第三十八章 それぞれの宴
結衣姫の生誕祝いをきっかけに催されることとなった入道の北の方の五十の賀祝歌会。その当日がやってきた。
この日は特別に内裏が開かれ、多くの貴族たちが集い、華やかな賑わいを見せていた。
「帝も、立派におなりになりましたこと……」
皇太后は、晴れやかな装束に身を包んだ帝を見つめ、目を潤ませた。
「これなら、おばあ様もきっとお喜びになりますでしょう。さあ、ご挨拶に参りましょう」
「はい、母上様」
帝は皇太后に伴われ、入道の北の方のもとへと向かった。
御簾の向こうから、女房たちの感嘆の声が聞こえてくる。
「まあ、なんと素敵なお姿でしょう」
「これまで、どこかあどけなさが残っておいででしたのに、すっかりご立派になられて」
「さすがは皇太后様。入道様のご息女でいらっしゃるだけあって、帝のお姿をこれほど見事にお整えになるとは……」
称賛の声に、皇太后は顔には出さぬものの、内心たいそう満足していた。
やがて、帝は入道の北の方の御座所へと入った。
「おばあ様におかれましては、本日、五十の賀をお迎えになられましたこと、誠におめでとうございます。この日をつつがなく迎えられましたのも、ひとえにおばあ様のお力添えのおかげと存じます。本日はどうぞごゆるりと宴をお楽しみになり、これからも末永くお健やかにお過ごしくださいませ」
帝は、心を込めて祝いの言葉を述べた。
「帝、ありがとうございます。このような立派な宴を催していただき、心より感謝しております。それにしても、本日は一段と美しく、大人びてお見えになりますこと」
北の方は、目を細めて帝を見つめた。
すると、皇太后が誇らしげに口を開いた。
「このたび、装束を整えるにあたり、太政大臣家のご子息、将之様にいろいろと助言をいただきましたの。初めは、果たしていかがなものかと思いましたけれど、実際にお召しになってみますと……。親の欲目かもしれませんが、これほどまでに立派にお見えになるとは」
「母上。それでは、私が装束のおかげで立派に見えるとおっしゃっているようではありませんか」
帝が珍しく笑みをこぼした。
「そ、そんなつもりでは……!」
皇太后が慌てる姿に、北の方も思わず笑みを浮かべた。
母と子が、こうして親しく言葉を交わし、笑い合う。
かつては、皇太后が帝の前でこれほど自然に笑う姿を想像することも難しかった。ましてや、その二人を並んで見守ることができるとは。
北の方の胸に、温かな喜びが満ちていった。
気づけば、目から涙がこぼれていた。
「あら……」
慌てて袖で涙を拭う。
「さあさあ、帝。そろそろお行きなさいませ。あなたが一番かわいがっておいでの姫様が、お待ちかねですよ」
北の方に促され、帝はにこやかに頷いた。
「では、おばあ様。また後ほど」
そう言い残し、帝は部屋を後にした。
北の方は、その後ろ姿を、いつまでも慈しむような眼差しで見送っていた。
この日交わした言葉が、帝と入道の北の方にとって、最後の語らいとなることを、まだ誰も知らなかった。
「帝がお見えになります」
その先触れが届くと、中宮殿はたちまち緊張に包まれた。
女房たちは几帳の位置を整え、座のしつらえを確かめる。やがて帝が到着すると、居並ぶ者たちは一斉に深く頭を下げた。
帝が御座に着くと、結衣姫と中宮が並んで御前に進み、丁寧に挨拶をした。
帝は微笑みながら、結衣姫に声をかけた。
「結衣姫、今日はおめでとう。姫がこのように美しく、立派に成長していくのを見ると、兄として誇らしく、何よりうれしく思います」
「帝におかれましては、私の祝いに結構なお品を賜り、誠にありがとうございます。これからも宮家のため、精進してまいります」
結衣姫は、いつになくすました顔で、立派に挨拶を述べた。
そのあまりに改まった様子に、帝は思わず吹き出しそうになった。
「……ふっ」
慌てて咳払いをする。
「ううん……。いや、実に頼もしいことだ」
結衣姫は何事もなかったように、きちんとした姿勢を崩さなかった。
その様子を見ていた中宮の口元にも、かすかな笑みが浮かんでいた。
