第三十二章 ある日の中宮殿
左大臣家では、宴には参加しないことした、
一の姫の嫁ぎ先のの姑だ、波風を立てないほうが良いと判断をした
また精神的に娘が追い詰められるのをみてられなかったのだ、しかも、あの日以来左大臣家に居座っている
ある日のこと英嗣は中宮より中宮殿に来るように使いがきた
英嗣が、渡り廊下をあるいていると姉の安信が歩いてきた英嗣は、立ち止って、頭を下げた
「これはこれは、義弟殿、ごきげんよう」と安信が
声をかけた。
英嗣は
「義兄上さま、ごきげんんうるわしゅう」というと安信は苦笑をして
「なかなかの嫌味ですな〜」と睨んだ
「姉上が我が家て、義兄上様をお待ちしています早く迎えに来てぐださらないと今度はこじれますよ。」と忠告した
「なかなか手厳しい、わかりましたよ、今夜にでも迎えに行きましょう」とのらりくらりと答え、立ち去った
英嗣も、義兄だけが悪いとは思わない、我が姉ながら、我がまますぎる、正妻の二の姫として、ちやほやされしすぎで、側室の兄弟を見下しているのだ、
それは、夫である安信に対しても同じだった。
自ら望んで嫁いだ相手であるにもかかわらず、その夫の生まれを理由に、心のどこかで軽んじているのだから始末が悪い。
「姉上にも困ったものだ……」
英嗣は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「自分が望んで嫁いだというのに。義兄上も義兄上だが、姉上ももう少し、相手の立場というものを考えればよいものを……」
そこで、ふと足を止めた。
「まったく、女の心というものは、よくわからぬ」
そうぼやきながら、英嗣は再び中宮殿へと向かう
中宮殿は、結衣姫がいるせいか、いつも明るい。
中宮も物分かりのよいお方で、英嗣はどこか親しみを感じていた。
「中宮様におかれましては、お健やかにお過ごしのことと存じます。本日は、どのようなご用件でございましょうか」
英嗣が尋ねると、御簾越しに伊予の局の声がした。
「右近中将殿、本日は、今度催される結衣姫様の生誕の宴について、ご相談したいことがございます」
「はい、ご相談と申しますと……」
「中宮様がお話しになります」
そう言うと、伊予の局は口を閉ざした。
やがて、御簾の向こうから中宮の声が聞こえてきた。
「実は、この度の宴のことでございます。どうやら、皇太后様のお気に障ってしまったようなのです。世間では、皇太后派と中宮派の勢力争いであるかのように申しているとか……。私には、そのようなつもりなど毛頭ございませんでしたのに、困ってしまいまして」
「はあ……」
英嗣は、何と答えたものかと、返事に窮した。
一瞬、部屋が静まり返った。
その時だった。
「陰陽寮の幸様が、ご挨拶にお見えになりました」
御簾の外から、女房の声がした。
伊予の局が、はっとしたように中宮を振り返る。
「中宮様、幸様が宇治からお戻りになったと聞き、すぐに参内するよう使いを立てておりました。私としたことが、すっかり失念しておりまして……」
「そうでしたね……。私も、今回のことで頭がいっぱいになり、すっかり忘れておりました」
中宮は困ったように微笑んだ。
その傍らで、英嗣は落ち着かない様子だった。
――幸さんが帰ってきたのか……。
会いたい。
ただ、それだけの思いが胸に浮かんだ。
中宮が今、何に頭を悩ませているのかも、英嗣にはわかっている。だが、幸が戻ってきたと聞いた途端、心はすっかり別のところへ飛んでしまっていた。
中宮はしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「そうですわ。幸さんにも一緒に考えていただきましょう。陰陽師ですもの、何かよいお考えが浮かぶかもしれません」
そう言うと、中宮は英嗣に向き直った。
「英嗣殿。せっかくお呼び立てしたところ、申し訳ございませんが、幸殿にもこちらへ来ていただいてよろしいでしょうか」
「もちろんでございます。私は一向に構いません」
英嗣は、努めて平静を装って答えた。
