第四十章 宴の後・・・
それぞれの思惑が交錯するなか、結依姫の生誕を祝う宴と、北の方の五十の賀は、無事に幕を閉じた。
秋も深まり、朝晩はめっきり冷え込むようになっていた。
「それでは、お師匠様。行ってまいります」
幸は忠嗣に挨拶をし、陰陽寮を後にしようとしていた。今回は、保忠が幸を見送ることになっていた。
「お師匠様。もし、例の方々がお見えになりましたら、何卒よろしくお願い申し上げます」
幸がそう頼むと、忠継は安心させるように笑った。
「大丈夫じゃ。心配せずともよい。皆、わしが宇治へ連れていくからの」
「ありがとうございます」
幸はほっとしたように微笑むと、秋始まる都を後にした。
一方、御所では、先日の宴の話題で持ちきりだった。
帝は、今回とても素敵でいらっしゃいましたわね」
「本当に。これまでは、どこか幼さが残っておいででしたのに、すっかり凛々しくなられて」
「やはり、そろそろでしょうか」
一人の女房が、声を潜めた。
「そうね。最近、式部卿様が皇太后様のもとへ、ずいぶん頻繁に通っていらっしゃるでしょう?」
「ええ。そろそろ、お話がまとまる頃なのかもしれませんわね」
「入道様のお孫君ですもの。まあ、仕方のないことかもしれませんわね」
女房たちは顔を見合わせた。
「では、あの方が……?」
誰の名を口にするでもなく、互いの顔色をうかがう。
帝の将来をめぐる話は、まだ誰にも明かされていない。けれど、御所の女房たちは、すでに何かが動き始めていることを感じ取っていた。
近頃、英嗣はどうしたのだ。どうにも元気がないようだが」
左大臣が、ふと心配そうに口にした。
長尾も、同じことを気にかけていた。
先日の宴の日、英嗣はひどく思いつめた様子で部屋に戻ってきた。声をかけても、ろくに返事もしない。
宴の警備に追われ、忙しい日々が続いていたため、初めは疲れが出たのだろうと思っていた。
しかし、どうも様子がおかしい。
毎日、参内はするものの、用が済めばすぐに部屋へ閉じこもってしまう。以前のように人と語らうこともなく、何かを考え込んでいるようだった。
――幸様と、何かあったのだろうか。
長尾の脳裏に、そんな考えがよぎった。
あれほど気にかけていた幸のことだ。何かあったのなら、英嗣が心を乱すのも無理はない。
だが、長尾は左大臣家に仕える身であり、英嗣の側近として屋敷内の務めを果たす立場にある。主人の胸の内を察することはできても、男女の仲や、外向きの事情にまで軽々しく口を挟むわけにはいかなかった。
長尾は、英嗣の様子を気にかけながらも、ただ静かに見守るしかなかった。
しかし、英嗣の胸の内にあるものが、単なる恋の悩みではないことを、まだ誰も知らなかった。
その一方、兼之と北の方は、次の五節の舞について話し合っていた。
太政大臣から、瑞穂を舞姫にしてはどうかとの申し出があったのだ。
もっとも、太政大臣には別の思惑もあった。同行する女童に、将之の妹である玖瑠実を選ばせたいのである。瑞穂の舞姫への推薦は、そのための布石でもあった。
「まったく、お兄様も相変わらず勝手なのだから……」
兼之の北の方は、あきれたようにため息をついた。
「だが、よく考えてみるのだ。瑞穂の美しさは、誰もが認めるところだ。しかし、ほかの姫君たちは幼い頃から都で育ち、その評判も広く知られている。その点、瑞穂は太宰府にいたため、少々出遅れてしまった。この機会に帝や東宮、貴族の公達に顔を覚えてもらうことは、良い縁談を結ぶためにも大切なことだ」
兼之は、落ち着いた口調でそう話した。
「まあ、あなた。都の公達ならまだしも、帝や東宮など、恐れ多いことですわ」
そう言いながら、北の方の脳裏には、先日の宴のことが浮かんでいた。
――あの歌は、順序からすれば瑞穂のものだったはず。その後に詠まれた東宮の歌……。あれは、瑞穂の歌への返歌のようにも聞こえたわ。
北の方は、ふと考え込んだ。
――だとしたら、いつの間に東宮とそのようなご縁ができたのでしょう。
瑞穂にそれとなく尋ねてみても、本人にはまったく思い当たる様子がない。
――もし、東宮が一方的に瑞穂に思いを寄せているのだとしたら……。このたび舞姫となれば、二人の間に新たな道が開けるかもしれないわ。
北の方は、しばらく考えたのち、顔を上げた。
「とにかく、一度お兄様に相談してみましょう」
そして、近くに控えていた女房に声をかけた。