帝は、傍らで微笑む中宮の横顔を、しばし見つめていた。
「帝? どうかなさいましたか?」
中宮に声をかけられ、帝ははっと我に返った。
「あっ、いえ……。中宮におかれましても、結衣姫をここまでお育てになるのは、さぞ大変だったことでしょう。私の母も、私を守るために一生懸命尽くしてくれております。子として、その思いに報いなければならないと、つくづく感じた次第です」
少し言葉を濁しながら、帝は話を続けた。
「それから、結衣姫。今日の装束ですが、蔵人頭の将之殿が選んでくださったのですよ。『結衣姫には、この色が似合うだろう』と。やんちゃ姫……いや、明るい姫君には、きっとお似合いになるだろうとね」
帝は、いたずらっぽく結衣姫に目を向けた。
「まあ、それはそれは。将之殿は姫のことをよくご存じなのですね。今度こちらへお越しになった折には、きちんとお礼を申し上げましょうね」
中宮が微笑んで言うと、
「はい、お母様」
結衣姫は、頬をほんのり染めながら、目を細めてうれしそうに笑った。
その様子を見た帝は、またしても小さく笑みを浮かべた。
中宮は微笑みながら、帝に向き直った。
「帝におかれましては、このようなお祝いを賜り、誠にありがとうございます。本来であれば、こちらで用意すべきところ、皇太后様のご実家にすべてお世話になりまして……。何とお礼を申し上げればよいのか」と中宮が感謝の気持ちを伝えると、
「中宮、そのようなことは気になさらずに。もとをたどれば、わが母が余計なことを申したために、中宮にも嫌な思いをさせてしまった。それこそ、申し訳なく思っているのだ。私は、かわいい妹の祝いならば、いくつになってもしてやりたいのだから」
帝はそう言って、結衣姫を優しく見つめた。
「そうおっしゃっていただければ、本当にうれしい限りです。実家の大納言も、くれぐれも末永くお付き合いをいただきたいと申しておりました」
帝は、はっとした。
「中宮様のご実家の大納言様にとっても、結衣姫はかわいいお孫様であられるのに……。我が家が、少々出過ぎた真似をしてしまったようで」
中宮はゆっくりと首を振った。
「いえいえ。私が先帝に嫁ぎました折、『すべては宮家に尽くしなさい。お前は宮家の人間なのだから』と申されました。どうか、お気になさらずに」
そう言って、中宮は静かに目を伏せた。
帝は、その横顔を見つめていた。
以前であれば、中宮と話をしていても、心は穏やかだった。けれど最近は、どうにも説明のつかない感情が胸に湧き上がる。
やはり中宮の言葉や、ふとした仕草が、なぜか心に残る。
なんだろうこの気持ち、これが恋というものなのか・・・いけない
そう思えば思うほど、その気持ちはかえって強くなり、帝自身を苦しめていた。
帝は誰にも気づかれぬよう、そっと心の中でつぶやいた。
――私は、これからどうなっていくのだろう。
帝が気が付くと結衣姫の猫がじっと自分を見つめいた。
帝はふと白の首の鈴にきがつき
「白の・・その首の鈴は?」と帝が結衣姫に尋ねると
「はい。英嗣様がくださいました。結衣をきちんと警護するように、と」
結衣姫は白を抱き上げ、首の鈴を鳴らしてみせた。
すると偶然にも
「左大臣様ならびに英嗣様、お祝いに参られました!」
取り次ぎの声が響いた。
帝は、少し困ったような顔をした。
「つい、長居をしてしまいましたね……」
すると中宮は機転を利かせ、結衣姫のそばに置かれた几帳を利用して、帝を御簾の内側へとお通しした。
帝は、思いがけず中宮のすぐ隣に座ることになった。
中宮から漂うかぐわしい香り。ふとした拍子に触れた柔らかな手。
帝はいたたまれない気持ちになった。
――気づかれてしまう……。
心臓が早鐘を打つ。
落ち着かなければと思うほど、隣にいる中宮の横顔が気になってしまう。見てはいけないと思いながらも、つい視線を向けそうになるのだった。
ほどなくして、左大臣と英嗣が姿を見せた。