――早く来てくれないものか。
胸の内では、待ち遠しさに落ち着かない。
顔が緩みそうになるのを必死にこらえ、英嗣は御簾の方へ目を向けた。
「中宮様、幸でございます」
聞き覚えのある声がした。
英嗣の胸が、どくんと鳴った。
あの日以来、久しぶりに耳にする幸の声だった。
「どうぞ、お入りなさい」
中宮の声に促され、幸が部屋へ入ってきた。
陰陽師の装束をまとった幸は、御簾越しに挨拶をするのではなく、部屋の中へ進み、英嗣の近くに腰を下ろした。
「英嗣様、お久しゅうございます」
幸は微笑み、丁寧に頭を下げた。
「幸殿も、お元気そうで何よりです」
英嗣も、どうにか平静を保って答えた。
けれど、すぐそばにいる幸から、懐かしい香がほのかに漂ってくる。
それだけで、胸の奥にあった緊張がほどけていくようだった。
――ああ、やはり、この香だ。
懐かしさと安堵が、静かに胸を満たす。
「幸さん……」
思わず、名を呼んでいた。
その声には、自分でも気づかぬほどの喜びが滲んでいた。
「まあ、お二人はお知り合いなの?」
中宮が不思議そうに尋ねた。
英嗣は、待ってましたとばかりに答えた。
「はい。私、幼い頃に病が重く、吉野にて静養しておりました。その折、ここにいる幸殿と一緒に遊んでおりまして……。いわば、筒井筒の仲と申しましょうか。幼馴染でございます」
口にしてから、英嗣ははたと気づいた。
――しまった。
なぜ、そこまで詳しく説明してしまったのだろう。
「まあ、そうでしたの。それでは、本当に久しぶりのご対面というわけですね」
中宮は楽しそうに目を細めた。
その瞬間、英嗣の脳裏に、あの日の出来事がよみがえった。
頬が、かっと熱くなる。
――まずい……。
英嗣は慌てて視線を落とした。
すると、幸が穏やかな声で言った。
「いえ、陰陽師として英嗣様をお見かけし、私からお声をかけたこともございます。その折には、昔話などいたしました。ただ、私がしばらく宇治にて修業をしておりましたので、近頃はお会いする機会もございませんでした」
そこで幸は、英嗣の方を見て微笑んだ。
「まさか、こうしてまたお会いできるとは思ってもおりませんでした。本当に、今日は久しぶりにお目にかかれて嬉しゅうございます。中宮様のおかげですね」
「まあ、それはそれは」
中宮は二人を見比べ、どこか意味ありげに微笑んだ。
英嗣の顔は、ますます赤くなった。
「は、はい……」
かろうじて返事をしたものの、それ以上は何も言えなかった。
「中宮様、そろそろお時間にございます」
伊予の局がそっと声をかけると、中宮は、はっとしたように顔を上げた。
「そうでしたわね。つい話し込んでしまいました」
中宮は小さく笑い、それから幸に向き直った。
英嗣は、ここまでのいきさつを、幸にもわかるよう簡単に説明した。
「そのようなことがございましたのですね……」
話を聞き終えた幸は、しばらく考えるように目を伏せた。
「皇太后様は、お寂しい方なのですね」
その言葉に、部屋にいた者たちは、思わず幸を見た。
「寂しい……とは?」
中宮も、英嗣も、伊予の局も、まるで思いもよらなかったことを告げられたような顔をしている。
中宮は、確かめるように尋ねた。
「幸殿。皇太后様がお寂しい、とおっしゃるのですか?」
「はい」
幸は、何のためらいもなくうなずいた。
「御父上が、長年御一門の繁栄の為尽力してきたと思ってらっしゃたのに、これまで頼りにしてこられた身内の方々も、いつしか以前のようには訪ねてこられなくなった……。皇太后様には、皆が急に遠くへ行ってしまったように感じられるのではございませんか」
「しかし……」
英嗣が口を開いた。
「入道様が亡くなられたとはいえ、あれほどの財力があり、帝の外戚としてのお立場もある。御子息や御息女も、それぞれ有力な貴族の家と縁を結んでおられる。何を嘆かれることがあるのでしょう」
伊予の局も、静かにうなずいた。
幸は、二人の言葉を否定するでもなく、ゆっくりと顔を上げた。
「忘れられるというのは、悲しいことではございませんか」
