第三十七章 右大臣家で始まる駆け引き
「瑞穂! 瑞穂はおらぬか!」
兼之は、屋敷の中をせわしなく歩きながら、娘の名を呼んでいた。
「はい、お父様。こちらにおります」
中庭から、瑞穂が顔をのぞかせた。
「何をしておったのだ?」
「はい。お母様が丹精なさった秋の花々を眺めながら、お母さまと庭を歩いておりました。このように色づいた葉を懐紙に挟み、小乃葉様に一首でもお贈りしようかと思っていたところです」
瑞穂は、手にした紅葉をそっと掲げてみせた。
「そうか、そうか。それはちょうどよい!」
兼之は、待ってましたとばかりに声を弾ませた。
「今しがた、摂津から魚の塩漬けが届いたのだ。右大臣家へ届けようと思い、お前を探しておった。小乃葉殿は、なかなかのお人だが、どうも私のせっかちなところを見抜かれてしまいそうでな。お前が話し相手になってくれれば、その間に私は右大臣と少し話ができる。すぐに支度をしなさい」
「あら、あなた。小乃葉様でなくとも、私にも十分わかりますよ」
北の方が、呆れたように笑った。
「まったく、せっかちな旦那様ですこと」
「何を言う。先方にも都合がある。届いたものは、届いたときに届けるのがよいのだ」
「右大臣家には、使いを出してあるのですか?」
北の方が尋ねると、兼之は得意げに胸を張った。
「もちろんだ。今日か明日には到着するゆえ、品が届き次第、こちらも伺うと伝えてある」
「まあ、用意周到なこと」
北の方は、とうとう笑いをこらえきれなかった。
「さあ、せっかちな父上が先に出立なさいますよ。あなたは歩いて右大臣家へ参ることになってしまいます。お支度を急ぎなさい。誰か、瑞穂の支度を!」
と北の方が女房たちを女房たちを呼び集めた。
瑞穂は、さすがにせっかちな父の娘である。いつ何時、父に呼び出されてもよいよう、毎朝、身支度の用意だけは念入りに整えていた。
それでも、貴族の姫君が出かけるとなれば、そう簡単にはいかない。衣を選び、髪を整え、付き添う女房たちの支度も済ませなければならない。
そうこうするうちに、日も傾き、午後もいぶ遅くなってしまった。
「まあ、酒の肴にはちょうどよい頃合いだろう」
兼之は少しも気にする様子もなく、すっかり上機嫌で屋敷を後にした。
気が短く、思い立ったらすぐに動かずにはいられない父親である。
けれど、そのせっかちな父が、娘のこととなると、いつも以上に張り切ってしまうのだった。
右大臣家に到着すると、家人たちがにこやかに出迎えた。
いつ訪れても、この屋敷に仕える者たちは気持ちがよい。同じ貴族の屋敷でありながら、入道の家の者たちとは、ずいぶんと違うものだ。
兼之は、そんなことを思いながら、案内されるまま屋敷の奥へと進んだ。
「右大臣様。このような時刻になってしまい、申し訳ございません」
兼之が恐縮して詫びると、右大臣は笑って手を振った。
「なあに、気になさることはありません。せっかくお越しくださったのですから、ゆっくりなさってください」
すでに宴の支度が整えられており、兼之は奥座敷へと通された。
「これは……。さすがは右大臣様。このようなご用意までしていただいて、かえって恐縮いたします」
「いやいや、実は小乃葉に叱られましてな」
右大臣は、少し困ったように笑った。
「瑞穂様がお越しになるというのに、お話もできずにお帰しいたすなど、あり得ません、と。妻のためと思い、どうかご容赦くだされ」
「ははは。なるほど。お互い、妻には一本取られますな」
兼之も、思わず声を上げて笑った。
二人の笑い声が、奥座敷に響いた。
もちろん、兼之は、ただ魚の塩漬けを届けに来たわけではない。
今度催される、結衣姫と入道の北の方の宴。その宴をめぐって、何か動きがあるのか。兼之は、それを確かめるために右大臣を訪ねたのだった。
そして、右大臣もまた、そのことを承知している。
だが、二人とも、あえて口にはしなかった。
何を聞きたいのか。
何を伝えたいのか。
それを互いに察しながら、まずは酒を酌み交わし、世間話に興じる。
言葉にしないからこそ、伝わることもある。
それが、貴族たちの社交というものだった。
「それに、今日は懐かしいお客人もお見えなのですよ」
右大臣がそう言ったときだった。
