第三十四章 英嗣と将之は頼れる男?
「というわけで、無事に結衣姫様の生誕を祝う宴が催されることとなりました。あわせて、入道殿の北の方様の五十の御賀を祝い、中宮様と皇太后様が、和歌の会を催されることになったそうです」
陰陽寮を訪れた英嗣は、ことの次第を忠嗣に報告した。
「ほう。それは何よりじゃ」
忠嗣が満足げにうなずくと、保忠が感心したように口を開いた。
「和歌の会ですか。皇太后様も、なかなか粋なことをなさいますな。入道殿がお若く、北の方様のもとへ通われていた頃、北の方様は都でも指折りの歌詠みでいらしたそうですよ。その歌声を聞いた鶯が、あまりの見事さに気後れしたのか、それきり二度と鳴かなくなった――などという逸話まであるお方ですからね」
「それはまた、ずいぶんなお話ですね」
英嗣が笑うと、保忠も楽しげに続けた。
「入道殿も、北の方様を娶られた折には、『歌と結婚したようなものだ』と、照れておられたそうですよ。まあ、若い方々はご存じないでしょうが」
「なるほど。そこまで歌に秀でたお方の五十の御賀ともなれば、都中の貴族が歌の腕を競うことになりそうですね」
英嗣が感心して言うと、保忠はすかさず、その顔をのぞき込んだ。
「英嗣殿、何を他人事のようにおっしゃる。こういう折こそ、今をときめく貴公子の腕の見せどころではありませんか」
「えっ、私もですか?」
英嗣は、思わず声を上げた。
「参ったな……。私はどうも歌が苦手でして。人様を感心させるような歌など、とても詠めそうにありません」
「それは困りましたな」
保忠は、わざとらしく考え込む。
すると、忠嗣が
「英嗣殿のお近くにも、今を盛りと咲く花ならぬ、鳴き盛る鶯がいらっしゃるかもしれませんぞ。さて、その鶯は、いったいどのような歌をお待ちなのでしょうな」
「そ、そんな……! 鶯など、私の周りにはおりませんよ!」
英嗣はたちまち顔を赤くした。
「ほう。そうかね」
忠嗣は、何やら面白いものを見つけたように、意地悪く笑った。
英嗣は、ますます居心地が悪くなり、咳払いをひとつした。
宴の話を報告に来ただけのはずが、いつの間にやら、思いもよらぬところへ話が転がってしまった。
――まずい!
英嗣は、ようやく事の重大さに気づいた。
和歌の会ともなれば、誰もが一首や二首、歌を詠むことになるだろう。しかも、あの北の方様の五十の御賀である。並の歌では済まされまい。
――もし、幸に聞かれたら……。
英嗣は、思わず顔をしかめた。
幸の前で、歌の才がないことを知られるなど、何とも具合が悪い。北の方様や皇太后様に知られたところで別に困ることなどないはずなのだが、どういうわけか、それだけは避けたかった。
脳裏に浮かんだ幸の顔を打ち消すように、英嗣は慌てて首を振った。
まずいまずいと中宮様からの本当のご用をわすれそうな勢いだったすると
「幸でございます」
その声に、英嗣は勢いよく顔を上げた。
「えっ――!」
今まさに脳裏に浮かべていた幸が、目の前に立っている。
「英嗣殿? どうかなさいましたか?」
幸は不思議そうに顔をのぞき込んだ。
「お顔が赤いようですが……。もしや、お熱でもおありですか?」
そう言うと、幸はためらいもなく英嗣の額に手を当てた。
「…………」
英嗣、撃沈。
声も出せずに固まった英嗣を見かねて、忠嗣が助け舟を出した。
「幸、英嗣殿は、今度の一件について中宮様からの書状を預かってこられたのじゃ。ほれ、これじゃ」
忠嗣が書状を差し出すと、幸は英嗣の隣から離れ、忠嗣の前に座り直した。
「こちらで拝見してもよろしゅうございますか?」
「うむ、よいぞ」
幸は書状を受け取り、静かに開いた。
しばらくの間、部屋には紙をめくる音さえ聞こえぬほどの静寂が満ちた。
英嗣は、先ほどの幸の手の感触が額に残っているようで、なかなか心が落ち着かなかった。それでも、幸が書状を読んでいる間に、どうにか呼吸を整えていく。
やがて読み終えた幸は、書状を丁寧に畳むと、ほっとしたように微笑んだ。
「……よかったです」
その表情には、心から安堵した様子が浮かんでいた。
そして、幸は英嗣に向き直った。
「英嗣殿、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「えっ!」
再び声が裏返りそうになるのを、英嗣はどうにかこらえた。
「は、はい。大丈夫です」
「私、中宮様にお返事を書こうと思いますので、こちらをお渡しいただけませんか?」
「ああ……そちらのことでございますか」
英嗣は、思わず拍子抜けした声を出した。
「?」
