第四十二章 陰陽師幸対怨霊 幸倒れる
右大臣は、小乃葉のいない部屋で、ひとりため息をついていた。
いつも当たり前のようにそばにいて、にこにこと笑っていた妻。
あまりにもそばにいるのが当たり前になっていたせいか、こうして姿が見えなくなると、思いのほか心が沈む。
「右大臣殿」
声をかけられて顔を上げると、唐津の君が立っていた。
「ああ、これは唐津の君。尚之の手習いは終わりましたか?」
「ええ。ところで右大臣殿、少しお付き合いいただけませんか」
そう言って、唐津の君は白酒を差し出した。
「そうですね。久しぶりに、ご一献と参りましょう」
右大臣は侍女に盃と酒の肴を用意するよう命じた。
やがて盃が運ばれてくると、二人は向かい合い、酒を酌み交わした。
しばらく他愛のない話をしながら飲んでいるうちに、二人の頬には、ほんのりと酒の色が差してきた。
「ところで、尚之の様子はいかがですか?」
右大臣が尋ねると、唐津の君は盃を置いた。
「大丈夫ですよ。小乃葉殿が実家へ戻ると聞いたときは、さすがに寂しそうにしておりましたが、子供は慣れるのも早いものです。母から、これまで以上に学問に励むよう、きつく言われたそうでしてね。今では、以前にも増して手習いに集中しているようです」
「それは何よりです」と右大臣は頷き続けて
「ははは……。それに比べて、大人というものは情けないものですな」
右大臣は苦笑した。
「いつもそばにいる妻が、しばらくいない。それだけのことなのに、もう二度と会えないのではないかと思うほど、寂しくなりましてね」
唐津の君は、思わず笑みをこぼした。
「素直なお方だ。宮中でもしっかり者として知られる右大臣殿のお言葉とは、思えませんね」
「ははは。男というものは、案外、弱いものなのですよ」
右大臣もまた、照れ隠しのように笑った。
そして、ふと思い出したように唐津の君へ目を向けた。
「そういえば……唐津の君こそ、瑞穂殿とは、いかがなのですかな?」
「えっ!」
唐津の君は、思わず、右大臣を見た
「ご存じだったのですか……? まさか、小乃葉殿からお聞きに?」
「ははは。妻は、女子同士のやり取りを、私にそう簡単に話すような者ではありませんよ。ああ見えて、そういうことには口が堅いのです」
右大臣は、面白そうに目を細めた。
「それに、私も一応、都の公達ですからな。宮中で甘いことも苦いことも、それなりに経験してまいりました。人の心の動きくらい、多少はわかるつもりですよ」
そう言って、右大臣は再び盃を口元へ運んだ。
唐津の君は、しばし返す言葉を失った。
目の前にいるのは、いつも冷静沈着で、隙のない右大臣。
その右大臣が、妻を恋しがって寂しがる一方で、人の心の機微を見逃してはいない。
唐津の君は、思わず苦笑した。
「これは……右大臣殿には、隠し事などできそうにありませんね」
「さて、それはどうでしょうな」
右大臣は意味ありげに笑い、唐津の君の盃に酒を注いだ。
「先ほど、安芸の局殿から、瑞穂殿の文をいただきましてね」
唐津の君は、盃を置き、穏やかに微笑んだ。
「どうやら瑞穂殿は、未来へ向けて一歩を踏み出したようです。私も、そろそろ唐津へ戻り、己の未来を懸けて、ひと勝負しようかと思いましてね」
「そうですか。いつごろになりそうですかな。決まりましたら、尚之にも伝えておきましょう」
「まあ、それほどすぐにというわけではございません。まだ、やり残したことがございますので」
「ほう……やり残したことですか」
右大臣が興味深そうに尋ねた。
「ええ……」
唐津の君は、それ以上は語らなかった。
やがて二人は静かに立ち上がり、縁側へと移った。
夜気は冷たく、空には青白い月が浮かんでいる。
二人は並んで腰を下ろし、しばらく黙って月を眺めていた。
「もう、世代が移り変わろうとしておりますね」
唐津の君が、ぽつりと口を開いた。