「兼之殿、お久しぶりです」
奥の間から姿を現した人を見て、兼之は息をのんだ。
「……宮様?」
手にしていた盃を落としそうになり、慌てて膳の奥へ置く。
そして、居住まいを正すと、深く頭を下げた。
「宮様、ご無沙汰いたしております」
「久しぶりだな、兼之」
唐津の君は、懐かしそうに笑い、兼之の肩をぽんと叩いた。
「恐れ入ります、宮様……」
兼之は、それ以上の言葉を続けられなかった。
ただ、うつむくばかりだった。
「御父上の実隆殿には、本当に世話になりました。おかげで、今は唐津での商いもうまくいっていますよ」
その言葉に、兼之は顔を上げた。
「宮様……。私どもの力が足りなかったばかりに、あのようなことになってしまい……。そのうえ、恐れ多くも宮様に、民と同じような商いをなさることまで……。まことに、面目次第もございません」
声が震えた。
「もう少し時がたてば、必ずやお迎えに唐津まで参ろうと、そう思っていた矢先のことでございました。それが、まさか、ここで宮様にお目にかかれるとは……。夢を見ているようでございます」
最後は、半ば涙声になっていた。
唐津の君は、そんな兼之をしばらく見つめていた。
やがて、その肩に置いた手に、そっと力を込めた。
「もうよい、兼之。お前がそう思ってくれていたことだけで、十分だ」
その間に、右大臣はいつの間にか席を外していた。
二人の間に流れる時間を、誰にも邪魔させぬように。
「まあ、尚之殿に歌の指南をお願いするのですか?」
瑞穂が尋ねると、小乃葉は大きくうなずいた。
「そうですわ。今度の歌会で、入道の北の方様の前で、かわいい息子に恥をかかせたくありませんもの」
「まあ、そんなに北の方様は歌がお上手なの?」
「それが、私たちはまだ一度もお聞きしたことがないのですけれど……」
小乃葉は声をひそめ、いたずらっぽく笑った。
「その歌をお聞きになった鶯が、翌日からぱたりと鳴かなくなったそうですわ。それほど素晴らしい歌をお詠みになったということでしょう」
「まあ、それはすごいことですわね……」
瑞穂は感心したように目を丸くした。
「私、歌には少々自信がございましたのに、急に心もとなくなってまいりましたわ」
「でしょう? ですから、尚之殿にお願いするのを口実に、私もご指南いただくことにしましたの。宮家の方ですもの、歌の気品もおたしなみも、きっと深く身につけていらっしゃるでしょう。ぜひにと思いまして」
「それなら、ぜひ私もご一緒させてくださいませ」
「瑞穂様なら、そうおっしゃると思っておりましたわ」
小乃葉は満足そうに笑った。
「今日もいらしているの、おそらく、座敷で主人たちとお酒を召し上がっている頃でしょう」
そう言うと、小乃葉は瑞穂を伴い、渡り廊下を静かに歩いていった。
やがて、座敷の御簾の前にたどり着く。
小乃葉がそっと中をのぞこうとした、その瞬間だった。
「あっ……!」
瑞穂が息をのんだ。
――あのお方……。
あの宴の夜。
月明かりの下で、美しい歌を詠み、瑞穂の歌に返してくださった人。
『一夜の幻でもよいから……』
あの言葉が、耳の奥によみがえった。
月の光をまとった、あの人。
まさか、もう一度お会いできるなどとは。
瑞穂の全身が震えた。
小乃葉は、瑞穂のただならぬ様子に気づき、すぐさま彼女の手を取り、廊下の奥にある部屋へと連れていった。
「瑞穂様、どうなさいましたの?」
顔は真っ青で、肩も小刻みに震えている。
小乃葉はすっかり心配になった。
「誰か、薬師を呼んでまいりなさい!」
「いいえ……」
瑞穂は首を横に振り、小乃葉の袖をぎゅっとつかんだ。
「大丈夫ですから……」
「では、せめて白湯を。誰か、白湯を持ってきてちょうだい」
女房に言いつけながら、小乃葉は瑞穂の顔をのぞき込んだ。
「小乃葉様、本当に違うのです。大丈夫ですから……」
「本当に? どこかお苦しいのではありませんか?」
小乃葉がさらに顔を近づけると、今度は瑞穂の頬がみるみる赤く染まっていた。
「まあ……。いったい、どうなさったのでしょう」
さすがの小乃葉も、どうしてよいかわからず、うろたえるばかりだった。
しばらくして、ようやく瑞穂の震えもおさまってきた。
「小乃葉様、ご心配をおかけして申し訳ございません。もう、だいぶ落ち着きました」