「誰か、太政大臣家へ使いを!」
北の方は、さっそく動き始めた。
瑞穂の知らぬところで、母の思惑と太政大臣の思惑が重なり、ひとつの縁が動き始めようとしていた。
そのころ、太政大臣家でもひと騒動が起きていた。
「将之! 将之は帰っておらぬか!」
太政大臣が屋敷に戻るなり、大きな声を上げた。
宴の準備で大忙しだった将之は、ようやく仕事を終えると早々に屋敷へ戻り、疲れから昼寝をしていた。
冬弥は慌てて太政大臣のもとへ駆け寄った。
「何かございましたでしょうか。若君は今回の準備でことのほか心を砕かれたため、お疲れのご様子にございます。ただいま、お部屋でお休みになっております」
太政大臣は真剣な顔で告げた。
「おこしてまいれ」
「かしこまりました」
冬弥はそう答えると、将之の部屋へ向かった。
部屋では、父親の声に気づいた将之が、すでに起き上がっていた。
「冬弥、父上の怒鳴り声が聞こえたけれど……僕に何か用なのかな?」
冬弥は何も答えず、ただ黙ってうなずいた。
将之は、たちまち不安そうな顔になった。
「僕、何かしたかな?」
「さあ……私には何とも申し上げられません」
「冬弥~」
将之は情けない声を出したが、仕方なく父の待つ部屋へと向かった。
「父上様、お帰りなさいませ……」
挨拶をして、恐る恐る父の顔を見上げる。
ところが、そこにいた太政大臣は、意外にもにこにこと笑っていた。
「将之、喜べ! 今回の宴での働きについて、皇太后様、帝、中宮様、皆様からお褒めの言葉をいただいたぞ! これなら来年春の除目では、一階級昇進できるであろう!」
「……」
将之は、ぽかんとしたまま父を見つめた。
「どうした? うれしくないのか?」
太政大臣が不思議そうに尋ねる。
「あっ、はい! ありがとうございます。父上、それだけでございますか?」
「? そうだが。何かあるのか?」
将之は、ようやく胸をなで下ろした。
「よかった……!」
思わず口をついて出た言葉だった。
すると、太政大臣の笑顔がすっと消えた。
「将之! 何か隠し事をしておるのか?」
「い、いいえ! 何もございません。ただ、宴の日に東宮御所へ怪しげな男が出入りしていたのを見かけましたので、てっきりそのことかと……」
「何……! 怪しげな男だと? なぜそれを早く申さぬ!」
太政大臣の声が、再び屋敷に響き渡った。
せっかくの褒め言葉も、出世の知らせも、すっかり吹き飛んでしまった。
部屋の外で一部始終を聞いていた冬弥は、がっくりと肩を落とした。
「若君……。今、それをおっしゃっては、おしまいでございました……」
冬弥は深いため息をつき、うなだれた。
「冬弥、そこにおるな」
「はい、控えております」
「今の将之の話、聞いておったな」
「……はい」
「至急、左大臣家へ参り、左大臣殿と英嗣殿に、こちらへお越しいただくようお願いしてまいれ。くれぐれも粗相のないようにな。それから、間もなく妹も参る。そのことも伝えておけ。よいな。詳しいことは申すでない。尋ねられたら、東宮様の件とだけ伝えよ」
「かしこまりました」
冬弥はすぐさま左大臣家へと向かった。
屋敷に到着すると、家人に太政大臣からの火急の要件であると告げ、左大臣と英嗣に屋敷までお越しいただきたい旨を伝えた。
突然の呼び出しに、左大臣も英嗣も驚いた。
長尾が急ぎ門前まで出てきて、冬弥から事情を聞くと、
「少々お待ちくだされ」
そう言って屋敷の中へ入っていった。やがて戻ってくると、
「御用件、承りました。支度が整い次第、お伺いいたします」
と伝えた。
冬弥は深く頭を下げた。
「突然のお願いにて、ご無礼をお詫びいたします。どうぞ、よろしくお伝えくださいませ」
そう言い残し、急ぎ帰っていった。
一方、太政大臣家には、兼之の妻である妹の季子が到着していた。
「まったく、お兄様にもあきれましたわ。瑞穂を五節の舞姫にするなど……。瑞穂は確かに美しく、若々しく見えますけれど、もう二十一歳です。十五、六の姫君たちと並べば、年齢の違いは明らかでしょう。あの子がかわいそうです。若い娘たちと並べられ、あれこれと品定めされるなど、瑞穂の自尊心を傷つけるだけですわ」
季子は憤りを隠さなかった。
太政大臣は、そんな妹を見ても動じることなく、静かに言った。
「お前は、瑞穂を信じておらぬのか」
「えっ?」
「あの娘の美しさは本物だ。身近で接した者を虜にする力がある。この都で、あの娘にかなう者などおらぬ。私は誇りに思っておる」