「過去を振り返ることしかできぬ私たちが、未来を見つめる若い者たちの歩む道を、塞いではなりませんね」
右大臣は、ゆっくりとうなずいた。
「そうですな。小乃葉も瑞穂殿も、それぞれに、自分らしい生き方を探しているのでしょう。若い公達たちもまた、己の信じる道を見つけようとしている。皆、思いは同じなのかもしれませんな」
「左大臣殿も、太政大臣殿も、よくやっておられる。私たちも、少しでも力になれるよう、尽力せねばなりませんな」
右大臣は、静かに微笑んだ。
唐津の君は、再び月を見上げた。
「そうですね……。小乃葉殿は太陽、瑞穂殿は月。そして我らは、その周りを漂う、名もなき星といったところでしょうか」
そう言って、唐津の君は笑った。
しかし、その笑みには、どこか寂しげな影があった。
かつて、自分もまた、誰かの未来を背負う立場にあった。
けれど今は、次の世代が歩む道を見届ける側にいる。
それを寂しいと思う自分がいる一方で、若者たちが自分の意志で未来を切り開いていくことを、何よりも願っている自分もいた。
唐津の君は、月から目を離さなかった。
そして、胸の内で静かに呟いた。
――それでも、まだ終わったわけではない。
やり残したことがある限り、私にも、進むべき道はあるのだから。
そのころ陰陽寮では、星の動きにさからってなにやら、不可思議なことが多く
保忠の命令ですべて計算をしなおしていた
「おかしいありえないどこかで記録を間違えたのか・・・・」
納得がいかない保忠であった。
「保忠様、これを」
陰陽寮の官人が、一通の紙を差し出した。
「どうしたのだ?」
保忠は受け取った紙を開き、目を通した。
「……!」
思わず顔色が変わる。
「これは……どこにあったのだ?」
「はい。相模殿のお部屋にございました」
「それで、相模は?」
「昨日より、どこにも姿が見えませぬ」
「昨日から……」
保忠は顔をしかめ、しばし考え込んだ。
やがて、決意したように顔を上げた。
「このまま宇治まで使いを頼む。今から父上宛ての文を書く。それを持ってすぐに出立できるよう、支度を整えておけ!」
「はっ!」
官人はただならぬ様子に気圧されながらも、急ぎ支度に取りかかった。
保忠は机に向かい、筆を執った。
「相模……なんということを……」
その呟きは、誰にも届くことなく部屋に消えた。
***
一方、入道の屋敷では――。
「北の方様!」
侍女の悲鳴が屋敷に響き渡った。
「何事だ!」
家人や側近たちが、次々と北の方の部屋へ駆けつけた。
そこには、北の方が倒れていた。
すでに息は絶えていた。
「……なんということだ」
居合わせた者たちが息をのむなか、ひとりの男がすぐさま指示を出した。
入道家に古くから仕える側近、宗達である。
「至急、皇太后様にお知らせせよ。それから、このことは決して外に漏らしてはならぬ。よいな!」
「はっ!」
「お前はすぐに安信様をお呼びしてこい。明光寺で写経をなさっているはだ」
家人たちが慌ただしく動き始める。
宗達は指示を終えると、その場にしゃがみ込んだ。
「北の方様……」
思わず、声が漏れた。
宗達は入道の明光寺の住職の息子であった。幼い頃から入道に可愛がられ、やがて入道家の内向きのことを任される側近となったのである。
北の方が、どれほどの権力と財力を手にし、入道家を取り仕切ってきたか。宗達は誰よりも近くで見てきた。
その北の方が、こうも突然に亡くなるとは。
宗達はしばらく動けずにいたが、やがて我に返り、乱れた装束を侍女に整えさせた。
「北の方様……あまりにも突然すぎます。なぜ……」
そのときだった。
北の方の手元から、一枚の紙がはらりと落ちた。
宗達は何気なく拾い上げ、開いた。
「……!」
目を走らせた途端、表情が一変した。
「これは……なんと……」
慌てて紙をたたむと、懐へしまい込む。
「宗達様?」
不審に思った侍女が声をかけた。