瑞穂は乱れた髪を整え、衣の襟元を直した。
それでも、小乃葉の心配そうな顔は変わらない。
「瑞穂様……。何か、よほど驚くようなことでもございましたの?」
とうとう瑞穂も観念した。
「小乃葉様、この間の宴でのことなのですが……」
「ええ」
「月の下で、とても美しい歌をお詠みになるお方をお見かけしたのです。あまりに美しいお姿とお声でしたので、月の精かと思っておりました」
「まあ……」
小乃葉は目を輝かせた。
「それで?」
瑞穂は、ようやくいつもの微笑みを取り戻した。
「月の精と人間では、住む世界が違いますでしょう? 二度とお会いすることもないと、あきらめておりましたのに……。まさか、あの月の精が、突然、目の前に舞い降りてくるとは思いませんでした」
「まあ……。月の精との再会なんて、しかもこのようなかたちで、なんも・・」小乃葉は感嘆の声を漏らした。
けれど、瑞穂の頬には、まだほのかな赤みが残っていた。
「瑞穂様……」
今宵は、兼之親子にとって、過去から続く因縁と向き合い、その鎖を解き放つ夜となった。そして、閉ざされていた未来に、ほんの一筋の光が差し込んだ夜でもあった。
「北の方様、こちらにおいでになりますか?」
「どうかなさいましたか?」
「はい。若君様の師であられる唐津の君様より、文が届いております」
「まあ、唐津の君様から?」
小乃葉は不思議そうに首を傾げながら、差し出された文を受け取った。
「いったい、何でしょうね」
文を開いた小乃葉は、そこに記された歌を読むなり、思わず声を上げた。
「まあ!」
――御簾の間に
月の姫君
かくれしを
翁は見たり
また逢はまほし――
小乃葉は歌をもう一度読み返すと、ふふふ、と楽しげに笑った。
そして、文を瑞穂に差し出した。
「瑞穂様。唐津の君様、どうやら私たちにお気づきだったようですわ。そればかりか、瑞穂様にまたお会いしたいと……。ふふ、なかなかの殿方ですこと」
瑞穂は、ほんのりと頬を染めた。
先ほど、御簾の向こうに見たあの人。月明かりの下で出会った、もう二度と会えぬと思っていた人。
その人が、自分に気づいていた。
瑞穂は文に目を落としたまま、しばらく黙っていた。やがて、その口元に、ふっと笑みが浮かぶ。
先ほどまでの、恋に心を奪われた少女のような表情は、もうなかった。
「小乃葉様」
瑞穂が顔を上げた。その目には、先ほどとは違う、きらりとした光が宿っていた。
「これが、都流というものなのですね」
「都流?」
「ええ。歌ひとつで、こちらの心を探り、あちらの心を知らせる。姿を見せずとも、言葉ひとつで人の心を揺さぶる……。なるほど、なかなか面白いものですわね」
瑞穂は、もう一度歌を見つめた。
「けれど、唐津の君様ばかりに楽しませていただくわけにはまいりませんわ」
そう言って、顔を上げる。
「小乃葉様。私も、ひとつお返事を考えてみようかしら」
小乃葉は、ますます楽しそうに目を細めた。
「まあ、瑞穂様。お手伝いいたしましょうか?」
「ぜひ。こういうことは、ひとりで考えるより、二人で考えたほうが面白そうですもの」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。
恋に心を動かされることはあっても、恋に振り回されるつもりはない。
瑞穂の胸には、いつしか新たな火がともっていた。
それは恋の炎であると同時に瑞穂自身の好奇心と負けん気の炎でもあった。
竹の世に
かぐや姫こそ
多かれど
君が探すは
いづれの姫ぞ
瑞穂と小乃葉は顔を見合わせると、そろってニヤリと笑った。
「誰か、安芸の局を呼んでちょうだい」
小乃葉が声をかけると、ほどなくして一人の女房がやって来た。
「姫様、何かご用でございましょうか……」
そう言いかけた安芸の局は、小乃葉の傍らにいる瑞穂に気づき、慌てて居住まいを正した。
「これは失礼いたしました。北の方様、どのようなご用件でございましょう」
「姫様……?」
不思議そうに首を傾げる瑞穂に、小乃葉は微笑んだ。
「まあ、瑞穂様。お気になさらず。皆様ご存じのことですから、あえてお話ししておりませんでしたが……。私、後妻でしょう? 姉が亡くなって、間もなく私が輿入れしたのです。安芸の局は大納言家の乳母で、私たち姉妹にとっては母親のような人なの。だから、昔の癖で、つい私を『姫様』と呼んでしまうのよ」