「お兄様……」
「おそらく、瑞穂の舞を見た者は、皆あの娘に心を奪われるであろう。そうなれば、ほかの姫君と比べる者などおらぬ。皆の目には、瑞穂だけが映る。今回は間違いなく、瑞穂の勝ちだ」
「お兄様、そこまで……」
太政大臣は少し間を置き、妹を見つめた。
「私の本心を話しておこう。私は、瑞穂を東宮妃にするつもりだ」
「な、なんですって……」
季子は思わず声を上げた。
「本当は、玖瑠実をとも考えた。だが、あの子には荷が重すぎる。皇太后様と互角に渡り合える知恵と頭の回転、そして財力。それに、貴族社会では美貌も大きな力となる。このすべてを備えているのは、瑞穂しかおらぬ」
あまりの話に、季子は言葉を失った。
「お前も覚えておるだろう。我が家の悲願を。お前を東宮妃とし、東宮様が帝になられた暁には、藤原家の繁栄を築く。あの頃、一族の誰もがそう期待しておった」
「お兄様……。それは、もう過ぎたことですわ」
「そうだ。過ぎたことだ。あの時、お前を守ってやれなかったことは、今でも悔いておる」
太政大臣は一度言葉を切った。
「だが、今度は違う。私は、東宮を帝にするつもりはない」
「えっ……。それは、どういうことですの?」
季子はさらに驚いた。
「現帝も、なかなか聡いお方だ。その才を生かすのだ。帝と東宮がそれぞれの役割を担い、新しい朝廷をつくる。これまでのように、一人の権力者がすべてを動かすやり方では、朝廷は安定せぬ。政治が乱れれば、世の中も乱れる」
太政大臣は、ゆっくりと言葉を続けた。
「入道のやり方は、見目麗しい若い娘たちを後宮に入れ、帝の関心を政治から遠ざけることだった。帝を女に溺れさせ、思うままに政治を動かす。女性たちは、そのための駒にすぎなかった」
そして、少し声を落とした。
「だが、私は違うと思っておる。皇太后様を見て、そう考えるようになった。問題の多いお方ではあるが、よく学ばれ、物事を深く考えておられる。男であれば、たちまち政の頂点に立たれたかもしれぬ。それほどの才をお持ちだ」
「……」
「今の世は男が政を動かす時代だ。だが、これからは女性の力も必要になる。瑞穂には、その新しい時代を切り開く力がある。だからこそ、東宮妃という立場がよいのだ。帝の妃となるよりも、東宮を支えながら、自らの力を発揮できる。ここまで話せば、わかるな」
「はい……」
季子は慎重にうなずいた。
しばらく兄を見つめていたが、やがて顔を上げた。
「お兄様。私は今日、思っていた以上のお答えをいただきました。私も藤原家の娘です。そして、お兄様と同じ血が流れております。必ずやり遂げてみせますわ」そう言うと、季子は席を立った。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
ふと、渡り廊下の方に目を向ける。
「お兄様……。よい世の中にしたいものですわね」
季子は、ほほ笑んだ。
「お仲間がお見えになったようですわ」
左大臣も英嗣も、太政大臣が何のために急な呼び出しをしたのか、見当もつかなかった。
しかし、渡り廊下の向こうから、扇で顔を隠し、静かに歩いてくる女性の姿を見た瞬間、左大臣はすぐに気づいた。
「季子殿……」
「相変わらず、お美しい方だ……」
左大臣が思わず独り言を漏らすと、隣にいた英嗣は、父の顔を不思議そうに見た。左大臣は、そんな息子に気づいて苦笑した。
二人は太政大臣の部屋へ通された。
太政大臣は二人を迎えると、まず丁寧に頭を下げた。
「左大臣殿、突然の呼び立て、誠に申し訳ない。この通り、お詫び申し上げる」
「どうか、お顔をお上げください。火急のご用件と伺いました。何かございましたか」
左大臣が座に着くと、太政大臣は英嗣の方へ目を向けた。
「左大臣殿は、英嗣殿から何もお聞きになっておりませんか?」
「何をですかな?」
左大臣は聞き返し、英嗣を見た。
「英嗣、何か隠しておるのか?」
英嗣は戸惑った様子で、父と太政大臣の顔を見比べた。
「これはこれは、私の説明が足りず申し訳ない。英嗣殿は、せがれの将之に頼まれ、宴の日に幸殿の警護をなさっていたそうですな」
「な、何ということだ!お前の務めは宮中の警護であろう。なぜ一人の女性の警護など……。自分の立場をわかっておるのか!」
左大臣が思わず声を荒らげた。
「いやいや、なかなかせっかちな方ですな」