「ああ、何でもない。北の方様のお手紙だ。あとで皇太后様におみせしよう大切にしまっておこう」
そう言って、宗達は何事もなかったかのように振る舞った。
やがて家人たちが寝床を整え、北の方の亡骸を静かに横たえた。
しばらくは物音ひとつしなかった屋敷も、時がたつにつれ、人の出入りが増えていく。
北の方の実子は皇太后ただ一人であったが、広大な屋敷には側室腹の息子たちも暮らしていた。
こうなれば、騒ぎが広まるのも時間の問題だった。
やがて、入道の息子たちが次々と集まってきた。
「北の方様が……なんということだ」
「なぜ、急に……」
皆、戸惑いを隠せず、立ち尽くしていた。
「安信様がお着きになりました!」
使いの声が響いた。
宗達はすぐさま出迎えに向かった。
「安信様、お早いお着きで……」
「今日は北の方様に、菜々子のことでお話があり、こちらへ参る途中でした。そこへ、使いの者から急な知らせが届いたので、さらに急がせたのですが……。まさか、このようなことに……」
安信は言葉を失い、兄弟たちの間をかき分けるようにして進んだ。
そして、北の方の枕元に膝をついた。
「北の方様……どうして……。もう少しでしたのに……。菜々子の晴れ姿を、お見せしたかったのに……」
安信の目から涙がこぼれ落ちた。
その姿を見ていた兄弟たちは、悲しみに暮れる安信を気遣うどころか、顔を見合わせた。
「晴れ姿とは、いったい何のことだ?」
「やはり、あの噂は本当だったのか……」
ひそひそと囁き合う声が聞こえてくる。
「あいつの妻は左大臣家のお姫様だからな。おれたちとは、ご身分が違うのさ」
「いや俺たちだってもとをただせば帝の・・・」と好き勝手放題にいっていた。
宗達は、そんな口さがない言葉を耳にしながら、心の中で呆れた。
――目の前におられる北の方様が亡くなられたというのに、涙ひとつこぼさぬとは……。
人の心とは、かくも冷たいものなのか。
そのとき、再び使いの声が響いた。
「皇太后様、ご到着!」
宗達は急ぎ、車寄せへと向かった。
「宗達! いったい、どういうことです! 母上に何があったのです!」
皇太后は、車から降りるなり、宗達に詰め寄った。
「皇太后様、どうかお声をお抑えください。まだ、このことを世間に知らせるわけにはまいりませぬ」
「何を申すのです!」
母の身に何が起きたのかもわからぬまま、取り乱すことさえ諫められた皇太后は、いっそう腹立たしさを募らせた。
しかし、今は宗達を問いただしている場合ではない。
皇太后は足早に奥の部屋へと向かった。
そして、白い顔で横たわる母の姿を目にした途端、足が止まった。
「……これは……」
次の瞬間、皇太后は母のもとへ駆け寄り、すがりついた。
「母上様! 母上様……!」
その声が、静まり返った部屋に響き渡った。
皇太后は、これからのことを思うと、たまらなく不安であった。
帝の母という地位は、今も揺らいではいない。だが、入道家がこれからどうなっていくのか、その行く末はまったく見当もつかなかった。
北の方の急死は、入道家のみならず、今後の宮中の勢力図をも変えてしまいかねない出来事であった。
頼みとする兄弟は、いずれも側室腹である。入道の血を引く者たちでありながら、皇太后には、どういうわけか心を許せる身内とは思えなかった。
何を信じ、誰を頼ればよいのか。
心の整理もつかぬままにいると、安信が遠慮がちに声をかけた。
「皇太后様……ここは、左大臣様にご相談申し上げてはいかがでしょう」
「左大臣に?」
皇太后は、安信の意図を測りかねた。
「左大臣様は、我が妻の父上であり、私にとっても義理の父にあたるお方です。当家とは姓こそ違いますが、親戚筋と申してもよろしいでしょう。分別もあり、頼りになるお方です。人目につかぬよう使いを立てれば、世に知られることなく、ご相談に乗っていただけるかと存じます」
