第三十三章 平安時代の家族の愛あってもいいね
「帝のおばあ様は、これを喜んでくださいましょうか?」
結衣姫は、膝の上に置いた包みを気にしながら、中宮に尋ねた。
「大丈夫ですよ。きっと喜んでくださいます」
中宮は、娘に優しく微笑んだ。
今日は、亡き入道の屋敷を訪ねる日である。
牛車に揺られながら、中宮は、これまでのいきさつを思い返していた。
結衣姫の生誕を祝う宴について、皇太后様から苦言を呈されたのは、どう考えても筋の通らぬ話であった。けれど、いったん振り上げた拳を、皇太后様も今さら簡単には下ろせまい。
ならば、こちらから手を差し伸べる。
それが、今回の中宮の役目であった。
幸の言葉を聞き、なるほどと思うところも多かった。皇太后様は、頼みの父親を亡くし、これまでとは違う静けさの中にいらっしゃるのかもしれない。
けれど、中宮が動こうと決めた理由は、それだけではなかった。
このまま宮中を二つに割るようなことになれば、誰にとってもよい結果にはならない。
かといって、こちらが一方的に謝れば、結衣姫の生誕を祝う宴そのものが、非を認めるべきものであったかのように扱われかねない。
それだけは避けたかった。
もし今回、皇太后の了解を得ずに子の生誕を祝う宴を催したことが問題であると認めてしまえば、今後、貴族たちが我が子の生誕を祝うたびに、皇太后の許しを得ねばならぬなどという、妙な慣例が生まれないとも限らない。
そのようなことになれば、あまりにも馬鹿げている。
しかし、宮中というところは、ひとたび前例ができれば、それが道理に合わぬものであっても、後々まで人々を縛ることがある。
だからこそ、今ここで、余計な前例を作ってはならない。
結衣姫の宴を守ること。
皇太后様の面目を保つこと。
そして、宮中にこれ以上の対立を生まぬこと。
どれも譲るわけにはいかなかった。
中宮は、娘の手元にある包みへと目を落とした。
今日は、結衣姫の祝いを押し通すために訪ねるのではない。
秋の庭を拝見し、皇太后様の母君である北の方にご挨拶を申し上げる。そのための訪問である。
そうして、まずは一歩、相手の懐へ入る。
その先のことは、顔を合わせてから考えればよい。
「母上?」
結衣姫が不思議そうに見上げた。
「どうしました、姫?」
「いえ……母上様が怖い顔をなさっているなと思い・・・」
中宮は、思わず笑みをこぼした。
「そうですね。母も、少しばかり緊張しておりますのよ」
そう答えて、娘の手をそっと握った。
「けれど、結衣。人と人との間にできた隔たりは、どちらかが歩み寄らねば、いつまでもそのままです。今日は、母と一緒に、まずご挨拶をいたしましょうね」
「はい、母上」
結衣姫は、包みを大切そうに抱え直した。
牛車は、秋の気配を深めた道を、静かに進んでいった。
牛車はやがて入道の屋敷へと着き、正門をくぐって広大な敷地へと進んだ。
貴族の屋敷二つ分をも上回るほどの広さである。整えられた庭や立派な建物からは、入道一族がいかに贅を尽くした暮らしを送っていたかがうかがえた。
結衣姫は、隣に座る母の緊張が伝わったのか、先ほどまでの明るさを失い、借りてきた猫のようにおとなしくなっていた。
やがて牛車を降りると、屋敷に仕える女房が一行を御座所へと案内した。
入道家に限らず、家柄や格式の高い屋敷に仕える者たちは、主人の威光を背負うかのように、誇り高く振る舞うものである。ここでも女房たちは、訪問客を注意深く見定めるような面持ちで一行を迎えた。
御座所には、すでに皇太后と、入道の北の方が待っていた。
中宮が丁寧に挨拶をすると、二人も礼を返す。
結衣姫も母に教えられたとおり、きちんと頭を下げた。
そして、膝の上に置いていた重箱を差し出した。
「帝のおばあ様に、贈り物を持ってまいりました」
蓋を開けると、中には小豆をたっぷりとまぶした、丸い菓子が並んでいた。
「まあ、かわいらしい……」
北の方は微笑んだものの、見慣れぬ形の菓子に、何と声をかけたものかと少し戸惑った。皇太后も、母と顔を見合わせている。
すると、結衣姫が少し得意げに口を開いた。
「今朝、女房たちに教わりながら、私が丸めてみました。帝のおばあ様は小豆がお好きだと聞きましたので、たくさんつけてまいりました」
「まあ……このばばのために、姫様がお手ずから?」
北の方は驚き、それから目元を和らげた。
「それでは、一ついただきましょうか」
近くに控えていた女房に命じ、菓子を皿に取り分けさせる。ほどなく茶も運ばれてきた。
「姫様、いただきますね」
北の方は菓子を一口、口に運んだ。
たっぷりとまぶされた小豆の甘みが、口いっぱいに広がる。
「……おいしゅうございますよ、姫様」
そう言って微笑んだ北の方の頬を、一筋の涙が伝った。
「お母様……」
皇太后が驚いて呼びかける。
北の方は、そっと目元を押さえた。
「皇太后よ。もう、よいではありませんか」
静かな声だった。
「亡き入道のためと申しても、どのように考えても、今回のことは当家が口をだしすぎました。このように愛らしい姫の生誕を祝うことに、誰が異を唱えましょう。もう、この話はなかったことにいたしましょう」
皇太后は黙って母を見つめていた。
中宮は、ゆっくりと頭を下げた。
