、皆が……」
「皆とは、誰のことでしょう。誰が帝のもとへ赴き、民の声を伝えるのですか?」
住職は、黙り込んだ。
東宮は、答えを急かすことなく、住職を見つめていた。
やがて、その口元に、かすかな苦笑が浮かんだ。
「結局、帝に声を届けることができるのは、帝の近くにいる者たちなのでしょう。そう……貴族たちです」
東宮は、ゆっくりと視線を阿弥陀如来像へ戻した。
「世を変えると言っても、誰が変えるのか。変えた先に何が待っているのか。それを考えずに声を上げるだけでは、今とは違う不合理を生むだけかもしれませんね」
住職は、何も答えなかった。
東宮の言葉は、住職がこれまで語ってきた理想の、その先を問うものだった。
だが、住職の胸に去来していたのは、世の行く末への憂いなどではなかった。
――何を今さら、そんなことを。
住職は、心の中で吐き捨てた。
この男にとって、世の中がよくなるかどうかなど、どうでもよかったのである。
妹を死へと追いやった入道一派。
妹を守れなかった自分自身への悔恨。
そして、妹の死に関わった者たちへの、消えることのない憎しみ。
それだけが、住職を突き動かしていた。
入道の娘も、北の方も、妹を死に追いやった宮中の女御たちも、すべて憎い。
あの者たちが苦しみ、失い、絶望する姿を見たい。
それが、この男の望みだった。
社会の不合理を正すという言葉も、身分に縛られぬ世をつくるという理想も、すべては東宮を動かすための方便にすぎなかった。
住職は、東宮が何を考えているのかを探るように、その横顔を見つめた。
一方、東宮はまだ知らない。
自分が信じていた理想と、目の前の男が本当に望んでいることが、まるで違うものであることを。
東宮はだまって寺をでた、そして東宮御所へ戻った。
「先生? どうかなさいましたか?」
結衣姫は、目の前の佐紀を心配そうに見つめた。
このところ、佐紀の様子がどうにも気になっていた。
いつも疲れたような顔をして、ふと気づくと、何かを考え込むようにぼんやりとしている。以前の佐紀とは、明らかに違っていた。
中宮もまた、その変化に気づいていた。
「佐紀殿、しばらくお休みになってはいかがですか?」
気遣うように声をかけると、佐紀はいつものように微笑んだ。
「私は大丈夫ですわ」
しかし、その笑顔には、いつもの張りがなかった。
「結衣も、ずいぶんと物事を考える力がついてまいりました。このあたりで少しお休みになって、また折を見て、新たなお勉強を始めてもよいのではないかと思うのです」
中宮がそう告げると、佐紀は何かに気づいたように、はっと顔を上げた。
「申し訳ございません。私のような者が、いつまでも結衣姫様の指南役を務めるのは、もはやふさわしくないということでございますね。姫様も成長なされましたし、これからは新しいお考えをお持ちの方にお任せしたほうが、姫様のためになりましょう」
佐紀はそう言うと、慌てて頭を下げた。
「佐紀殿、そういうつもりで申し上げたのではありませんわ」
中宮は困惑した。
「ただ、少しお疲れのようにお見受けしたものですから……。何か誤解をなさったようで、どう申し上げればよいのかしら」
佐紀は、ただ黙って頭を下げるばかりだった。
そのとき、女房が取り次ぎにやってきた。
「右大臣様がお見えでございます」
中宮は一瞬、佐紀に目を向けた。
このような折に、右大臣が何の用であろうか。
「佐紀殿、ひとまず、こちらへ」
中宮は几帳の奥を示した。
佐紀がその陰に身を隠すのを確かめてから、静かに告げた。
「お通しなさい」
やがて右大臣が、うやうやしく部屋へ入ってきた。
ところが、その後ろには、見知らぬ男が一人、従っていた。
「右大臣殿、そちらのお方は……?」
伊予の局が、いぶかしげに男を見つめた。
すると右大臣は、意味ありげに微笑んだ。
「これはこれは、伊予の局殿。よくお顔をご覧くださいませ」
「……?」
伊予の局は、男の顔をじっと見つめた。
そして、次の瞬間、驚きに目を見開いた。