「何をいうの。このような時に、大伴家など……」
そこまで口にして、皇太后ははっとした。
「……すまなかったわ。あなたの妻の実家を、下に見るような言い方をしてしまいましたね」
自分の心の内を見透かされたようで、皇太后は少し居心地の悪さを覚えた。
「いいえ、私は気にしておりません。それより、皇太后様には、心から信頼してご相談できるお方がおいでになりますか?」
安信の問いに、皇太后は答えられなかった。
やがて、力なく肩を落とす。
これまで皇太后は、入道家の権力のもとで生きてきた。誰かに助けを求める必要などなかった。むしろ、周囲の者たちが皇太后を頼り、何かと相談を持ちかけてきたのである。
それなのに、今はどうだ。
誰を信じればよいというのか。
皆、入道家の権力や財産を目当てに近づいてくるだけではないのか。
「皇太后様?」
安信が、もう一度そっと呼びかけた。
皇太后はしばらく考え、静かに口を開いた。
「そうですね……。左大臣家を信用しているとは申せませんが、我が家と利害関係が比較的薄いのは、左大臣家かもしれませんね」
そして、ようやく決心したように告げた。
「使いを出しましょう。くれぐれも、隠密に」
四面楚歌の思いに沈む皇太后にとって、それは、今できる唯一の選択であった。
そして後に皇太后は、このときの判断こそが、結果として最善のものであったと思い知ることになる。
それは、まだ先の話である。
そうこうしているうちに、日が暮れ、夜になった。
冬とはいえ、北の方の亡骸にも、少しずつ変化が現れ始めていた。
皇太后は侍女に化粧道具を持ってこさせた。
「母上、もうすぐ左大臣殿がお見えになります。せめて、お顔だけでも綺麗に整えて差し上げましょう……」
そう言って、皇太后は自ら母の顔に化粧を施した。
やがて、
「左大臣様がお見えになりました」
と、知らせが入った。
「お通ししなさい」
ほどなくして、青ざめた顔の左大臣が部屋へ入ってきた。
「これは……何と申し上げてよいものか。皇太后様……」
左大臣は皇太后のそばに膝をついた。
「左大臣殿……よくぞ、来てくださいました……」
皇太后は左大臣の顔を見た途端、涙があふれて止まらなくなった。
これまで母を見守り、入道家を支えねばと、気丈に振る舞ってきた。その張り詰めていた心が、ようやく頼れる相手を得たことで、ふっと緩んだのだろう。
皇太后はその場に崩れ落ちた。
「誰かある!」
左大臣が声を上げると、宗達が駆けつけた。
「皇太后様!」
「騒ぐでない!」
左大臣は宗達を制した。
「大事ない。少しお疲れが出たのであろう。安信殿を呼んでまいれ。それから、侍女たちとともに皇太后様を寝所へお運びするのだ。皆、慌てずに動きなさい」
手短に指示を出すと、左大臣は中庭へ目を向けた。
「長尾、そこにおるか」
「はい」
物陰から長尾が姿を現した。
「よいか、急ぎ屋敷へ戻り、北の方と英嗣を呼んでまいれ。あまり出過ぎたことはしたくないが、奥向きを取り仕切る者がおらぬ。我が妻ならば、うまく采配を振るうであろう。英嗣には、今後の大臣方との連絡に動いてもらう。よいな、すぐに呼んでくるのだ」
左大臣は、さらに言い添えた。
「私が乗ってきた網代車が、まだその辺にあるはずだ。それを使い、二人を連れて戻ってまいれ。ただし、左大臣家の者が表立って仕切っているなどと、入道家の者たちに思われてはならぬ。よいな」
「かしこまりました」
長尾はすべてを察したように頭を下げ、すぐさま屋敷を後にした。
長尾と入れ替わるように、安信が部屋へ入ってきた。
「義父上。このたびは、お呼び立てして申し訳ございません。我が家は、表向きこそ一枚岩などと言われておりますが、いざとなればこの有様……。お恥ずかしい限りです。どうか、お力添えをお願いいたします」
左大臣は、安信の肩をそっとたたいた。
