第三十九章 それぞれの思い・・・
一方東宮御所では――。
「東宮様、あの歌はいけませんね」
男が静かに言った。
「なぜです。このような宴を催している間にも、東では治安が安定せず、西では荘園から取り立てた租税を領主が搾取し、その一部を貴族への賄賂に使っている。おかしいではないか! 今こそ、若い力で世を変えねばならぬ。そうは思わないか?」
東宮は、憤りを隠そうともせずに言った。
「もちろん、私も東宮様よりは長く生きております。世間のことも、それなりには存じております。東宮様のお考えが間違っているとは申しません」
「ならば、なぜあの歌がいけないのです!」
「ただ、物事にはやり方というものがございます。そして、時勢というものも」
男は、東宮をまっすぐに見つめた。
「東宮様は大変聡明なお方です。だからこそ、今は世の動きを見極める力をおつけになることが大切なのです。若い公達の中には、己の欲のために、東宮様を担ぎ出そうとする者もおります」
東宮は、何も答えなかった。
「今の政にも、改めるべきところはございましょう。されど、果たして、東宮様がお考えになるほど、悪しき政ばかりなのでしょうか」
男は、穏やかな口調に戻った。
「人の言葉だけを信じてはなりませぬ。その者が何を語るかではなく、何を考え、何のために動いているのか。少し離れたところから、人をよくご覧なさいませ。近くにいては見えぬものも、離れてみれば見えてくることがございます」
そう言い残すと、男は一礼し、東宮御所を去っていった。
残された東宮は、しばらく黙ったまま、男の言葉を思い返していた。
自分と同じように世を変えたいと願う若い公達たち。
彼らは、本当に己と同じ志を持っているのだろうか。
東宮は、初めて彼らの言葉の裏にあるものを考え始めた。
一方、夜も更け、宴も次第に終わりへと近づいていた。
瑞穂はさすがに疲れてきたらしく、あくびを噛み殺していた。ふと見ると、少し離れた席にも、扇で顔を隠しながら、同じようにあくびを堪えている女人がいる。
ふと、二人の目が合った。
そして、どちらからともなく笑みがこぼれた。
瑞穂はすっと立ち上がると、その女人のもとへ歩み寄った。
「お互い、疲れましたね」
瑞穂がにっこりと声をかけると、女人もほっとしたように微笑んだ。
「はい。もう、眠くて……」
「私、瑞穂と申します」
「まあ、兵部卿様の……。私は幸と申します」
「陰陽師の幸様ですね。小乃葉様からお話は伺っております」
「まあ、そうでしたか」
幸は嬉しそうに微笑んだ。
その顔を見た瑞穂は、ふと息をのんだ。
藍色の瞳。
吸い込まれそうなほど澄んだその瞳に、思わず見入ってしまう。
「藍色……」
口にしかけて、瑞穂ははっと我に返った。
「この宴も、そろそろ終わりそうですけれど……殿方は、まだまだお話が尽きないようですね」
瑞穂は広間の方へ目を向けた。
父も相変わらず、何やら話し込んでいる。これでは、いつになったら帰れるのやら。
瑞穂は小さくため息をつくと、幸に向き直った。
「幸様、よろしければ、奥の部屋で少しお話ししませんか。実は、ちょっとお聞きしたいこともございまして……」
「構いませんわ」
幸は、屈託なく笑った。
二人は渡り廊下を通り、奥の部屋へと向かった。
「ふう……。ようやく一息つけますわね。ここは女御様方のお控えの間ですから、そうそう人も入ってまいりませんの」
瑞穂はそう言うと、ほっと肩の力を抜いた。
「実は私、このような装束を身につけるのは初めてなのです。思っていたよりも重たくて……。皆様、涼しい顔をしていらっしゃるので、私も我慢しておりました」と幸がいうと
「あら、皆様も無理をなさっているだけですわ。私だって、楽になりたいくらいですもの。幸様も、少しお楽になってはいかが?」
「では、お言葉に甘えて……」
幸もようやく緊張を解き、二人はしばし、くつろいでいた。
そのときだった。
格子の下から、一通の文がすっと差し入れられた。
瑞穂は何かに気づいたように、素早く文を取り上げると、そっと握りしめた。
その様子を見て、幸が不思議そうに尋ねた。
「どうかなさいましたか?」
「幸様……。殿方からの文ですわ」
瑞穂の頬が、ほんのりと赤く染まった。
「文?」
「ええ。これだけ若い公達が集まっておりますもの。文のやり取りくらい、あっても不思議ではございませんわ」
そう言って、瑞穂は幸の顔をうかがった。
「幸様は、これまで殿方と文を交わされたことはおありですか?」
「はい、ございますわ」
「まあ! では、幸様にも思い人がいらっしゃるの?」
「思い人……とは?」
瑞穂は少し恥じらいをみせ
「ええと……気になる殿方、と申しましょうか」
「気になる……。あっ、おりますわ!」
幸は、何のためらいもなく答えた。
「まあ、よかった!」
瑞穂はぱっと顔を輝かせた。
「では、その方も今宵、こちらにいらっしゃるの?」
「はい! おりますわ」
幸の答えに、瑞穂はますます興味をそそられた。
「まあ……。それではその方との文のやり取りなどは?」
「いいえ。」幸は答えた
けれど、ふと疑問が浮かんだらしい。幸は首をかしげて尋ねた。
「瑞穂様、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」
「何かしら?」
「その文が、気になる方からのものだと、どうして開く前からおわかりになるのですか?」
「…………」
瑞穂は言葉に詰まった。
確かに、文を開くまでは誰からのものか、わかるはずもない。
「……そう言われれば、そうですわね」
瑞穂は苦笑した。
けれど、心の中では確信していた。
――きっと、唐津の君から。
なぜそう思うのか、自分でもうまく説明できない。ただ、そうに違いないと思ったのだ。
そっと文を開く。
そこには、見覚えのある筆跡で、和歌が記されていた。
**隠るとも
君が光は
隠れねば
迷ひ猫こそ
ここに見つけし**
瑞穂は歌をもう一度読み返し、楽しげに目を細めた。
その様子を、幸は不思議そうに見つめていた。
――いったい、何がそんなに嬉しいのかしら。
格子の外では、文を届けた唐津の君が、すでにその場を立ち去ろうとしていた。
瑞穂は、思わず格子の向こうに目を向けた。
――もう、お帰りになってしまうの?