「結衣姫様、本日は誠におめでとうございます。お健やかにお過ごしとのこと、何よりに存じます。こちらは、結衣姫様にと、英嗣が選びました反物にございます。京の冬は冷え込みますゆえ、冬支度の足しにでもなればと持参いたしました。どうぞお納めくださいませ」
女房が反物を受け取り、結衣姫の前へ差し出した。
「まあ……!」
結衣姫は、反物を両手で抱きしめた。
「ありがとうございます。大切にいたします。京は寒いですもの。これがあれば、風邪をひかずにすみますね」
無邪気に喜ぶ結衣姫を見て、英嗣も目元を和らげた。
すると、結衣姫の傍らから白が飛び出し、英嗣の膝元へ駆け寄った。
英嗣はにっこりと笑い、
「白、鈴をつけていてくれているのだね。これからもしっかりと結衣姫様をお守りするのだよ」
そう言って、白の頭を優しく撫でた。
「それでは、私どもはこれにて失礼いたします。中宮様におかれましても、本日は誠におめでとうございます」
左大臣は丁寧に挨拶をすると、英嗣を伴って部屋を辞した。
結衣姫は、英嗣が選んだ反物をいつまでも大切そうに抱きしめていた。
その頬には、ほんのりと赤みが差している。
御簾の内側から、その様子を見ていた帝は、ふと妹の顔に目を留めた。
反物を見つめる目。頬に差した赤み。そして、英嗣が去ったあとも、なかなか手放そうとしないその姿。
帝は、はっとした。
――もしや、結衣姫……。
思わず、妹の顔を見つめる。
「兄妹そろって、なんとも思い煩いの多いことよ……」
帝は小さく心の中でつぶやいた。
そして、結衣姫から視線を移し、隣に座る中宮の横顔をそっと見つめた。
自分の胸の内を知られることもなく、妹の恋心を知ってしまった帝。
その心には、またひとつ、言葉にできない思いが重なっていった。
一方、北の方の御座所へ、忠嗣は幸を伴い、祝いの挨拶に訪れていた。
渡り廊下を歩く二人の姿を見て、女房たちがささやき合った。
「忠嗣様がお連れの女性は、どなたでございましょう?」
幸は、参内する折にはいつも陰陽師の装束をまとっている。しかし、今日は祝いの席である。さすがに、いつもの装束というわけにもいかず、女性の正式な装束を整えて訪れたのであった。
「やれやれ……」
忠嗣は、何食わぬ顔ですまして歩く幸を、横目で見やった。
実のところ、幸はこの席にも、いつもの陰陽師の装束で出席するつもりでた。
それを不憫に思った忠継が、大納言家の北の方に相談し、幸のために装束を整えてもらったのである。
このようなことを太政大臣家や左大臣家、右大臣家に相談すれば、装束を用意するだけでなく、費用まで負担すると申し出られかねない。そうなれば、幸に余計な借りを作らせることになる。
その点、大納言家は違った。
恩を売るために手を貸すこともなければ、金銭を得るために引き受けることもない。ただ、必要なことを必要なだけ、さりげなく助ける。
大納言家が名家として人々の信頼を集めているのは、そうした気風ゆえでもあった。
幸は、葡萄染の袿をまとっていた。
華やかな姫君たちの装いの中では控えめな色であったが、灯火を受けるたび、衣の奥にほのかな紫が浮かび上がる。その色は、幸の静かな面差しによく似合っていた。
「なんとも不思議な雰囲気の方ですこと……」
御簾の向こうから、そんな声が聞こえた。
すると、一人の女御が幸の姿に気づいた。
「あら、幸様? 幸様よ!」
その声をきっかけに、御簾の内側がにわかにざわつき始めた。
「ええっ、あの幸様? 女性でいらしたの?」
「何をおっしゃるの。女性に決まっているでしょう? 陰陽師の装束も素敵だけれど、貴族の女性としてのお姿も素敵ね」
「……でも、幸様は貴族でいらっしゃるの?」
「さあ……どうなのかしら」
「けれど、陰陽師なのでしょう?」
ささやきは、次から次へと広がっていく。
幸はといえば、そんな女御たちの視線を気にする様子もなく、涼しい顔で歩いていた。
結局のところ、女御たちにとって幸は、どのような装いをまとおうとも、謎の尽きない女性なのであった。
「北の方様。忠嗣様がご挨拶にお見えになりました」
「おお、忠嗣殿。久しぶりですわね。お通しなさい」
「かしこまりました」
