第四十一章 小乃葉は子を、瑞穂は東宮妃に、菜々子はもう一度
「お父様、それでは行ってまいります」
菜々子が父に向かって、丁寧に頭を下げた。
「ああ。母さまのこと、よろしく頼むぞ」
「わたくしは父の菩提寺である明光寺にいる。何かあれば、すぐに使いをよこしなさい」
安信はそう告げ、そっと手を握った。
「新一、妻と娘のこと、よろしく頼む」
安信が声をかけると、新一は深く頭を下げた。
「はい、かしこまりました」
安信は、留美に向き直った。
「留美、ゆっくり養生するがいい。私はいつでも待っている。身体がよくなったら、吉野の桜を見に行こう。……また、あのころのように」
その言葉に、留美は目を伏せ、それから静かに顔を上げた。
「はい、あなた。ありがとうございます」
かすかな笑みが浮かんだ。
「宇治には幸様がいらっしゃいます。そう思うと、私も少し気持ちが楽になりましてよ」
安信は、ほっとしたように妻を見つめた。
「そうか……」
それ以上、何も言わず、ただ留美の顔を見つめていた。
「それでは、安信殿」
忠嗣が声をかけた。
安信は最後に瑠美を抱きしめた
瑠美の頬を一粒の涙がつたつた
やがて、一行はゆっくりと歩き始めた。
まだ薄暗い朝靄が、あたりを白く包んでいた。
瑞穂は屋敷の自室で、退屈そうに琴を奏でていた。
「まあまあ、そのような弾き方では、琴がかわいそうですよ」
季子が声をかけると、瑞穂は振り返った。
「お母様……」
季子は娘の隣に座ると、琴に手を添え、静かに奏で始めた。
その音色は、瑞穂の奏でるものとはまるで違っていた。ひとつひとつの音が澄み渡り、庭の静けさに溶け込んでいく。
「さすがお母様ですわ。琴の名手といわれただけのことはあります。どうして私は、その才能を受け継げなかったのでしょうね」
瑞穂は笑った。
「お父様はね、私の琴の音色がお好きだったのよ。毎晩、お兄様のところへ相談に行くなどと嘘をついては、私のもとへいらしていたの」
季子は、懐かしそうに目を細めた。
「もちろん、兄は私が目当てだということなど、とっくにお見通しだったけれど……」
そこで、季子はふと口を閉じた。
しばらくして、娘の顔を見つめると、静かに語り始めた。
「瑞穂、実はね、私は東宮妃の候補だったのよ」
「えっ……!」
瑞穂は思わず母を見つめた。
そんな話は、一度も聞いたことがなかった。
「小さい頃から、いずれ東宮妃となるように躾けられてきたの。まあ、藤原家に生まれた女の宿命というものね」
季子は目を伏せた。
「けれど、あの政変で、すべてが崩れてしまった。父も兄も、それはそれは落胆していたわ。幸い、兄は帝の姫君を妻を迎えていたから、どうにか政界に居場所を残すことができたけれど……」
季子は、そっと息をついた。
「でもね、私は何とも思っていないのよ」
「何とも……思っていらっしゃらない?」
「ええ。だって私は、誰かのために生きるのではなく、自分の意志で生きているという自信があるもの」
季子は娘に微笑みかけた。
「だから瑞穂にも、自分の力で人生を切り開いてほしいの。家のためでも、誰かの望みのためでもなく、自分自身で選び、自分の足で歩いていける人になってほしいのよ」
「お母様……」
瑞穂には、母がなぜ突然、こんな話を始めたのか分からなかった。
季子はそれ以上何も言わず、再び琴に手を伸ばした。
静かな音色が、秋も深まり、寒々とした庭に流れていく。
先ほどまで物寂しく見えていた庭が、琴の音によって、色とりどりの景色を取り戻していくようだった。
やがて、最後の一音が消えた。
季子は琴から手を離すと、まっすぐに娘を見つめた。
その表情には、先ほどまでの穏やかさとは違う、確かな決意が浮かんでいた。
「瑞穂」
「はい、お母様」
「東宮妃になりなさい」
「……え?」
瑞穂は、母の言葉をすぐには理解できなかった。
自分の意志で生きなさいと言った、その母が。
なぜ今、自分に東宮妃になれと告げるのだろう。
瑞穂はただ、母の顔を見つめるばかりだった。
「東宮妃に……私が、なぜ?」
瑞穂は、思いもよらぬ話に戸惑い、母の顔を見つめた。
「あなたには、突然の話に聞こえるかもしれませんね。でも私は、あなたが東宮妃となってもおかしくない女性に育つよう、努めてきたつもりです」
季子は、静かに娘を見つめた。
「大宰府という、都から遠く離れた地で暮らしたこと。そこで見聞きしたもの、出会った人々……。あなたが体験してきたことは、都に暮らす貴族の姫君たちの誰一人として、知り得ないものです」
「私が、知り得ないものを……?」
「そうです。あなたは都の外を知っている。貴族だけでなく、庶民の暮らしも知っている。それは、あなたにとって大きな武器になるのです」