幸は不思議そうに首をかしげる。
「いえ、何でもありません。私は大丈夫です。お待ちしております」
英嗣は、どうにか平静を装って答えた。
その様子を横目で見ていた保忠が、ふいに口を開いた。
「父上、そろそろご支度をなさいませんと……」
「はて、支度とは何のことじゃ?」
忠継が首をかしげると、保忠はさりげなく目で合図を送った。
「ああ、そうじゃった! 中納言殿に頼まれておったことがあったのう」
忠継は、ようやく思い出したという顔で立ち上がった。
「英嗣殿、申し訳ないが、少し保忠と席を外しますぞ」
「はい。私はここでお待ちしております」
「誰か、英嗣殿に茶をお持ちせよ」
保忠が家人に命じると、忠継と連れ立って部屋を出ていった。
あとに残された英嗣は、幸と二人きりになった部屋で、そっと息をついた。
――さて、今度こそ、平静を保たねば。
英嗣はそう心に言い聞かせた。
運ばれてきた茶を一服すると、張り詰めていた身体から、すうっと力が抜けていく。ようやく気持ちも落ち着いてきた。
目の前では、幸が筆を取り、返事の文をしたためている。
その邪魔をしてはならぬと、英嗣は黙って庭へと目を移した。
自邸や、これまで訪れた貴族の屋敷とは違い、こぢんまりとした、飾り気のない中庭である。けれど、隅々まで手入れが行き届き、色づき始めた紅葉が枝を彩っていた。足元には可憐な花々も咲いている。
華やかさこそないものの、なぜか心が安らいだ。
――ここは、不思議なところだ。
そう思ったのを最後に、あたりの音が少しずつ遠のいていく。
幸の筆が紙を走る音も、庭を渡る風の音も、いつしか聞こえなくなった。
そして英嗣は、そのまま眠りに落ちてしまった。
そのころ、御所では帝が蔵人頭を呼ぶよう、使いを出していた。
「将之様も、近ごろはお忙しゅうございますね」
供の者が、気遣わしげに声をかけた。
「まあね。以前は東宮様からのお呼び出しが多かったけれど、近ごろは帝にも何かと頼りにされてね」
将之は、さも事情を心得ているといった顔で答えた。
「年頃の男同士、悩みは尽きないものなのさ」
「はあ……。帝と東宮様も、同じようなお悩みをお持ちなのですか?」
「……それは、内緒さ」
将之は意味ありげに笑ってみせた。
もっとも、帝と東宮が何に悩んでいるのか、本人にはさっぱり見当もついていない。
ただ、あれこれと相談を持ちかけられるうちに、いつの間にか自分が頼れる男のように思われているらしい。
それならば、ここは余計なことを言わず、黙っておくに限る。
そんなことを考えながら、将之は帝の御座所へと急いだ。
「帝、蔵人頭、藤原将之様がお見えになりました」
側近が告げると、御簾の奥から帝の声が響いた。
「入れ」
「はっ。蔵人頭、藤原将之にございます。お召しの旨、承りまして参上いたしました」
将之はいつになく畏まって、深々と頭を下げた。
「将之殿、もう少し近くへ」
「は?」
思いがけないお言葉に、将之は訝しげに首を傾げた。言われたとおり御簾の近くまで進むと、帝は声を潜めた。
「将之殿、今度の結衣姫の宴で着る装束を、そなたに見立ててもらいたいのだ」
御簾越しではあるが、帝の声には、どこか照れたような響きがあった。
「装束、でございますか?」
「そうだ。夏の宴の折、東宮の装束はそなたが見立てたと聞いた」
「は、はい。あれは、たまたま東宮様のお好みに合っただけでございまして……」
「私は、もう少し華やかなものを着てみたいのだ」
帝は、いささか不満げに続けた。
「だが、母上に申し上げても、なかなか許してもらえぬ。帝たるもの、あまり目立つ装束はふさわしくないとおっしゃるのだ」
将之は思わず口をつぐんだ。
帝が皇太后の意向に逆らうことは、まずない。これまで将之が見てきた帝は、母の言葉を素直に受け入れる、どこか大人しいお方であった。
「そこでだ。今度、装束を調える者たちが参る折に、そなたも同席してほしい。私の望みを伝え、あれこれと相談に乗ってもらいたいのだ」
「は、はあ……」
「私も東宮のように、雅な装束で皆をあっと言わせてみたいのだ!」
帝の声が、にわかに弾んだ。
将之は、しばし返す言葉を失った。まさか、帝がそのようなことをお考えとは。皇太后の意向を気にしながらも、自分なりの装いを楽しみたい。そんな願いを胸に秘めていたのか。
将之は、驚きとともに、帝に対する親しみがふと湧き上がるのを感じた。
――なんとまあ。帝も、年頃の男子であられたか。
これまで、どこか遠い存在として見ていた帝が、急に弟のように思えてきた。
「承知いたしました。私にできることであれば、喜んでお引き受けいたします」
