第三章 右大臣の北の方橘小乃葉
小乃葉は、藤原家の流れをくむ大納言家の娘である。
父、藤原之正は穏やかで人当たりもよく、宮中では「まあまあの大納言」などと呼ばれていた。
いつも朗らかに笑い、声を荒らげることもない。
誰に対しても分け隔てなく接するため、敵らしい敵も作らなかった。
北の方、良子もまた似たような人柄であった。
いつも柔らかな笑みを浮かべ、若い女御たちの相談相手にもなっている。
そんな夫婦であるから、周囲からは、
「出世欲など、まるでお持ちではないらしい」
などと思われていた。
ところが――。
この夫婦、なかなかのやり手なのである。
三人の娘のうち、長女は右大臣家へ嫁ぎ、二番目の娘は先帝のもとへ入内し、やがて中宮となった。
そして皇女まで産んでいる。
しかし、長女は生まれつき身体が弱く、床に伏していることが多かった。
小乃葉はそんな姉を支えながら、姉の一人息子である尚之の面倒もよく見ていた。
やがて数年前、長女が亡くなった。
右大臣家からは、ぜひとも小乃葉に後妻として輿入れしてほしいとの願いがあった。
こうして小乃葉は、姉のあとを継ぐようにして、右大臣家へ嫁ぐこととなったのである。
右大臣の師尚は、小乃葉の愛らしい笑顔と、母親譲りの人当たりの良さにすっかり心を奪われた。
だが、それだけではない。
ふとしたときに見せる鋭い観察眼。
何気なく発する一言。
その奥にある聡明さに、師尚は次第に惹かれていった。
その様子を見て、宮中ではこんな陰口まで囁かれるようになった。
「まるで、楊貴妃に心を奪われた玄宗皇帝ではないか」
「右大臣家も、帝との繋がりをさらに強くしたいのであろうよ」
そんな、やっかみ半分の噂であった。
なにしろ小乃葉の実家は、藤原家の流れをくむ大納言家。
姉は先帝の中宮となり、皇女まで産んでいる。
右大臣家にとって、これほど魅力的な縁はない。
もちろん、小乃葉自身も、そのことは十分に分かっていた。
あるとき、そんな噂を耳にした小乃葉は、いつもの穏やかな笑顔のまま、こう言ったという。
「まあ……わたくし程度の者を楊貴妃になぞらえるなんて。
それでは、帝に対してあまりにも不吉ではございませんこと?」
そう言って、にっこり笑ったとか、笑わなかったとか。
――その笑顔の裏で、何を考えていたのか。
それを知る者は、誰もいなかった。