季子は、少し声を落とした。
「よいですか、瑞穂。あなたは、その知恵と知識をもって、東宮をお守りするのです」
「東宮様を、お守りする……?」
「そうです」
季子は、はっきりとうなずいた。
「私たちが、権力を手に入れたいがために、このような話をしていると思いますか?」
瑞穂は答えず、母の言葉を待った。
「お父様は、ここまで地位を築き上げました。あとは藤原の家柄もあります。お父様の商才と財力、そして藤原の名門という後ろ盾があれば、政治の世界で戦うことは十分にできます。あなたの力を借りずとも、ね」
季子は、そこで一度言葉を切った。
「ですから、あなたを東宮妃にして、権力を握ろうなどとは、少しも考えておりません」
「では、なぜ……」
「東宮というお立場には、それだけで価値があるからです」
季子の声には、長い年月をかけて見てきた政争への苦い思いがにじんでいた。
「誰が東宮になろうとも、その地位が持つ価値は変わりません。だからこそ、権力を欲する者たちは、東宮ご自身の意思など顧みず、己の都合で担ぎ上げる。思いどおりにならなければ責任を押しつけ、果ては廃位させる。そして、また別の者を東宮に据える……」
季子は、静かに首を振った。
「これでは、いつまでたっても東宮は権力者たちのおもちゃです」
瑞穂は、母の言葉を胸に刻むように聞いていた。
「けれど、今の東宮様は違います」
季子の表情が、わずかに和らいだ。
「ご自分の目で世の中を見ようとなさる。何が正しく、何が間違っているのか、ご自身で考えようとなさるお方です」
「……」
「私は、そんな東宮様だからこそ、お支えする価値があると思っています」
季子は、娘の手をそっと取った。
「瑞穂。東宮妃になるということは、ただ高い身分を得ることではありません。東宮様が権力者たちの思惑に流されず、ご自身の信じる道を歩めるよう、おそばで支えることなのです」
そして、母は娘の目をまっすぐに見つめた。
「あなたが見てきた世の中を、どうか忘れないで。それこそが、あなたにしかできない務めになるのですから」
瑞穂は、母の話を聞いても、まだ考えがまとまらずにいた。
けれど、一つだけ、はっきりとわかったことがある。
母は、権力のために娘を利用することも、娘が権力の道具として利用されることも、決して望んではいないのだ。
瑞穂はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「お母様……私の意志で決めても、よろしいのですね」
「もちろんですとも」
季子は、迷いなく答えた。
「ただし、時間は永遠にあるわけではありません。どれほど考えたところで、必ず決めなければならない時は来るのです」
「わかりました。では、今日から三日間、時間をくださいませ。その間に、必ず結論を出します」
瑞穂は、きっぱりと言い切った。
そして、母の顔をまっすぐに見つめた。
季子は、娘の目を見返し、やがて小さくうなずいた。
「わかりました。自分で決めたことなら、最後まで守りなさい」
そう言うと、季子はそれ以上何も言わず、庭へと目を向けた。
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
やがて、瑞穂がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、お母様。この間の宴で、陰陽師の幸様と初めてお話ししたのです」
「あら、幸様と?」
季子が、興味深そうに娘を振り返った。
「ええ。それで、幸様の瞳は藍色なのです。まるで吸い込まれそうなほど美しい瞳で……。どこかで見たことがあると思っていたのですが、ようやく思い出しましたの」
「まあ、どこで?」
「大宰府にいたころです。唐よりも、さらに海の向こうにある国から来たという猫を見たことがありました。たしか、ペルシャという国だったかしら……。その猫の瞳が、幸様の瞳によく似ていたのです。本当に、吸い込まれそうでしたわ」
瑞穂は、そのときのことを思い出すように、目を細めた。
季子は、ふっと微笑んだ。
「そうなの? それはぜひ、一度お会いしてみたいわね」
「ええ、お母様もきっと驚かれますわ」
瑞穂はそう答えた。
先ほどまで、あれほど重く感じられた胸の内が、ほんの少し軽くなったような気がした。
一方、右大臣家では、小乃葉が体調を崩し、床に臥せっていた。
しかし、その知らせは右大臣家と大納言家にとって、何より喜ばしいものでもあった。
小乃葉に、新しい命が宿ったのである。
和子が亡くなって数年。両家とも、表立って口にすることはなかったものの、内心では気が気ではなかった。
だからこそ、小乃葉の懐妊に両家が沸き立ったのは、言うまでもない。