将之は胸を張り、頼もしく答えた。
「頼んだぞ、将之殿!」
帝の弾んだ声に、将之も思わず笑みを浮かべた。
こうして、将之は意気揚々と御所を後にしたのである。
もっとも、その後のことは、言うまでもない。
「冬弥ー! 大変なことになった! 頼む、助けてくれ!」
屋敷に戻るなり、将之は一目散に冬弥のもとへ駆け込んだ。
帝の装束を見立てるなど、引き受けたはいいものの、いったい何から手をつければよいのやら。
先ほどまでの頼もしげな姿は、どこにもなかった。
もう一人の頼れる男はまだ幸の横でねていた。
「ねえ、誰? 桜の木の下で泣いているのは」
幼い英嗣が声をかけると、少女は顔を上げた。
泥だらけの着物に、ぼさぼさの髪。小さな肩を震わせ、声を押し殺して泣いている。
「おまえ、誰の子かもわからないんだろう。母上たちが、素性のわからぬ子供と口をきくなって。あっちへ行け!」そう言って倒れた、少女の着物には泥がつき、頬には涙の跡が残っていた。
「君は誰? どうして泣いているの?」
英嗣は、少女の前にしゃがみ込んだ。
少女は答えず、ただうつむいていた。
「ほら、これをお食べ」
英嗣は懐から、小さな包みを取り出した。
「おばあ様からいただいた砂糖菓子だよ」
少女はおそるおそる受け取り、一口食べた。
そして、ようやく笑った。
「ありがとう。甘くて、おいしいね」
「そう? よかった」
英嗣も笑った。
「あなたは誰?」
「僕は英嗣」
「英嗣……英嗣……」
少女は、その名を確かめるように繰り返した。
「英嗣殿……」
「……?」
どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「英嗣殿……」
ここはどこだ。
眠い……。
懐かしい香りがする。
幸の香り……。
桜……ここは、吉野か……?
「英嗣殿」
やはり、幸の声だ。
「……!」
英嗣は、はっと目を開けた。
目の前に、幸の顔があった。
「えっ……」
驚いて飛び起きる。
「英嗣殿!」
幸もびっくりして、思わず身を引いた。
しまった。
「私は、いつの間に……眠ってしまったようですね」
英嗣は慌てて姿勢を正した。
「はい。とても気持ちよさそうにお休みでしたよ」
幸は、くすりと笑った。
しかも、幸の枕を借りて。
英嗣は言葉を失った。
「英嗣殿の寝顔が、昔と少しも変わらないものですから、近くで拝見してみようと思いまして。でも、いくら待ってもお目覚めにならないので、心配になって起こしてしまいました。もう少し、お休みになりますか?」
「とんでもない!」
英嗣は慌てて座りなおした。
「申し訳ございません。こんな姿をお見せしてしまうとは……。まことに恥ずかしい限りです」
「英嗣殿、本当にお疲れのご様子ですね。どうか、ご無理をなさいませぬよう」
幸の声には、からかうような響きはなかった。
ただ、心から案じてくれている。
「はい……。どうも、幸さんの前ですと、ついつい気が緩んでしまうようで。いけませんね」
英嗣は照れくさそうに頭をかいた。
「よいのですよ」
幸は、穏やかに微笑んだ。
「私は、英嗣殿が心を休めたいときには、いつでもここでお待ちしておりますから」
英嗣は、幸を見つめた。
いつもなら、幸と向き合うだけで胸が騒ぐ。何を話せばよいのか、どう振る舞えばよいのかと、余計なことばかり考えてしまう。
けれど、今は不思議と穏やかだった。
夢の中で、幼い自分が少女に砂糖菓子を差し出したからだろうか。
それとも、目の前の幸が、あの頃と変わらぬ優しさで自分を迎えてくれたからだろうか。
英嗣には、まだわからなかった。
ただ、もう少しだけ、この穏やかな時間の中にいたいと思った。
しかし、穏やかな時間は、あっという間に過ぎていく。
気がつけば日も傾き、屋敷の庭には夕暮れの影が長く伸びていた。
そろそろ戻らねばならない。
英嗣は中宮殿へ使いを遣り、明日、幸から預かった書状を持参して伺う旨を伝えた。それから帰り支度を整え、忠嗣の館を後にしようとしていた。
その様子を、幸はどこか心配そうに見つめていた。
「幸さん、本当に大丈夫ですよ」
英嗣は、そんな幸に気づいて、ふと笑った。
「このお守りもありますから。どうか、ご安心ください」
そう言って、懐のお守りにそっと手を添えてみせる。
幸はそれを見て、ようやく少しだけ表情を和らげた。
「……はい。どうか、お気をつけて」
「ええ。また明日」
英嗣は微笑み、軽く頭を下げると、忠継の館を後にした。
幸は、その背中が見えなくなるまで、静かに見送っていた。