ほどなくして、忠嗣は幸を伴い、北の方の御座所へと入った。
「北の方様におかれましては、このたびの五十の賀、誠におめでとうございます」
忠嗣は丁寧に頭を下げた。
「私も長く生きてまいりましたが、このように内裏が美しく彩られ、都の公達や姫君たちが華やかに集う光景は、そうそう目にしたことがございません。さすがは皇太后様。見事なご采配でございますな」
「まあ。あの皇太后を褒めてくださるのは、忠嗣殿くらいですよ。おわかりでしょう? 入道譲りの気性の激しさ。母である私でさえ、時には何も申せぬことがございます」
北の方は、困ったように笑った。
「いえいえ。入道殿がお亡くなりになった今、皇太后様がしっかりと宮中を支えておられるからこそ、政も一方に偏ることなく動いておるのでございます」
「そうであればよいのですが……」
「親というものは、いつまでたっても心配が尽きぬものでございますな」
そう言って顔を上げた忠嗣は、傍らで深々と頭を下げている幸に気づいた。
「おっと、これは失礼。」
「幸、ご挨拶を」
「はい」
幸は静かに一礼した。
「北の方様。本日は誠におめでとうございます。幾久しくお健やかにお過ごしあそばされますよう、お祝い申し上げます」
そう言って顔を上げた、その瞬間だった。
――かたん。
北の方の手から、扇が滑り落ちた。
「北の方様?」
傍らに控えていた女御が、慌てて扇を拾い上げる。
「これは……なんということ」
北の方は、すぐさま扇を受け取った。
幸は、何もお答えにならない北の方を不思議に思い、御簾の奥をそっと見つめた。
忠嗣は、まるで何事もなかったかのように、静かにその場に座している。
しばらく、沈黙が続いた。
「……これはこれは、幸殿。失礼いたしました。昔の知人に、あまりにもよく似ておいででしたので、少々驚いてしまいました。どうかお許しくださいませ。お祝いのお言葉、ありがたく頂戴いたします」
「知人……?」
幸は、思わずその言葉を心の中で繰り返した。
しかし、陰陽師として人前で軽々しく詮索することは慎まねばならない。幸はそれ以上何も尋ねず、静かに頭を下げた。
忠嗣は、何事もなかったかのように
「それでは、北の方様。私どもはこれにて失礼いたします」
挨拶をし立ち上がった。
「ええ。忠嗣殿も、宴を存分にお楽しみくださいませ」
二人が退出しようとした、その時だった。
「……忠嗣殿!」
突然、北の方が呼び止めた。
忠嗣は足を止め、幸とともに振り返った。
「いかがなさいましたか?」
北の方は、扇を握りしめたまま、しばらく言葉を探しているようだった。
「い、いえ……何でもございません。ただ……」
その声は、先ほどまでの穏やかさを失っていた。
「お互い、長生きいたしましょう」
忠嗣は一瞬、北の方を見つめた。
そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「北の方様、もちろんでございますとも。この世は、まだまだ面白うございますからな」
そう言い残し、忠嗣は幸を伴って御座所を後にした。
「中宮様、右大臣様、北の方様、尚之様がお祝いにお見えになりました」
「まあ、早くお通しして」
中宮は、ぱっと顔を明るくした。
ほどなくして、右大臣と小乃葉、そして尚之が御前に進み出た。
「結衣姫様、本日は誠におめでとうございます。これからも幾久しく、お健やかにお過ごしくださいますよう、お祝い申し上げます」
右大臣はそう述べると、続いて中宮に向き直った。
「中宮様におかれましても、姫君様の生誕の儀、誠におめでとうございます」
ひと通りの挨拶を終えると、今度は小乃葉が口を開いた。
「結衣姫様、本日はおめでとうございます。また、中宮様におかれましても、姫君様がこのように美しくお育ちになられ、今日という日をどれほど待ち遠しく思われたことでしょう。本当に、結衣姫様は一段と大人びておいでですね。子供の成長とは、早いものですわ」
そう言って、小乃葉は隣に控える尚之を見た。
「さあ、尚之。ご挨拶をなさい」
「はい、母上」
尚之は一歩進み、丁寧に頭を下げた。