「まさか……一宮様でいらっしゃいますか?」
「そうですよ。一宮様でございます」
右大臣が答えた。
「まあ……なんということでしょう。まさか、再びお目にかかれるとは……」
伊予の局は、声を震わせた。
男は穏やかに微笑んだ。
「伊予の局様、父母が生前、何かとお世話になりました。憎まれっ子世にはばかると申しますが、おかげさまで、こうして生き長らえております」
「まあ、まあ……それはそれは。ご無事で何よりでございます」
伊予の局は、感極まったように目を潤ませた。
一方、中宮は、まだ事情が呑み込めずにいた。
「伊予の局、こちらのお方は……?」
すると伊予の局は、懐かしむように男を見つめながら説明した。
「中宮様、お若い方々にはご存じないことかもしれません。一宮様のお父様は、先帝の御代に、東宮であられたお方でございます。ご事情あって宮中を離れ、長らく都から遠い地でお暮らしになっておりました」
中宮は、はっとした。
そして、すぐさま居住まいを正すと、深々と頭を下げた。
「そうでございましたか。存じ上げなかったとはいえ、大変失礼いたしました」
「中宮様、どうかお顔をお上げください」
唐津の君は、困ったように笑った。
「今はもう、宮家とは縁もゆかりもなく生きております。どうぞ、昔のこととしてお忘れください」
「そのようなわけにはまいりませんわ」
中宮は静かに答えた。
「どのようなお立場であられたにせよ、かつて宮家としてお生まれになったお方でございますもの」
唐津の君は、それ以上何も言わず、ただ微笑んだ。
中宮は、今度は右大臣に目を向けた。
「右大臣殿が、何のわけもなく、このようなお方をお連れになるはずはございません。何かございましたか?」
右大臣の表情が引き締まった。
「はい。近ごろ、東宮を取り巻く者たちの動きが、どうにも気になりましてな」
その言葉に、几帳の陰で佐紀の手が止まった。
「東宮様を担ぎ出し、何事かを成そうとしている若者たちが集まっているようなのです。文章生たちが中心となっているらしく……」
右大臣は、ひと呼吸置いた。
「その中心にいるのが、式部卿殿のご子息、常尚殿だという話でございます」
――カタン。
几帳の陰から、扇が落ちた。
一同の視線が、音のした方へと向けられる。
佐紀は、扇を拾うこともできずにいた。
手が、小刻みに震えていた。
常尚……。
弟の名が、頭の中で何度も繰り返される。
そして、几帳の向こうにいる人々の視線が、次々と佐紀の隠れている場所へ集まっていった。
すると、中宮は右大臣に向き直り、厳しい面持ちで尋ねた。
「右大臣殿。そのような大事を、軽々しく口になさってはなりませぬ。何か、確かな証拠がございますの?」
「証拠ならば、ここにおられる一宮様がご存じです」
「なんと……」
中宮は驚き、唐津の君へと目を向けた。
右大臣は静かに話を続けた。
「一宮様は、東宮様のお母上の兄君と、古くから親交がおありでした。そのご縁もあり、東宮様が母上の菩提寺へ参詣され、宿坊にお泊まりになった折、かつての皇統をめぐる事情を知ってしまわれたようなのです。
それ以来、私は幾度か東宮様に接触し、こうした動きに加担なさらぬよう、説得を重ねてまいりました。
しかし、若い者たちの決起への思いは強く、今では東宮様ご自身にも、抑えきれぬほどになりつつございます。
しかも、どうやら裏で糸を引いている者がいるようなのです。現在、左大臣殿と太政大臣殿が中心となり、調べを進めているところでございます」
右大臣は、そこで一度言葉を切った。
「本日、中宮様のもとへ参りましたのは、ほかでもございませぬ。結衣姫様の御指南役を務めておられる佐紀殿が、常尚殿の姉君と伺ったからでございます。
弟君を案じる姉君のお立場から、常尚殿を説得していただけないものかと……そのご相談に参った次第です」
突然の話に、中宮は返す言葉を失った。
東宮をめぐる政治の動き。それに関わる若者たち。そして、結衣姫の御指南役である佐紀と、その弟の常尚。