せっかく文を交わすことができたのに、姿を見ることさえかなわなかった。
胸の奥に、小さな寂しさが残る。
けれど、瑞穂はすぐに気持ちを切り替えるように、幸へと向き直った。
「さあ、そろそろ戻りましょうか」
「申し訳ございません。私はもう少し、こちらで休ませていただきます」
幸は、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「どうぞごゆっくりなさって。私は母が心配しているといけませんので、お先に失礼いたしますわ。幸様、今度はゆっくりお話ししたいですわね」
「はい。瑞穂様、またお会いしましょう」
瑞穂は名残惜しそうに幸を見やると、部屋をあとにした。
一人になった幸は、ほっと息をついた。
やがて格子を開け、中庭へと出る。
夜空には、明るい月が浮かんでいた。
幸は月を見上げた。月明かりが、その藍色の瞳に映り、いっそう青みを増している。
しばらくそうして月を眺めていると、不意に声がした。
「幸さん?」
振り返ると、英嗣が立っていた。
「英嗣様?」
「幸さん、どうしてここに?」
英嗣は、不思議そうに幸を見つめた。
「はい。宴に疲れて、少し休んでいたところです」
「休んでいた……のですか?」
英嗣は、なぜか念を押すように聞き返した。
いつもとは違う英嗣の様子に、幸は小さく首をかしげた。
「ここを、誰か通りませんでしたか?」
「え……?」
突然の問いに、幸は戸惑った。
先ほどの瑞穂と、文を交わしていた殿方のことが頭をよぎる。
瑞穂にとって大切な文のやり取りだったのだろう。幸には、その相手が誰なのかもわからなかったが、あえて英嗣に話すことでもないように思えた。
「いいえ……誰も」
幸は、思わず目をそらした。
その瞬間、英嗣の胸に疑念が広がった。
――嘘だ。
幸さんが、私に嘘をついた。
そう思った自分自身に、英嗣は戸惑った。
これまで、幸を疑ったことなどなかった。けれど、今夜はどうしても、彼女の言葉をそのまま信じることができなかった。
「そうか……誰も来なかったのだね」
「はい」
幸は、なぜか少し後ろめたい気持ちになった。
英嗣はそれ以上、何も尋ねなかった。
「幸さん、今日はもう遅い。そろそろお帰りになった方がいいよ。今夜は人の出入りも多く、警護も行き届かないからね」
「……はい」
「それでは」
英嗣は短く告げると、その場を立ち去った。
幸は、遠ざかる背中を不思議そうに見送った。
――英嗣様、どうなさったのかしら。
いつもなら、もう少し話をしてくださるのに。
一方、英嗣の胸中は穏やかではなかった。
実は、将之から話を聞いたあと、唐津の君の動きが気になり、密かにその後を追っていたのだ。
そして、この中庭へとたどり着いた。
そこにいたのは、幸だった。
――なぜ、幸さんがここにいる?
あの男は、いったい誰に会いに来たのか。
幸と、人目を避けて会っていたのだろうか。
そう考えた途端、英嗣の胸がひどくざわついた。
そんなはずはない。幸が、自分に隠れて誰かと会うなど。
けれど、幸は嘘をついた。
誰も通らなかったと。
英嗣は歩みを止め、暗い夜空を見上げた。
――私は、幸さんを信じていたのに。
その思いが胸をよぎったとき、英嗣は初めて、自分が幸を疑っていること以上に、彼女を信じられなくなりかけている自分自身に傷ついているのだと気づいた。
英嗣は帰りの牛車の中で人物思いにふけった。
英嗣は、将之の話が気にかかり、その後、東宮御所へ足を運んだ。
すると、将之の言ったとおり、見覚えのない男が御所から出てくるのが見えた。
英嗣はとっさに身を隠し、男の後をつけた。
男が向かったのは、普段、女御たちの御座所として使われている奥の部屋だった。男は中にいる者と、何やら文を取り交わしている様子である。
英嗣には、それが何を意味するのか、おおよその見当がついていた。
やがて男が立ち去ると、しばらくして、その部屋から一人の女人が姿を現した。
――幸だった。
英嗣は、あまりのことに動揺した。
なぜ、幸があのような場所にいるのか。
いったい、あの男と何の関わりがあるというのか。
頭を整理しようとしても、考えがまとまらない。目の前で見た光景が、何度も脳裏によみがえる。