「結衣姫様、本日はおめでとうございます」
「ありがとうございます、右大臣様、叔母様、尚之様。今日はたくさんのお祝いをいただきました。しろのお皿、とてもかわいらしいの。私も気に入りましたね、しろ!」
結衣姫が傍らの猫に話しかけると、猫は宴などまるで興味がないとでもいうように、大きなあくびをした。
その様子に、中宮も思わず笑みをこぼした。
「ところで、尚之殿も、もう十一になられるのですね。久しぶりにお会いしたら、こんなに大きくなられて。本当に、子供の成長は早いものです。和子が亡くなってから、もう何年になるでしょうね……」
中宮は感慨深げに尚之を見つめた。
「そうですわね。姉が亡くなり、尚之を託されてから、月日のたつのは早いものです。姉も生きておりましたら、どれほど喜んだことでしょう」
小乃葉が静かに言うと、中宮も深くうなずいた。
「本当に……」
右大臣も、懐かしむように目を細めた。
「和子も、成長した尚之を見たら、どれほど喜ぶことでしょう。それに、ここまで育ててくれた小乃葉にも、きっと感謝しているはずです。小乃葉の教育ぶりは、傍で見ていても感心するばかり。今では和歌の師までつけて、しっかり学ばせているのですよ」そう言って、右大臣は笑った。
「父上、それは少々褒めすぎです。母上は、皆の前ではいつもにこにこしておられますが、家に戻ると、それはもう怖いのです! 私はいつも叱られてばかりです」
尚之が父に同意を求めるように言うと、一同から笑い声が上がった。
「まあ、尚之様のお母様もそうなのですか? 結衣のお母様も、それはそれは怖いのですよ。私もいつも、しろと一緒に叱られてばかりですもの」
結衣姫は、いたずらっぽく笑った。
「でも、佐紀先生は優しく、何でも教えてくださるのですよね。先生?」
振り返った結衣姫の目に映った佐紀は、何やら考え事をしている様子だった。
「先生?」
もう一度呼ばれ、佐紀ははっと顔を上げた。
「これは失礼いたしました、結衣姫様」
佐紀は二人を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「結衣姫様も、尚之様も、今は日々成長していく大切な時期でございます。目にするもの、耳にするもの、心に感じること、そのすべてが学びとなりましょう」
そして、少し言葉を置いて続けた。
「とりわけ和歌を学ぶには、心の目を養うことが大切でございます。美しい言葉を覚えるだけでは、よい歌は詠めません。人の喜びや悲しみ、季節の移ろい、何気ない景色の中にある思い……。そうしたものを感じ取る心があってこそ、歌にも思いが宿るのでございます」
佐紀の言葉に、結衣姫も中宮も、そして右大臣たちも、静かにうなずいた。
すると、結衣姫がぱっと顔を輝かせた。
「尚之様、一緒にしろと遊びましょう!」
待ちきれなくなったのか、結衣姫は御簾の内から飛び出してしまった。
「あっ……」
尚之は、目の前で無邪気に笑う結衣姫に、少し驚いたような顔をした。
けれど、すぐに笑顔になり、
「はい、喜んで」
と答えると、白のもとへ歩み寄った。
二人が楽しそうに猫と戯れる姿を見て、皆が顔を見合わせた。
「外見は大人びても、まだまだ子供ですわね」
誰ともなくそう言うと、また穏やかな笑い声が広がった。
春を思わせる小春日和のように、御座所には柔らかな空気が満ちていた。
それは、亡き和子もまた、どこかで見守っているかのような、穏やかなひとときであった。
「さあ、そろそろ宴が始まります。皆様、清涼殿へ参りましょう」
そう声がかかり、一同は清涼殿へと向かった。
清涼殿の中庭では、すでに和歌の会が始まっていた。
帝も気を利かせて、そっと中宮殿を抜け出し、一足先に清涼殿へ来て、宴を楽しんでいた。
皇太后も北の方と並んで座り、披露される和歌に耳を傾けていた。
やがて、一首の歌が披露された。
――秋の色
今日をかぎりと
惜しむより
君と眺めむ
秋の夕暮れ
「まあ、どちらの姫君のお歌でしょう。密かに思うお方と秋の夕暮れを眺めたいとは……なかなか大胆でございますね」