「なに、これまで一家を支えてこられた入道殿が亡くなられて、まだ一年もたたぬうちに、今度は北の方様まで……。家の柱が立て続けに折れたようなものです。年の功とは申しますこのような時くらい妻の実家を頼るのもよいのものですよ」
そう言って、安信を気遣うように微笑んだ。
「とはいえ、私が表立って動いては、ご兄弟たちも面白くはありますまい。まずは、安信殿。あなたが家長として、この後のことを取り仕切ってください」
「私が……ですか?」
「もちろんです。皇太后様を除けば、あなたが最年長。誰が異を唱えられましょう。それに、皆もこのような厄介事を自ら引き受けたいとは思いますまい」
左大臣は、少し声を和らげた。
「奥向きのことは、今、我が妻を呼びにやっております。弟君たちの北の方もおいでになるでしょうが、そこは妻がうまく取り計らうはずです。我が家も、奥向きのことでは苦労しておりますからな」
そう言って笑いかけたが、すぐに思い出したように口元を引き締めた。
「これは失礼。不謹慎なことを申しました」
安信も、わずかに表情を緩めた。
「それから、英嗣も呼び寄せております。大臣方への連絡には、あの子をお使いください。こうした役目には、なかなか向いておりますのでな」
左大臣は安信の目をまっすぐに見た。
「私は表立って口を出すことはいたしません。しかし、あなたが困ったときには、いつでも相談に乗りましょう。どうか、ご安心なされませ」
「義父上……ありがとうございます」
安信は深く頭を下げた。
夜も更けてきた。
左大臣の指示を受け、明光寺へ使いが遣わされ、僧正への連絡も進められた。
こうして、混乱していた入道家は、少しずつ動き始めたのである。
そしてあくる日、宮中に震撼が走った。
「入道の北の方様 ご逝去・・」そしてこれが新しい世に向けた始まりであった。
陰陽寮では、入道の北の方の死をはじめ、立て続けに起きた異変について、官人総出で調査が進められていた。
しかし、書物や天体の記録をいくら調べても、原因となるものは見つからない。
これほど短い間に、次々と事件が起きるとは――。
誰かが故意に仕掛けているとしか思えなかった。
忠嗣は、保忠から報告を聞き終えると、低くつぶやいた。
「やはり……相模かの」
「私もそう思います。あれ以来、相模の消息がまったく分かりませぬ」
忠嗣は深いため息をついた。
「相模も、才能だけなら惜しい男であったのだが……」
「はい。天才とは、こういう者かと思っておりました。しかし、いかんせん気位が高く、誰ともなじむことができませぬ。なまじ才があるゆえに、人を見下してしまうのでしょう」
そう言いながら、保忠はふと幸の方へ目を向けた。
「……幸?」
幸は青ざめた顔で、身をこわばらせていた。
「どうした、幸」
忠嗣が声をかけると、幸は自分の腕を抱くようにして、小刻みに震えた。
「失敗しました。震えが止まらないのです。保忠様、皇太后様が……危ないです」
「何だと! お前、まさか!」
忠嗣と保忠は顔を見合わせた。
次の瞬間、二人は立ち上がり、御所内にある皇太后の御寝所へと急いだ。
一刻を争う事態である。先触れを出す暇もなかった。
「お待ちください! 皇太后様にお取り次ぎを!」
女御たちの制止を振り切るようにして、忠嗣と保忠は御寝所へ踏み込んだ。
そこで二人が目にしたのは、目を疑うような光景であった。
更衣と思われる女が、皇太后の上にまたがり、その首を絞めていたのである。
「きゃああっ!」
後ろからついてきた女御の一人が悲鳴を上げた。
「お静かに!」
保忠は女御たちを部屋の外へ退かせ、すぐさま御寝所の入口を閉じた。
忠嗣は女の前に進み出ると、印を結び、呪を唱えた。
すると女は、まるで狐のように軽々と身を躍らせた。人の身とは思えぬ跳躍である。
女は天井近くまで飛び上がり、そのまま天井裏へと姿を消してしまった。
「皇太后様!」