太政大臣が笑いながら口を挟むと、左大臣はきょとんとした。
「えっ……?」
「まあ、話を続けましょう。その幸殿の警護を頼んだ将之が申すには、宴の日、見知らぬ男が幸殿と親しげに話しているのを見かけ、心配になって英嗣殿に警護を頼んだというのです。間違いありませんかな?」
英嗣の顔から、すっかり血の気が引いていた。
「英嗣、しっかり答えなさい」
左大臣が厳しい口調で促すと、英嗣は一度息を整え、覚悟を決めたように口を開いた。
「はい。少し補足してご説明いたします。
確かにあの夜、将之殿から宴の途中で呼び出されました。陰陽師の幸殿が、庭で見慣れぬ男と話をしていたというのです。その男との会話が聞こえ、『唐津から来た』『途中で宇治に寄った』と申していたそうです。
私も宮中の警備を預かる身です。見慣れぬ男がいたとなれば、放っておくわけにもまいりません。詳しく事情を聞いたところ、その男はその後、東宮御所へ入っていったとのことでした。
しかも、東宮御所では誰にも止められることなく出入りしていたというのです。私も不審に思い、様子をうかがっておりました。すると、やはりその男が東宮様の御座所から出てまいりました。
その後、女御様の控えの間の前で立ち止まり、何やら文を取り交わしているように見受けられました……」
そこまで聞くと、太政大臣と左大臣は互いに顔を見合わせた。
「唐津から来た、と申したのだな……」
「はい。確かにそう聞いたと、将之殿から伺いました」
「冬弥、将之を呼んでまいれ」
太政大臣が命じると、冬弥はすぐに部屋を出ていった。
しばらくして、将之が部屋に入ってきた。
「父上、お呼びでしょうか……」
元気のない声で挨拶をした将之は、左大臣と英嗣の姿に気づくと、慌てて頭を下げた。
「し、失礼いたしました」
「将之、もうよい。お前に確認したいことがある」
太政大臣は、少し呆れたような顔で尋ねた。
「その怪しげな男は、『唐津から来た』と申しておったのだな?」
「あっ!父上、そのことをお伝えするのを忘れておりました。はい。それから、途中で宇治にも寄ったと申しておりました。申し訳ございません」
太政大臣は、あきれたように息をついた。
「もうよい。わかった。下がってよいぞ」
将之が退出すると、太政大臣は改めて英嗣に向き直った。
「英嗣殿、このたびは申し訳なかった。せがれの証言だけでは心もとなく、わざわざお越しいただいた。お手間を取らせたこと、心よりお詫びする」
そう言って、太政大臣は再び頭を下げた。
英嗣は、その潔い態度に驚いた。
自分の立場を守るために言い訳をすることもなく、必要とあれば誰に対しても頭を下げる。その姿を見て、英嗣は改めて太政大臣という人物の懐の深さを感じた。
「英嗣殿、申し訳ないが、左大臣殿をもう少しお借りしてもよろしいかな。
将之は、おそらく隣の部屋で落ち込んでおることだろう。手間をかけてすまぬが、年の近い英嗣殿を頼りにしておる。少し慰めてやってはくれぬか」
そう頼まれた英嗣は、
「はい、承知いたしました」
と答え、父親の方を見た。
「行っておいで」
左大臣にそう言われると、英嗣はその場を離れた。
その後ろ姿を見送りながら、太政大臣はしみじみと言った。
「左大臣殿、よい息子殿になられましたな」
「いやいや、まだまだ子供でして。今回のことも、まったく……お恥ずかしい限りです」
左大臣は、照れくさそうに頭をかいた。
一方、部屋を出た英嗣は、ようやく解放された安堵とともに、別の思いを抱えていた。
(ああ、やっと終わった……。しかし、慰めてほしいのは、むしろ私の方なのだが……)
幸の顔が浮かんだ。
(幸さん、どうしてあのような嘘を……?)
あの夜、幸が何を話していたのか。なぜ自分に本当のことを話してくれなかったのか。
考えれば考えるほど、胸の中は晴れなかった。
けれど、不思議なことに、太政大臣も左大臣も、幸のことを一度も問いたださなかった。
(ということは、幸さんは今回の件には関わっていないのだろうか……)
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
ふと顔を上げると、目の前には、自分以上にどんよりとした顔の青年がいた。
将之である。
二人は中庭に面した縁側に並んで腰を下ろした。
「はあ……終わった……」
英嗣が大きく息を吐くと、将之も隣で深いため息をついた。