北の方が感心したように言うと、歌の披露を聞いていた女房が声を上げた。
「まあ、結衣姫様のお歌でございます!」
「えっ、結衣姫様?」
北の方が驚くと、皇太后はすかさず口を開いた。
「結衣姫様には、すでに心に決めた殿方でもいらっしゃるのかしら?」
御簾の内が、にわかにざわついた。
すると帝が、楽しそうに笑った。
「おばあ様も、母上も、そう驚かれることはありませんよ。結衣姫も日々成長しているのです。恋の一つも知らずして、立派な貴婦人にはなれませんからね」
その言葉に、周囲からも笑い声が上がった。
しかし帝は、心の中でそっとつぶやいた。
(結衣姫の初恋が叶うものかどうか……。まあ、今は静かに見守るといたしましょうそして自分の思いも・・・)
そして、次の歌が披露された。
――秋の野に
花は色々
咲けれども
君なき今日は
我ぞかすめる
「ほう、これはこれは。ずいぶんと罪深い殿方がおいでのようですね。なんとも艶やかなお歌でございますこと」
北の方が感心したように言うと、古参の女御がそっと耳打ちした。
「北の方様のお歌にも、どこか似ておりますわね」
「えっ! 北の方様が、あのような艶めいたお歌を?」
思わず驚く女房に、北の方は扇の陰で小さく笑った。
「まあ、皆様、何をおっしゃっているのでしょう」
皇太后は、歌の披露を終えた女房に尋ねた。
「今のお歌は、どなたのものでしょう?」
「兵部卿参議、藤原兼之様のご息女、瑞穂様のお歌でございます」
「ほう……瑞穂殿ですか」
皇太后は、意味ありげに目を細めた。
何か言いたげな様子ではあったが、それ以上は何も口にしなかった。
一方、結衣姫や中宮の周囲では、女御たちがひそひそと話し始めていた。
「ねえ、あのお歌、どなたに向けて詠まれたのでしょうね?」
「そうねえ。今日はここにいらっしゃらない殿方を、恋しく思っておいでなのかしら」
「いいえ、私は違うと思いますわ」
別の女御が、得意げに扇を揺らした。
「お相手は今日、この場にいらっしゃるのよ。でも、なかなか訪ねてきてくださらないから、ご自分の輝きまで霞んでしまった……そういう意味ではございませんこと?」
「まあ!」
「それは怖いこと。皆の前で、殿方に不満を訴えていらっしゃるのね」
女御たちは、好き勝手なことを言い合っている。
その様子を聞きながら、小乃葉は静かに扇を口元に当てた。
(……瑞穂の歌ね)
すぐにわかった。
どのような思いでこの歌を詠んだのかも。
けれど、小乃葉は何も言わなかった。
恋心というものは、他人が口を挟めば、かえってこじれてしまうこともある。
それに、瑞穂は誰かに恋をしたからといって、自分を見失うような娘ではないわ。
そう思いながら、小乃葉は再び歌の会へと目を向けた。
だが、この一首の和歌が、思いもよらぬ事態を招くことになるとは、このとき誰も知る由もなかった。
女人たちが御簾の内で和歌の批評を楽しみながら、宴のひとときを過ごしているころ、公達たちは「今宵は無礼講」とのことで、思い思いの場所に集い、酒を酌み交わしていた。
そのとき、不意に一首の和歌が披露された。
忘るると
思ひたまふな
君ゆゑに
近づく道を
迷ふ身なれば
御簾の内にいた女御たちが、はっと顔を見合わせた。
「まあ、これ……先ほどの歌への返歌ではありませんこと?」
「そうよ。近づきたいのに、その道を迷うだなんて……いったい、どこの殿方が詠まれたのでしょう」
「しかも、なんと素直なこと。これでは、じらされていた殿方が、とうとう堪えきれずに告白なさったようではありませんか」
御簾の内が、にわかにざわついた。
北の方は、そんな女御たちの様子を楽しそうに眺めながら、ほほ笑んだ。
「まあ、素敵な歌ですこと。ご覧なさいな。若い公達も姫君たちも、すっかり色めき立っているではありませんか。宮中は、こうでなくては」
その言葉に、女房たちもくすくすと笑った。
ところが、入道の北の方は、ふと気になった様子で、そばにいた女御に尋ねた。
「この歌は、どなたがお詠みになったのです?」