忠嗣が駆け寄ると、皇太后はうめき声を漏らしていた。首を絞めていた手は離れ、呼吸もいくらか楽になったようである。
だが、目を開けることはなかった。
「父上……これは、いったい」
保忠が声をひそめた。
「むやみに口にするでない。まずは結界を張る」
忠嗣は御寝所を見渡し、険しい顔で印を結んだ。
「……とはいえ、いつまで持つか分からぬがな」
そう言い残し、二人は陰陽寮へと戻った。
しかし、そこで待っていたのは、さらなる異変であった。
「幸!」
戻るなり、忠嗣は床に倒れ伏す幸を見つけた。
「幸、どうした!」
保忠が駆け寄る。幸は息こそしていたが、呼びかけても目を開けなかった。
忠嗣は幸の顔をのぞき込み、息をのんだ。
「幸が術を使い、自らを依り代にしてしまったようだ」
「では、先ほどの更衣は……」
「そういうことだろう。相模は、どこかの更衣に術をかけ、意のままに操っていたのだ。おそらく、あの女の身体はすでに……」
忠嗣は言葉を切った。
「亡骸は、どこかに捨て置かれているやもしれぬ。そして、術は更衣の身体を離れ、幸へと移ったのだ」
「まったく……ろくなことをしない男ですな」
保忠は悔しげに唇をかんだ。
「幸……無茶なことをして、まったく!」
保忠はあきれた顔で、幸を抱き上げた。
「皇太后様は、しばらくは大丈夫であろう。だが……」
忠嗣は眠ったままの幸を見つめた。
「今度は、幸がいつ皇太后様を襲うとも限らぬ」
保忠の顔から血の気が引いた。
「しかし、皇太后様にも、何か別の術がかけられている気配がございました。これは……」
「うむ。しくじれば、陰陽寮の名折れだ。何としても、術の正体を突き止めねばならぬ」
陰陽寮の静寂の中、幸はただ深い眠りに沈んでいた。
そのころ、太政大臣のもとにも皇太后襲撃の報が届いていた。
保忠が呼び出されると、太政大臣は険しい顔で問いただした。
「保忠殿、一体これはどういうことだ! ここは帝がおいでになる清涼殿、その奥まで鬼が入り込むとは、大失態であるぞ!」
「大変申し訳ございません。何も申し上げる言葉もございません」
保忠は深く頭を下げた。
「それで、皇太后様のご様子は?」
「はい。今のところは落ち着いておられます。ただ、今回の件で初めて皇太后様のご様子を間近で拝見いたしましたが、どうも、ただの病とは思えぬふしがございます」
「どういうことだ?」
「詳細につきましては、現在、陰陽寮にて調べております。つきましては、しばらくの間、皇太后様の警護を増やしていただきたいのですが……」
「どういう意味だ? 目に見えぬ怨霊が相手なら、人間の警護など役に立つのか?」
保忠は少し考えてから答えた。
「怨霊そのものを人の力で防ぐことは難しゅうございます。しかし、今回の怨霊が何者かによって仕組まれたものであれば、話は別です。陰陽師には、その仕掛けを読み解く術がございます。方位を割り出し、原因を突き止めることができれば、あとはその場所に結界を張るだけです」
「なるほど……。つまり、仕掛けた者がいるということか」
保忠はそれ以上は語らず、静かに頭を下げた。
やがて保忠が退出すると、一人残された太政大臣は考え込んだ。
いつも冷静な保忠が、あれほどまでに警戒している。何かあるに違いない。
「誰かある」
控えていた者がすぐに進み出た。
「右近中将を呼んでくれ」
ほどなくして、右近中将・英嗣が参上した。
「今回の皇太后様の騒ぎ、聞き及んでおろう」
「はい」
「英嗣殿には、皇太后様の周辺の警護を強化してもらいたい。保忠から聞いた話も伝えておこう」
太政大臣は、陰陽寮で起きたことと、忠嗣たちが懸念していることを話した。
「今回は皇太后様のお身に関わることだ。皇太后様のお近くは、そなたが守ってくれ」
「承知いたしました」
英嗣は深く頭を下げた。
それから二日が過ぎた。
そして、運命の夜が訪れた。
皇太后の御寝所を警護していた英嗣は、中庭にぽつりと鬼火が現れるのを見た。