あまりに多くのことが一度に明らかになり、中宮はすぐには考えをまとめることができなかった。
その様子を見かねた伊予の局が、静かに口を開いた。
「右大臣様のお話、承知いたしました。ですが、この場で中宮様がお返事をなさることは、難しゅうございましょう。
何しろ、あまりに突然のお話でございます。中宮様が、どうお考えになればよいものか、戸惑われるのも無理はございません。
本日は、ひとまずお引き取りいただき、改めてお話し合いの場を設けてはいかがでしょう。その折には、左大臣様、太政大臣様のお考えも伺ったうえで、慎重に事を進めるべきかと存じます」
右大臣は、伊予の局の言葉にうなずいた。
「失礼いたしました。伊予の局殿のおっしゃるとおりでございます。中宮様にも、突然のことでご負担をおかけいたしました。では、日を改めて参りましょう」
右大臣は中宮に丁寧に頭を下げ、唐津の君とともに退出していった。
中宮は、佐紀と二人きりになると、佐紀は深々とひれ伏した。
「申し訳ございません、中宮様。私のことで、中宮様にまでご迷惑をおかけしてしまい……」
中宮は、頭を下げたままの佐紀を静かに見つめた。
「お辛かったでしょう。誰にも打ち明けられず、ずっと心を痛めていたのですね。このようなこと、軽々しく人に相談できるものではありませんもの。佐紀殿、どうか顔を上げてください」
優しい声に促され、佐紀はゆっくりと顔を上げた。
「もしよろしければ、これまでの事情をお話しいただけませんか」
佐紀は一瞬ためらったものの、やがて胸の内を素直に語り始めた。
中宮は、最後まで口を挟まず、静かに耳を傾けていた。
話が終わると、中宮は佐紀をまっすぐに見つめた。
「佐紀殿。弟君の常尚殿が、たいそう優秀なお方であることは、私の耳にも届いておりました。そのような弟君を持つ佐紀殿が、結依の師でいてくださることを、私は誇りに思っております。もちろん、それは今も変わりません」
「中宮様……」
佐紀は、思わず顔を上げた。
「ようやく、佐紀殿のお顔が見えましたわ」
中宮が微笑む。
その笑顔に、佐紀の胸は熱くなった。
あまりにも温かな言葉だった。今まで一人で抱えてきた苦しみを、何もかも見透かされたようで、かえって居心地が悪くなるほどだった。
中宮は、そんな佐紀の心を察したかのように、そっと続けた。
「佐紀殿、よく聞いてくださいませ。私は、結依のことで、どれほどあなたに助けられているか分かりません。
今回のことがあったからといって、結依の師を辞することなど、許しませんよ」
佐紀が驚いて目を見開くと、中宮は少しだけいたずらっぽく笑った。
「私はこう見えても、欲張りなのです。あなたのような優秀な方を、ほかの手習いの師に譲るなど、絶対に嫌です」
いつになく語尾を強めた中宮に、佐紀は思わず息をのんだ。
「ですが、今は少し休みましょう。そして、常尚殿のことにひとまず決着をつけてから、また結依の師に戻ってきてくださいませ」
中宮は、そこで一度言葉を切った。
「それから、今回のことは、いつか結依にも話してあげてください。人が何を大切にし、何を守ろうとして苦しむのか……。きっと、あの子にとっても大切な学びになるでしょう」
そして、中宮は佐紀の手をそっと握った。
「ですから、どうか常尚殿を守ってください。未来ある若者が、志半ばで道を閉ざされることのないように。佐紀殿、あなたならできると、私は信じています。
後のことは、こちらで取り計らいます。心配はいりませんよ」
佐紀の目から、涙がこぼれた。
自分が泣いていることに、佐紀自身が驚いていた。
これまで、弟を守るために何をすべきか、そればかりを考えてきた。誰かに弱音を吐くことも、助けを求めることもできなかった。
けれど今、ようやく、自分も誰かに支えてもらってよいのだと思えた。
佐紀は涙をぬぐい、中宮の手を握り返した。
「かしこまりました。常尚は……私が、何としても守り抜きます」
その言葉には、姉としての覚悟と、一人の人間として再び立ち上がる決意が込められていた。