女御は、少し声をひそめて答えた。
「……東宮様でございます」
「東宮?」
入道の北の方は、思わず聞き返した。
「どういうことです? 東宮に、そのような思いを寄せるお方がいらっしゃるというのですか?」
「そ、それは……私にも、わかりかねます」
女御は慌てて答えたが、その表情には、戸惑いが隠せなかった。
一方、宴のさなかにあった公達たちも、この返歌には驚きを隠せなかった。
「おいおい、これは先ほどの歌への返歌ではないか」
「なんと大胆な。人目もはばからず、ここまで思いを詠むとは」
「待てよ。歌の披露された順からすれば、これは東宮様のお歌ということになるぞ」
「では、先ほどの歌は……兵部卿参議・藤原兼之様のご息女、瑞穂殿のものではなかったか?」
「な、なんだと?」
たちまち、公達たちの間にざわめきが広がった。
この様子に気づいた英嗣は、すっと立ち上がり、穏やかながらもよく通る声で言った。
「皆様、今宵は和歌の会にございます。大切なのは、それぞれの歌の出来栄え。確かなこともわからぬまま、あれこれと推し量り、噂を立てるのは無粋ではありませんか?」
すると、英嗣の義兄――姉の夫であり、入道の息子でもある男が、すかさず助け船を出した。
「まことに。せっかくの宴ですから、噂話よりも、皆様の和歌の腕を競うことにいたしましょう。いっそ、今宵はもっと艶やかな恋の歌を詠んでみてはいかがですかな?」
その言葉に、あちこちから笑い声が上がった。
「それは面白い」
「では、次は私が一首」
公達たちは、再び酒と和歌の話に興じ始めた。
ひとまず、その場の騒ぎは収まった。
英嗣は義兄のそばへ歩み寄り、静かに頭を下げた。
「義兄上、ありがとうございました。おかげで場が収まりました」
「いや、構いませんよ。どうも皆、噂話が好きでしてな。確かなこともわからぬうちから、あれこれと言い立てるのが、少々癪に障っただけです」
義兄はそう言って、穏やかにほほ笑んだ。
その顔を見て、英嗣はふと、以前とは違う何かを感じた。
「ところで、先日は良い陰陽師をご紹介いただき、ありがとうございました。おかげさまで、あれから妻も落ち着き、養生してくれております」
「それは何よりです」
「この宴が終われば、その陰陽師殿は宇治へ戻られるとか。妻と娘も、そのあとしばらく宇治でゆっくり過ごさせようと思っております。宇治には、父の別宅がまだございますので」
義兄は、どこか安堵したように頭を下げた。
「それでは、義兄上はどうなさるのです? 奥方と姫君がいらっしゃらぬ間、また夜遊びにお出かけになるのではありませんか?」
英嗣が冗談めかして尋ねると、義兄は苦笑した。
「ご安心ください。今さら夜遊びなどいたしませんよ。私も少し、心を休めたいと思っております。旧知の寺にでもしばらく籠もり、妻の病気平癒を祈って写経でもいたしましょう」
そう言って笑う義兄の顔は、驚くほど穏やかだった。
英嗣は、しばらくその顔を見つめていた。
これまで、義兄がこんな表情を見せることがあっただろうか。
妻を案じ、娘の行く末を思い、己にできることを静かに考えている。その姿が、英嗣にはなぜだかうれしかった。
宴はまだ続いていた。
今宵は、少しばかり酒がうまい。
英嗣は、いつもより杯を重ねてみようかと思った。
そう思った矢先のことであった。
「英嗣殿……!」
切羽詰まった顔で将之が駆け寄ってきた。
「どうかなされましたか?」
「それが……どうしたらよいものか……」
将之は、ひどく動揺している様子である。
英嗣はただならぬ事態を察し、将之を連れて人目につかぬ庭先へと出た。
あたりに人影がないことを確かめると、英嗣は将之を振り返った。
「将之殿。尋常ではないご様子ですが、いったい何があったのです?」
「…………」
将之は口をつぐんだままである。
少しいらだった英嗣は、声をひそめながらも、きっぱりと言った。
「将之殿!」
「……実は、今宵は幸さんに会えると思うと、うれしくてね。つい、幸さんを探していたのだよ」
「はあ?」
英嗣は、思わず聞き返した。