その声は、ひどく穏やかだった。
「一人になったとき、ふと、誰も自分のことを思い出してはくれないのではないか……そう感じることがあるのではないでしょうか」
幸は、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「とりわけ、これまでは入道様がおいでになり、いつも大勢の方々が出入りしていたお邸でございます。人の訪れが絶えぬ暮らしを長く送ってこられたからこそ、今の静けさが、いっそう身にしみるのかもしれません」
誰も、すぐには答えられなかった。
皇太后の御身分も、財力も、御子息や御息女の栄達も、何ひとつ失われたわけではない。
けれど、それらがあることと、心を寄せてくれる人がいることとは、同じではないのかもしれなかった。
中宮は、しばらく黙っていた。
やがて、その目に、何かを悟ったような色が浮かぶ。
「……そうであったのかもしれませんね」
英嗣は、隣に座る幸を見つめていた。
藍色の瞳は、何を誇るでも、誰を責めるでもなく、ただ相手の心を見つめている。その奥へ吸い込まれそうになりながら、英嗣はふと思った。
――幸さんも、寂しいのだろうか。
宇治を離れ、再び都へ戻ってきた幸。
そして、別れ際に見せた悲しい顔や何気ない笑顔。
英嗣は、胸元に手をやった。
衣の下にあるお守りを、そっと握りしめる。
幸は、そんな英嗣の胸の内など知る由もなく、中宮に向かって微笑んでいた。
中宮は
「わかりました、少し私が大人ならないといけませんね」というと
「墨と筆を」と伊予の局にいうと。
何やら書き始めた。
皇太后様
このたびは、皇太后様のお心をお察しすることもなく、ただ娘の祝いをと願い、宴などと申し上げましたこと、まことに心ないことでございました。どうかお許しくださいませ。
ふと思い出しましたが、皇太后様のお邸のお庭には、そろそろ秋の彼岸花が咲く頃でございましょうか。
結衣姫も、日ごとに成長いたしておりますが、まだ秋というものを、書物や人の話で知るばかり。折々に移ろう草木の色や、秋の風の冷たさなど、実際に見て、感じてほしいと思うております。
つきましては、もしお許しいただけますなら、姫を伴い、お庭を拝見させていただけませんでしょうか。
娘を思うあまり、何かと願いばかりが先に立ちまする。どうか、この親ばかをお笑いになり、ひとつお許しくださいませ。
中宮
秋風に 心を寄せて 咲く花の 色にぞ人の 思ひ知らるる
中宮は、書き上げた文を伊予の局に差し出した。
伊予の局は文に目を通すと、ふっと顔を上げた。
「まあ……中宮様」
その目には、うっすらと涙がにじんでいた。
「かしこまりました。すぐに皇太后様の御座所へお届けに参ります」
「行っていただけるかしら?」
中宮が少し心配そうに尋ねると、伊予の局はにっこりと笑った。
「こういう時こそ、年長者をお使いになるものでございますよ。伊達に長く宮中にお仕えしてきたわけではございません」
そう言うと、伊予の局は文を大切そうに懐に収めた。
そのやり取りを見ていた英嗣は、ますます中宮への敬愛を深めていた。
人の心を思いやり、時には自ら頭を下げることもいとわない。こういう方がいらっしゃるからこそ、宮中もただ権力を争うばかりの場所にはならないのだろう。
幸もまた、中宮に穏やかな笑みを向けていた。
けれど――。
その様子を、物陰からじっと見つめている目があった。
結衣姫様……」
女御は、あたりを見回しながら姫の姿を探していた。
「しっ」
佐紀が人差し指を唇に当て、そっと前方を示した。
「お静かに」
女御が目を向けると、御簾の陰に、小さな人影が隠れていた。
そっと身をかがめ、御簾の隙間から中の様子をうかがっている。なんとも愛らしい少女である。
「まあっ、結衣姫様!」
思わず声を上げかけた女御の口を、佐紀が慌てて押さえた。
「そっとしておいて差し上げましょう」
佐紀は、こらえきれないように小さく笑った。