「北の方様、皇太后様このたびは、私の浅はかな親心から、ご不快な思いをおかけいたしましたこと、まことに申し訳ございませんでした。けれど、私のこの親心をおわかりいただけましたなら、これに勝る喜びはございません」
「中宮殿、もうよいのです」
北の方は穏やかに応じた。
「私が母親であっても、これほど愛らしく、聡い子を見ておりましたら、何でもしてやりたくなることでしょう」
そう言って、結衣姫へと優しい眼差しを向けた。
「皇太后、よろしいですね」
「……ええ」
皇太后は、しばし考えたのち、ゆっくりとうなずいた。
「私も、先日の宴では、皆が帝をないがしろにしているように感じてしまったのです。帝のお立場を思うあまり、少々、心が狭くなっていたのかもしれません」
ふと、皇太后は苦笑した。
「まあ、私も親ばかですね。帝のためと申しておきながら……」
くすくすと笑う母を見て、北の方も微笑んだ。
「いつまでたっても、親というものは愚かなものですね」
皇太后もまた、自らを笑うように小さく笑った。
その場に、ようやく和やかな空気が戻り始めた。
その時だった。
「皇太后様、北の方様……た、大変でございます。帝がお忍びでお越しに……」
女房が青ざめた顔で駆け込んできた。
「なんと、帝が?」
一同は、そろって言葉を失った。
「帝、なぜこちらへ……」
皇太后は、みるみる顔を青ざめさせた。
「お兄……帝様?」
結衣姫は不思議そうに首をかしげ、中宮は静かに頭を下げた。
北の方は、危うく手にしていた菓子を落としそうになった。
そんな一同の様子をよそに、帝はにこやかに口を開いた。
「母上、おばあ様。今日は、数年に一度しかないほど縁起のよい日だと、陰陽師から聞きまして、おばあ様の五十のお祝いに、私からも贈り物を持ってまいりました」
そう言うと、帝は風呂敷包みをほどき、重箱を開けた。
中には、小豆をたっぷりとまぶした丸い菓子が並んでいた。
北の方は、差し出された重箱を受け取った。
そして、孫である帝の顔を見つめ、重箱に目を落とし、娘の皇太后へと視線を移した。最後に、中宮の傍らで、何も知らぬげに自分を見上げている結衣姫を見つめた。
その愛らしい顔には、ただ、北の方に喜んでもらいたいという思いしか浮かんでいない。
北の方は、とうとうこらえきれず、声を立てて笑い出した。
それにつられて、中宮も笑った。皇太后までが、とうとうお腹を抱えて笑い出す。
帝もまた、笑みを浮かべていた。
ただ一人、結衣姫だけが、なぜ皆がそれほどおかしそうに笑うのか、さっぱりわからない。
結衣姫は、きょとんとしたまま、一同の顔を見回していた。
帰りの牛車には、久しぶりに兄である帝と結衣姫が二人きりで乗っていた。
帝はお忍びでの訪問だったため、供の者たちも目立たぬように取り計らい、一行は急ぎ御所へと戻るところであった。
「帝……」
「結衣、よいのだよ。二人きりのときは、いつものように『お兄様』と呼んでおくれ」
「はい、お兄様。今日は本当に驚きました。お兄様がいらっしゃるなんて、少しも知りませんでした」
「そうだろうね。皆を驚かせようと思って、内緒にしていたのだから」
帝は、いたずらを成功させた子どものように笑った。
「では、私たちが北の方様のお屋敷に伺っていたことも、ご存じだったのですか?」
「もちろん知っていたよ。蔵人頭から報告を受けているからね」
「まあ、そうだったのですね」
結衣姫は感心したようにうなずいた。
「私も今日は驚くことばかりでした。でも、お兄様、おばあ様がお菓子をとても喜んでくださったのです。今日から毎日、楽しみに召し上がるとおっしゃって……。私、とてもうれしかったです」
「そうか。それはよかったね」
帝は、妹の顔を優しく見つめた。
「それにしても、結衣はすごいな。あの菓子を、自分で拵えたのだろう?」
「はい! 小豆をたくさんのせたかったのです。それに、私も食べたいと思って……」
「そうか。では、たくさん食べられたかい?」
そう尋ねられると、結衣姫はたちまちしょんぼりした。
「それが……。作るのが大変で、あまり食べられなかったのです」
すると帝は、袖の中から紙に包んだ菓子を取り出した。
「それなら、これをお食べ。おばあ様から一つ、分けていただいたのだよ」
「まあ!」
結衣姫の顔が、ぱっと明るくなった。
うれしそうに菓子を受け取ると、結衣姫はそれを半分に割り、その片方を帝へ差し出した。
「はい、お兄様」
「どうしたの? 一つあるのだから、結衣がお食べ」
帝がそう言って返そうとすると、結衣姫はにっこりと笑った。
「佐紀先生がおっしゃったのです。一つのものを一人で食べるのではなく、目の前にいる人と分け合ったほうが、倍おいしく感じられるでしょうって」
帝は、差し出された菓子と妹の顔を交互に見た。
「……そうだね。ありがとう。では、一緒に食べようか」
二人は並んで、小さな菓子を口に運んだ。
「おいしい!」
結衣姫が満面の笑みを浮かべると、帝もまた、うれしそうにほほ笑んだ。
「本当に、おいしいね」
牛車は、秋の都を静かに進んでいく。
帝は、隣でいつまでもおいしそうに菓子を頬張る妹の顔を、じっと見つめていた。
その目には、帝としての威厳も、宮中の争いを見つめる者の厳しさもなかった。
ただ、久しぶりに見る妹の笑顔を、いつまでも見ていたいと願う兄のまなざしがあった。