「幸さんを探していた、と?」
「だって、幸さんが来るとわかったからね。うれしくて、この装束まで新調したのだよ。せっかくなら、見てもらいたいじゃないか」
英嗣は、さきほどまで将之の身を案じていた自分が、なんとも情けなくなった。
「……それで?」
「それで、ようやく幸さんを見つけたと思ったら、妙な男が幸さんに近づいていったのだよ」
その瞬間、英嗣の顔つきが変わった。
「何かあったのですか!」
思わず将之の腕をつかむ。
「い、痛いよ!」
将之が顔をしかめた。
英嗣は、はっと我に返った。
「……すまない」
手を放し、気を取り直して尋ねた。
「それで、その男は何を?」
「幸さんに、何か話しかけていた。よく聞こえなかったのだが……幸さんが、ある方によく似ているとか。それから、自分は遠い唐津にいたが、都へ戻る途中、宇治に立ち寄ったとか……」
「宇治に?」
英嗣の眉がわずかに動いた。
「それで、幸殿はどうなされたのです?」
「それが、いつもと変わらぬ様子でね。最後は何事もなかったかのように、男と別れたのだよ」
「……その後は?」
「いや、それだけだよ」
将之は、あっけらかんと言った。
英嗣は、しばらく言葉を失った。
「……将之殿。いったい、私に何を伝えにいらしたのです?」
「だから、幸さんが得体の知れない男と話していたのだよ! どうしよう、幸さんがあの男に取られてしまうかもしれない。そう思って、英嗣殿に助けていただこうと……」
「…………」
英嗣は、額を押さえたくなった。
だが、男が幸に話しかけたことも気になる。唐津、宇治という言葉も聞き捨てならない。
しかし、それだけでは、何が起きているのか判断のしようもなかった。
とりあえず
「将之殿。このことを、私以外の誰かに話しましたか?」と聞くと
「話すわけがないだろう。私が誰かに話して、幸さんが危険な目に遭ったら大変ではないか。だから、最近やたらと幸さんの周りをうろうろしている英嗣殿なら、何かご存じかと思ってね」
英嗣は、深々とため息をついた。
――この方は、いったいどのような思考をなさっているのだ……。
だが、将之なりに幸を案じていることだけはわかった。
「わかりました。これからは、私が幸殿のことを、これまで以上に気にかけるようにいたしましょう」
「そうか! さすが英嗣殿、話が早い!」
「……お話は、それだけですか?」
早くこの場を立ち去りたい英嗣が尋ねると、将之は何かを思い出したように顔を上げた。
「あっ、そうだ!」
「……まだ何か?」
英嗣のいらだちは、いよいよ頂点に達しようとしていた。
「その男のことが気になって、後をつけていったのだよ」
「……後を?」
「そうしたら、なんと東宮御所へ入っていったのだ!」
「東宮御所?」
英嗣は、思わず聞き返した。
「そうなのだ。あまりにも普通に入っていくものだから、驚いてしまったよ。たぶん、東宮もいらっしゃったのではないかな」
英嗣は、黙り込んだ。
――その男は、何者なのだ。
唐津から都へ戻る途中、宇治に立ち寄ったという男。
幸が、ある人物によく似ていると言った男。
そして、何の警戒もなく東宮御所へ出入りできる男。
東宮もその場にいらしたというのに、咎められることもなかったのか。
以前からの知己なのか。それとも、東宮に仕える者なのか。
では、なぜ、そのような男が幸に近づいた?
幸と、男と、東宮。
三人の間には、いったいどのようなつながりがあるのだろう。
英嗣の頭の中で、いくつもの疑問が渦巻いていた。
その様子を見ていた将之は、ようやく役目を果たしたとでも思ったのか、満足げにうなずいた。
「では、英嗣殿。幸さんのこと、どうかよろしく頼む」
そう言い残すと、そそくさと宴の席へ戻っていった。
一人残された英嗣は、腕を組み、庭先にたたずんでいた。
宴の賑わいは、少し離れたこの場所にも聞こえてくる。
だが、英嗣の耳には、もはや人々の笑い声も、管弦の音も届いていなかった。
脳裏に浮かぶのは、見知らぬ男の姿と、幸の顔。
そして、東宮御所という言葉だけであった。