一つ、また一つ。
その数は、瞬く間に増えていった。いくつあるのか、もはや数えることもできない。
「何だ、あれは……」
警護の者たちは弓矢を手にし、弦や武具を鳴らし始めた。邪気を払うためである。
しかし、鬼火は増える一方だった。
その炎は人の気配を感じ取るかのように、ゆらゆらと揺れながら御寝所へと近づいてくる。
その時だった。
鬼火を従えるように、一人の女御が現れた。
女御は人の足とは思えぬ速さで、こちらへ迫ってきた。
「止まれ!」
英嗣が叫ぶ間もなく、女御は御寝所へと入り込んでしまった。
しまった――。
英嗣は、すぐさま御寝所の格子を上げた。
「皇太后様、失礼いたします!」
そして、目にした光景に息をのんだ。
そこに立っていたのは、幸だった。
「幸さん!」
思わず名を呼んだ。
英嗣は駆け寄ろうとした。だが、突然、身体が金縛りにあったように動かなくなった。
鬼火は幸の周囲を幾重にも取り巻き、ほかの者を寄せつけまいとしているかのようだった。
幸は鬼火を気にも留めず、ゆっくりと皇太后のそばへ歩み寄った。
「幸さん! どうして、ここに……。いったい何をしようとしているのです!」
英嗣は必死に叫んだ。
しかし、声は出なかった。
幸は静かに皇太后の首元へ手を伸ばした。
「幸さん! よせ! 駄目だ、皇太后様を殺してはならぬ!」
心の中で、英嗣は何度も叫んだ。
だが、幸の手は止まらなかった。
やがて、その手はゆっくりと皇太后の額へと移った。
幸は目を閉じ、何かを唱え始めた。
その時、天井から、どす黒い影が這い出してきた。
影は生き物のようにうごめきながら、皇太后の顔へと伸びていく。
その瞬間だった。
「喝!」
幸の鋭い声が御寝所に響いた。
すると、幸の周囲を取り巻いていた鬼火が一斉に黒い影へと襲いかかった。
炎は影を包み込み、焼き尽くそうとする。
「おおおおお……!」
この世のものとは思えぬ叫び声が、御寝所を震わせた。
英嗣の背筋にも、ぞっとするものが走った。
幸は静かに目を閉じ、両手で印を結んだ。
唇から、低く呪がこぼれる。
「天地四方、陰陽定まりて、邪気を鎮めよ……急急如律令」
そして、最後に言い放った。
「退散!」
黒い影は激しく身をよじったかと思うと、炎の中で燃え尽き、跡形もなく消え去った。
その瞬間、御寝所を包んでいた異様な気配が消えた。
静寂が戻った。
英嗣の身体からも、ようやく力が抜けた。
「……動ける」
英嗣は、すぐさま幸のもとへ駆け寄ろうとした。
その時、寝床からかすかな声が聞こえた。
「ここは……」
皇太后が目を覚ましたのである。
「皇太后様!」
英嗣は慌てて寝床のそばへ駆け寄った。
「皇太后様がお目覚めになりました!」
声を上げても、女御たちは恐怖のあまり、誰一人として部屋に近づこうとしなかった。
英嗣は近くに控えていた警護の者たちに命じた。
「皇太后様を、別のお部屋へお移しするのだ」
それから皇太后に向き直り、深く頭を下げた。
「皇太后様、英嗣にございます。お目覚めになられたばかりで、まだお辛いことでございましょう。どうか、しばらくお休みくださいませ」
「英嗣殿……。私は、いったいどうしたのでしょう」
「今は、どうかご無理をなさいませぬよう。警護の者が身体に触れることを、お許しください。女御たちも、恐ろしさのあまり動けなくなっておりますゆえ」
皇太后は周囲を見渡し、静かにうなずいた。
「……そうですか」
そして、その視線が部屋の片隅へと向いた。
そこには、幸が倒れ伏していた。
英嗣は、すぐにでも駆け寄りたかった。
けれど、皇太后を安全な場所へお移ししなければならない。
「幸さん……」
英嗣は、胸が張り裂けそうな思いで幸を見つめた。
「すぐに戻ります。どうか……待っていてください」
英嗣は皇太后を帝の近くにある部屋へとお移しした。
