第四章 真打は紫式部を超える才女 菅原佐紀の登場
春の午後。
佐紀は、几帳の脇に置かれた文机に向かっていた。
目の前には、一冊の漢籍。
静かに頁を繰りながら、漢詩の一節を声に出して読む。
「……春風又緑江南岸……」
柔らかな声が、静かな部屋に響いた。
春風が吹けば、草木は芽吹く。
冬の間、何も変わらぬように見えていた景色も、季節が巡れば姿を変える。
「……人も、同じなのかもしれませんね」
そう呟いて、佐紀は再び文机へ目を落とした。
佐紀は、まだ若い。
しかし、昨年の流行り病で夫を亡くしたばかりであった。
夫を亡くした佐紀は、父のもとへ戻ってきた。
父は式部卿を務める官人で、学問にも造詣が深く、娘が戻ってくると、何も聞かずに迎え入れた。
佐紀の母は、弟を産んだあと、産後の肥立ちが悪く、そのまま亡くなっていた。
まだ幼かった佐紀と弟を残して、母はこの世を去ったのである。
父は二人の子を育てるため、乳母を探した。
そして縁あって、乳母を佐紀が後に嫁ぐことになる家に頼むこととなった。
その縁は長く続いた。
佐紀は幼い頃から、その家の子と兄弟のように育った。
どこへ行くにも一緒だった。
笑うときも、叱られるときも、いつも一緒。
やがて二人は夫婦となった。
幼い頃から積み重ねてきた縁が、そのまま夫婦という形になったのである。
だが、その幸せは長くは続かなかった。
昨年、都を襲った流行り病に夫がかかり、あっけなくこの世を去った。
あまりにも突然の別れだった。
佐紀の弟もまた、深く悲しんだ。
二人は幼い頃から兄弟のように育った夫を、実の兄のように慕っていたからである。
今、弟は文章生として大学寮で学んでいる
父のもとで学問を身につけ、若いながらも文書に明るく、将来を嘱望されている。
姉が夫を亡くした今も、折に触れて佐紀のもとを訪れていた。
「姉上、少しは元気になられましたか」
そんな弟の言葉に、佐紀はいつも微笑んで答える。
「ええ。春が来ましたもの」
けれど、胸の奥には、まだ消えることのない寂しさがあった。
佐紀は文机の上の漢籍へ目を戻した。
人は、失ったものを抱えながら、それでも季節とともに生きていく。
春風が吹けば、冬に閉ざされていた草木も、また芽吹く。
「……人も、そうありたいものですね」
佐紀は静かに呟いた。
御簾の外から、春の風が吹き込んだ。
文机の上の紙が、かすかに揺れた。




