第三十六章 平安時代の貴族の娘、息子も楽じゃない
「今日は、今より昔の女性の歌について考えてみましょう」
佐紀はそう言うと、ゆっくりと歌を詠み上げた。
――ありつつも 君をば待たむ うちなびく 我が黒髪に 霜の置くまでにー
「これは、愛する人を、白髪になるまで待ち続けようという歌です。磐姫皇后というお方の歌として伝えられております」
佐紀は歌の意味を説明すると、結衣姫に尋ねた。
「結衣姫様は、この歌を詠んだお方を、どのように思われますか」
「先生、お聞きしてもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
「白髪というのは、なぜなるのですか? 母上様も兄上様も黒い髪です。帝のお祖母様は、白い髪でございました」
佐紀は微笑んだ。
「そうですね。人は長い年月を生きているうちに、髪が白くなることがございます。」
「では、このお方は、何十年もの間、愛する人を待ち続けるとおっしゃっているのでしょうか」
「そうですね。愛しているからこそ、何十年たっても待ち続けよう、ということでしょうね」
「では……」
結衣姫は、何かに気づいたように佐紀を見上げた。
「私は、お祖母様になるということですね」
佐紀は一瞬、言葉を止めた。
結衣姫は真剣な面持ちで、何十年という歳月を思い描いているようだった。
その様子を、部屋の外から中宮がそっと見守っていた。
佐紀は初め、中宮がいらしていることに気づかなかった。やがて気配を感じて振り返り、慌てて頭を下げる。
中宮は口元に指を当て、静かに微笑んだ。
佐紀は再び結衣姫に向き直り、何事もなかったかのように話を続けた。
中宮はそのまま、音を立てぬよう部屋を離れた。
佐紀の歌指南は、実に興味深い。
ただ歌の意味を教えるのではない。詠んだ人の事情や置かれた境遇、さらには季節の移ろいまで、細やかに結衣姫に考えさせる。
――結衣は、白髪になるまで待ち続けられるような相手と出会うのだろうか。
中宮は、そんなことを考えながら廊下を戻った。
けれど、いつまでも思いにふけっているわけにはいかない。
まもなく英嗣が、幸からの書状を持って参上する時刻であった。
ほどなくして、英嗣の到着が告げられた。
英嗣は中宮に挨拶を済ませると、幸から預かった書状を伊予の局に渡した。
伊予の局から書状を受け取った中宮は、丁寧に文を開いた。
――中宮様――
このたびの結衣姫様の宴につきましては、改めて伺う旨、お返事申し上げます。
中宮様のお子を思うお気持ちが、相手の方にも伝わりましたこと、まことに嬉しく存じます。中宮様の深くお優しいお心が、人の心を動かしたのでございましょう。
そのような愛情に包まれてお育ちになった結衣姫様が、お作りになったという、小豆をたくさん載せたお菓子。私もぜひ、ご賞味いたしたく存じます。
そして、北の方様の歌の会に向け、私も今から和歌を学び直さねばなりませんね。久しく筆を遠ざけておりましたゆえ、少々心もとない気持ちでおります。
中宮様、このたびの宴が終わりましたら、私は宇治へ帰るつもりでおります。
宇治の晩秋も、なかなかに風情のあるものでございます。
もしお心が塞がれることなどございましたら、気晴らしにお越しくださいませ。
いつなりとも、お待ち申し上げております。
――いつの日も 宇治の山辺に 君を待つ
秋の夕べも 春の霞も――
幸
読み終えた中宮は、ふふ、と小さく笑った。
「やはり幸殿です。私の心が読めるのですね」
その声には、先ほどまで胸に抱えていたものが、少し和らいだような響きがあった。
そして、中宮は英嗣に向き直った。
「英嗣殿。このたびは、いろいろと私どものためにお働きくださり、ありがとうございました。先帝がいらしたなら、官位を差し上げたいほどです……。しかし、今の私は無力です」
珍しく弱音を漏らした中宮に、英嗣は戸惑った。
幸の書状に何かあったのだろうか。
それとも、先ほどの言葉には、自分の知らぬ事情があるのだろうか。
英嗣にはわからず、ただ深く頭を下げるばかりであった。
しばらくして、中宮がふと思い出したように尋ねた。
「ところで、英嗣殿はおいくつになられます?」
「今年で十九になりました」
「十九ですか……」
中宮は、意味ありげに呟いた。
「そろそろ、左大臣家のご長男として、縁談のお話などもございますのでしょうね……」
「え? 中宮様、何かおっしゃいましたか?」
英嗣が聞き返すと、中宮ははっとしたように微笑んだ。
「あら、何でもございません。今後も、何かとご相談させていただくことがあるでしょう。その折には、よろしくお願いいたしますね」
「はっ。私にできることであれば、何なりと」
英嗣はそう答え、中宮殿を辞した。
けれど、廊下を歩きながらも、先ほどの中宮の言葉が気にかかって仕方がなかった。
なぜ、突然、年齢を尋ねられたのだろう。十九という年齢に、何か意味があるのだろうか。英嗣には、思い当たることがなかった。
幸、瑞穂、英嗣、将之、東宮、そして結衣姫。それぞれが思い描く未来とは別に、彼らの知らぬところで、大人たちの思惑を乗せた運命の歯車が、静かに回り始めていた。