その後のことは女御たちに任せ、警護の者たちを御寝所へ戻らせると、一目散に幸のもとへと駆け戻った。
部屋へ入るなり、目に飛び込んできたのは、幸を抱き起こそうとしている忠嗣と保忠の姿だった。
「何をしているのです!」
英嗣は二人の間に割って入り、幸を抱きしめた。
「幸さん!」
その身体は、あまりにも冷たかった。
腕の中に抱きしめても、返事はない。
胸に耳を寄せても、生命の気配が感じられないように思えた。
「なぜです……。なぜ、幸さんがこんな目に遭わなければならないのですか」
英嗣の声が震えた。
「幸さんが、いったい何をしたというのです……。幸さん!」
腕の中の幸を、さらに強く抱きしめた。
忠嗣も保忠も、何も言えなかった。
「出ていってください……」
英嗣は顔を上げずに言った。
「幸さんと、二人だけにしてください」
そして、かすれる声で続けた。
「もう……誰にも邪魔させません。幸さんと私のことは、誰にも」
忠嗣と保忠は顔を見合わせた。
やがて、何も言わずに部屋を出ていった。
二人きりになった。
英嗣は幸を腕の中に抱いたまま、その顔を見つめた。
「幸さん……」
何度呼んでも、返事はなかった。
「やっと……二人きりになれたね」
英嗣は、かすかに笑おうとした。
「私ね、幸さんと結ばれなくてもよいと思っていたんだ。幸さんが生きていてくれる。それだけで、十分だと……そう思っていた」
声が途切れた。
「でもね……幸さんのそばにいると、優しさに包まれていると、欲が出てしまったんだ」
幸の髪を、そっと撫でた。
「本当は……結ばれたかった。ずっと、そばにいたかった」
涙が頬を伝った。
「でも、幸さんに嫌われるのが怖かった。だから、ずっと我慢していたんだよ」
英嗣は、幸の手を両手で包み込んだ。
「……もう、会えなくなってしまうのかな」
返事はない。
「幸さんがいないのに、私はこれから何を思って生きていけばよいのだろう」
英嗣は幸を抱きしめた。
「幸さん……お願いだ。目を開けておくれ」
その声は、誰にも聞かせたことのない、弱く、切ない声だった。
「……幸さん」
ただ寂しく、英嗣の腕の中に抱かれる幸であった。
静寂が二人を包み込んだ。
「幸さん……」
英嗣は、幸の顔を見つめた。
「いままでずっと我慢をしていたんだ。最後に……いいよね」
そうつぶやき、幸の唇に顔を近づけた、その時だった。
「英嗣殿?」
幸が目を開けた。
「英嗣殿、何をされているのですか?」
「えっ! ええええっ、生きていたのですか?」
英嗣は驚きのあまり、声を裏返した。
「私は、死んでいたのですか?」
「はい。てっきり……」
幸は英嗣の腕の中から立ち上がろうとした。だが、足元がふらつき、再び英嗣に抱きとめられた。
「幸さん、このまま抱いて帰ります」
「いえ、結構です。歩けます!」
「駄目です! このまま抱いて帰ります!」
「いいえ、結構です。歩けます!」
「いいえ、抱いて帰ります!」
「英嗣殿には、私は重すぎます」
「幸さん、そんなことを言わないでください。私は、もう決心したのですから!」
「……何をです?」
「ですから! 幸さんを抱いて帰るのです!」
幸は、あきれたように英嗣を見つめた。
「……英嗣殿。私の話を聞いていらっしゃいますか?」
「聞いております!」
「では、腕をお緩めくださいませ。本当に息ができなくなります!」
「それはできません!」
部屋の外では、忠嗣と保忠が戸越しに二人のやり取りを聞いていた。
しばらく沈黙したあと、保忠がぽつりと言った。
「……あれほど心配していたというのに」
忠嗣は深々とため息をついた。
「まったく……。もう少し、落ち着いて話せぬものかの」
二人は顔を見合わせると、そっとその場を立ち去った。
いつ陰陽寮に戻ってくるのか……。
だが、安堵も束の間。
相模の術は、まだ終わってはいなかった。
そして、幸と英嗣の新たな戦いもまた、始まった。