尚之もまた、自分に弟か妹ができると知り、心から喜んでいた。
小乃葉の枕元に座り、心配そうに母の顔をのぞき込む。
「お母様、お加減はいかがですか。温石をお持ちしましょうか?」
「大丈夫ですよ。先ほど、安芸の局が持ってきてくれましたから」
小乃葉は優しく微笑んだ。
「それより尚之、今日は手習いの日でしょう。さぼってはなりませんよ」
「はい、お母様……」
返事をしながらも、尚之の顔には心配の色が残っていた。
そのとき、侍女がやってきた。
「唐津の君様がお見えでございます」
「まあ、そうですか。尚之、お行きなさい」
小乃葉は優しく、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「はい。では、お母様、どうかご無理をなさらずに」
尚之はもう一度母を気遣うと、部屋を出ていった。
一人になると、小乃葉はそっと息をついた。
それまで気丈に振る舞っていた心に、言いようのない不安が押し寄せてきた。
――本当に、私は大丈夫なのかしら。
世の女性たちは、皆、このような不安と闘っているのだろうか。
和子を失った悲しみは、今も心の奥に残っている。
新しい命を授かった喜びは、もちろんある。けれど、それと同じくらい、恐ろしかった。
小乃葉は、そっと目を閉じた。
――家に帰りたい。
ふと、そんな思いが胸をよぎった。
右大臣家に嫁いでから、これまで一度も、実家に帰りたいと思ったことなどなかった。
姉の身体が弱かったため、姉がこの家に嫁いでくると同時に、小乃葉も一緒に暮らし、身の回りの世話をしてきた。
だからこそ、右大臣家は小乃葉にとっても、我が家そのものだった。
けれど今は、ただ母に会いたかった。
母の顔を見て、その胸にすがり、何も心配はいらないと言ってほしかった。
そのときだった。
「小乃葉様、大納言家の北の方様がお見えでございます」
安芸の局の声が聞こえた。
「お母様が……?」
小乃葉の顔が、ぱっと明るくなった。
「すぐにお通しして!」
思わず起き上がろうとする小乃葉を、安芸の局が慌てて制した。
「小乃葉様、どうかご無理をなさいませぬよう」
「ええ、わかっていますよ」
そう答えながらも、小乃葉は少しでも身なりを整えようと、乱れた髪に手をやった。
やがて、北の方が部屋へ入ってきた。
「お母様……」
母の顔を見た途端、小乃葉の目から涙があふれた。
「まあまあ、小乃葉……」
北の方は驚くことも、理由を問いただすこともしなかった。
ただ、幼子のように泣く娘の肩を、そっと抱き寄せた。
安芸の局はその様子を見届けると、静かに部屋を出た。そして、誰も邪魔に入らぬよう、そっと見張りに立った。
しばらくして、北の方が娘の背を優しくさすりながら口を開いた。
「やはり、そうでしたか……」
「お母様?」
「昨夜、どうにも夢見が悪くてね。気になって訪ねてみたのですよ。そうしたら……小乃葉、あなた、不安だったのでしょう?」
その言葉に、小乃葉はまた涙をこぼした。
「お母様……不安で、不安でたまらないのです」
「そうでしょうとも。あなたには初めてのことですもの。それに、和子のこともありますからね……」
北の方は、娘の手を両手で包んだ。
「小乃葉、しばらく実家へ帰っていらっしゃい」
「え……?」
「陰陽師にも調べてもらいました。方角もよいとのことです。あなたから右大臣殿にお話しして、よい日を選んで戻ってくればよいのですよ」
母の言葉に、小乃葉は目を見開いた。
「尚之のことは、安芸の局に任せてもよいですし、あの子も一緒に連れて帰ってきても構いません」
「お母様……」
今は、あなた自身の身体と心を大切にすること。それが何よりです」
小乃葉は母の手を握りしめた。
「ありがとうございます……。少し、考えてみます」
北の方は、ようやく安堵したように微笑んだ。
「そうそう、あなたの好きなくるみを、たくさん持ってきましたよ」
そう言って、そばに置かせていた籠を開けた
そうそう、あなたの好きなくるみを、たくさん持ってきましたよ」
そう言って、そばに置かせていた籠を開けた。
中には、くるみがいっぱいに詰まっていた。
「潰して、砂糖と混ぜてお食べなさい。昔から、あなたはこれが好きでしたからね」
「お母様……ありがとうございます」
小乃葉は、また涙をこぼした。
母は何も変わっていない。
自分が幼いころ、悲しいことがあれば抱きしめてくれた母。好きなものを覚えていて、何も言わずに用意してくれる母。
その温もりが、今は何よりありがたかった。
気がつけば、日は大きく傾いていた。
障子越しに差し込む夕日が、部屋の隅々まで、柔らかな茜色に染め上げていた。