そう言って、小乃葉は安芸の局ににっこりと笑いかけた。
「もちろん、人前ではきちんと北の方様と呼んでくれますけれどね」
「まあ、そうでしたの」
瑞穂は納得したように頷くと、安芸の局に向き直った。
「安芸の局様、瑞穂です。どうぞよろしくお願いいたします」
「もちろん、存じ上げておりますよ。尚之様が、お二方の特訓の様子をご覧になって、『恐ろしい……』と呟いておいででしたから」
「まあ、あの時はね……」
小乃葉と瑞穂は顔を見合わせ、思わず笑みをこぼした。
安芸の局は、そんな二人を眺めながら、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに言った。
「まあ、お二人がこうして揃われるということは、また何かが始まるということでございましょう?」
「もちろん! 都を騒がせることが楽しみですわ」
小乃葉が胸を張る。
「私も、存分に楽しませていただきますわ」
瑞穂も負けじと、澄ました顔で応じた。
「……まったく」
安芸の局は呆れたように息をついた。
けれど、その胸の内には、安堵が広がっていた。
小乃葉には、どこか年齢に似合わぬ大人びたところがある。同じ年頃の姫君たちの中では、なかなか心を許せる相手もいなかった。
人の心を読み、駆け引きをすることには長けている。
けれど、駆け引きなどしなくても、心から笑い合える友がいてもよい。
瑞穂なら、そんな友になってくれるかもしれない。
安芸の局は、そう思った。
「ところで、安芸の局。これを唐津の君に渡してちょうだい」
小乃葉が一通の文を差し出した。
それを受け取った安芸の局は、文に目を落とすなり、ふっと笑みを浮かべた。
「まあ、これは……」
何かを察したらしい。けれど、それ以上は何も尋ねず、にこやかな顔で部屋を辞していった。
その後ろ姿を見送りながら、瑞穂が小乃葉に尋ねた。
「小乃葉様、何もお話しにならなくてよろしいのですか?」
「ご安心なさい。大納言家の乳母ですよ……」
小乃葉は意味ありげに微笑んだ。
瑞穂もまた、その笑みに応えるように口元を緩めた。
二人の間に、言葉はいらなかった。
「旦那様、北の方様より、皆様にとのことでございます」
安芸の局が挨拶をしながら告げると、控えていた女房たちが、酒の入った瓶子と盃を運び入れた。
「丹波のお酒でございます」
「ほう、これはこれは」
兼之が目を細めた。
「懐かしゅうございますね」
唐津の君も、運ばれてきた酒を見て、懐かしそうに微笑んだ。
「昔、学舎を抜け出して、月を眺めながら皆で酒を酌み交わしたことがありましたな」
兼之が、遠い日のことを思い出すように言った。
「そうそう。あの時、宮様がどこからともなく持ち出された酒が、まさに丹波の酒でございました。あとになって、大納言殿にこっぴどく叱られたものす」
「まったく、あれには参りました」
唐津の君も頷き、懐かしそうに笑った。
あの頃は、身分も将来も忘れ、ただ月を眺め、友と語り合うことが楽しかった。
今となっては、もう戻ることのできぬ日々である。
「北の方様も、なかなか粋なことをなさる」
右大臣も、妻の心遣いに満足げな様子で盃を傾けた。
昔話に花が咲き、丹波の酒はゆるゆると人々の喉を潤していった。
やがて安芸の局が退出すると、唐津の君は、ふと袖の中に何かがあるのを感じた。
そっと指先で探れば、そこには一通の文があった。
唐津の君は、顔色ひとつ変えなかった。
「少々、丹波の酒に酔うたようでございます。風に当たってまいりましょう」
そう告げて席を立つと、誰に怪しまれることもなく、部屋を出た。
庭へ下りれば、秋の夜気が頬を撫でた。
月明かりの下、唐津の君はようやく袖の中から文を取り出した。
焚きしめられた香が、夜風にほのかに漂う。
その香りに誘われるように、唐津の君の口元に笑みが浮かんだ。
「……さすが、右大臣の北の方様」
「瑞穂殿うけて頂けましたね」とほほ笑んだ。
「さて、どのようなお返事を差し上げましょうか……」
唐津の君は、月を仰ぎながら、楽しげに目を細めた。