「先ほど、陰陽師の幸様がお越しになっていると聞かれたのでしょう。どうにも気になって、手習いに身が入りませんでしたの。わざと私が席を外してみましたら、案の定、抜け出してしまわれました」
そう言って、佐紀はくすくすと笑った。
「けれど、結衣姫様は、物事の道理をよくおわかりになりますのよ。いつもでしたら、御簾などお構いなしに開けて、幸様のもとへ駆け寄られるところです。それなのに、今日は場の様子を察して、こうしてじっとご覧になっているだけ……」
佐紀は、御簾の陰の小さな背中に、優しい眼差しを向けた。
「本当に、聡いお方でいらっしゃいます」
「そういうものでございましょうか?」
女御は少し首をかしげながら、結衣姫の様子を見つめた。
けれど、当の姫は、そんな二人の会話など耳に入っていなかった。
頬を真っ赤に染め、ただ一人の人を見つめていたのである。
右近中将、大伴英嗣。
その姿を、まるで瞬きさえ惜しむかのように、一心不乱に見つめていた。
――少しばかり、時を戻そう。
久しぶりに陰陽師の幸が宮中に参内したという噂は、女御たちの間をたちまち駆け巡った。
幸に会いたい女御たちは、次々と中宮殿へと足を運んでいった。
けれど、結衣姫は佐紀との手習いの最中である。
幸に会いたい。
白にも会いたい。
できることなら、白を幸に見せたい。
そんな思いで胸をいっぱいにしながらも、姫は手習いを続けていた。
けれど、やはり気になって仕方がない。
そんな折、佐紀が席を立ったきり、なかなか戻ってこなかった。
何か御用でもできたのだろうか。
そう思った結衣姫は、いても立ってもいられず、そっと部屋を抜け出した。
そして、急ぎ中宮のもとへ向かったのである。
ところが――。
そこに、思いがけない人がいた。
英嗣である。
結衣姫は、息をのんだ。
あの日以来、もう一度お会いしたくて、仕方がなかった人。
その人が、今、すぐ目の前にいる。
嬉しい。
けれど、どうしてよいのかわからない。
声をかけることも、近づくこともできず、結衣姫は御簾の脇に身を隠した。
そして、ほんのわずかな隙間から、英嗣の姿を見つめた。
頬は、火がついたように熱い。
胸は、どきどきと騒がしい。
――ああ、どうしましょう。
結衣姫は、ただただ、英嗣から目を離すことができなかった。
伊予の局が部屋を辞すると、どうやら話し合いも終わった様子で、そこにいた者たちが次々と席を立ち始めた。
佐紀は、そろそろ結衣姫を連れ戻そうと、御簾の陰へ静かに近づいた。
「結衣姫様。こちらにいらっしゃいましたか」
そっと声をかけられ、結衣姫はびくりと肩を震わせた。
「せ、先生……」
思わず声が裏返る。
けれど、すぐに我に返ったように、姫は慌てて言い繕った。
「し、白を探しに参ったのです!」
佐紀は、いかにもそうでしたか、という顔でうなずいた。
「まあ、そうでしたの。白ならば、結衣姫様の代わりに、立派なお仕事をなさいましたよ」
「えっ?」
「墨を使って、それはそれは見事な書き物を。文机ばかりか、床いっぱいに文字を書き連ねておりました」
佐紀は笑いをこらえながら続けた。
「今は女房たちが、墨で真っ黒になった白を捕まえて、お湯殿で洗っております。結衣姫様がお探しなのは、その白で間違いございませんね?」
「ま、まあ……白が……」
結衣姫は、すっかり困った顔になった。
「それでは、結衣姫様。白が書いた文机や床の文字を、きれいにするのを手伝っていただきましょうね」
佐紀は、にっこりと微笑んだ。
「……はい、先生」
結衣姫は小さくうなずいた。
どうやら、英嗣を見つめていたことについては、何も尋ねられずに済みそうである。
そう思って、ほっと胸をなで下ろしたのも束の間。
白の残した「見事な書き物」の後始末が待っていることを思い出し、結衣姫は小さく肩を落とした
その後、白の一件が中宮の耳に入り、結衣姫がこっぴどくお叱りを受けたことは、言うまでもない。
けれど――。
その日、結衣姫の耳には、誰の声も届いてはいなかった。
目には、誰の姿も映ってはいなかった。
ただ、あの方の面影だけが、いつまでも心に残っていたのであ




