第二十九章 右大臣と小乃葉の夜
「小乃葉殿、よい和歌の師が見つかりましたぞ」
忠嗣が右大臣家を訪ねてくると、小乃葉は嬉しそうに顔を上げた。
「まあ、忠嗣殿。それは、どのようなお方でございましょう」
「先帝の姉君が、かつて太政大臣家へ降下されましてな。その姫君より生まれたお方で、先帝の甥にあたられます。例の政変の折、藤原実隆様らとともに大宰府の方へ移られ、その後、さらに唐津まで身を移された……て今は「唐津の君」と呼ばれてましてな」
「まあ……」
「つい先ごろ、都へ戻ってこられたのです」
忠嗣は少し声を落とし、愉快そうに続けた。
「先日、久方ぶりにお会いしたのですが、いやはや、和歌の腕は少しも衰えておらぬ。それどころか、なかなか見事な歌を詠まれる。美しいだけではなく、どこか人の心を惑わせるような、妖しき趣のある歌でしてな」
「まあ……それは、面白そうなお方ですこと」
小乃葉は興味深そうに微笑んだ。
「ただ、尚之には少し大人びすぎているやもしれませぬな」
忠嗣がそう付け加えると、小乃葉は少し考えてから、
「それも、かえってよいのではございませんか。主人に相談すれば分かることもありましょうが……一度、お目にかかってみとうございます」
「では、近いうちにお連れいたしましょう」
「ありがとうございます」
小乃葉が礼を述べると、ふと思い出したように口を開いた。
「ところで、忠嗣殿」
「はい」
「このたび、結衣姫様のお誕生を祝う宴が催されることになりました」
「ほう」
「中宮様より、ぜひ忠嗣殿にもお越しいただきたいとの仰せでございます。それから……できましたら、幸様にもお越しいただければと」
「幸も?」
「はい」
小乃葉は少し表情を曇らせた。
「実は先日、中宮殿では猫が餌を食べなくなったり、本殿との扉の錠が壊れたりしたそうでございます。そればかりか、今度は結衣姫様までお食事を召し上がらぬとか……」
「それはまた、続きますな」
「ええ。暗いことばかりが続きますので、中宮様も少し気にされておいでなのです。それゆえ、このたびの宴は、結衣姫様のお誕生を祝うとともに、邪気を祓う意味も込めて催したいとのことでございます」
「なるほど」
忠嗣はしばし考えると、にこりと笑った。
「それはそれは。ちょうど秋の花々も咲き始める頃。宴を催すには、よい時分ですな」
「では……」
「わしどもは一向に構いませんぞ。ところで、いつの予定で?」
小乃葉はほっとしたように微笑んだ。
「それでは、中宮様にもそのようにお伝えいたします」
どうやら中宮は、この一件について忠嗣がすでに知っていることを、あえて伝えてはいないらしい。
忠嗣はそう感じたが、何も知らぬ顔をしていた。
その日は、右大臣は宿直ではなく、屋敷へ戻ってきていた。
久しぶりに夫婦でゆっくり過ごせる夜である。
二人は庭に面した御簾の外で、月を眺めながら、美酒を酌み交わしていた。
右大臣は、機嫌がよかった。
「小乃葉、此度は大手柄だったぞ」
「まあ?」
「どこからともなく、今回の瑞穂殿を美しい貴婦人に仕立てたのは右大臣家の北の方だ、と噂が広がっておる。さすが右大臣家に見初められた方だけある、と、皆が褒めていた」
「まあまあ。それは買い被りでございますわ」
小乃葉は盃を置き、少し笑った。
「瑞穂様がお持ちになっている素質が素晴らしいのです。私は少し手をお貸ししただけ。それに、中納言の北の方様からご助言をいただかなければ……危うく、とんだ恥をかくところでございました。私もまだまだ修行が足りぬと、反省いたしましたわ」
そう言って、少し俯いた。
「そうか……」
右大臣は小乃葉を眺めながら、静かに笑った。
「だが、本当によくやった。しかし……瑞穂殿も、よく耐えたものだな」
「ええ」
「尚之など、『お父様、母上とそのご友人の方々が奥座敷にいると怖いです』と、震えておったぞ」
「まあ」
「それでな、『母上はいつも私にはお優しいのに、今日はとても怖い方ですね』などと言っておった」
右大臣は思い出したように声を上げて笑った。
小乃葉もつられて笑う。
「まあ……私の本性を見られてしまいましたね」
「長く一緒にいる私には、とっくに分かっているがな」
「まあ、ひどい」
二人は顔を見合わせ、また笑った。
しばらくして、小乃葉がふと思い出したように口を開いた。
「ところで……尚之のことなのですが」
「尚之がどうした?」
「そろそろ右大臣家の長男としての自覚も、持たせていかねばと思っておりますの」
「うむ」
「それに……いずれは妻を迎える年頃にもなりましょう。これから、どこぞの姫君と文を交わしたり、和歌をやり取りしたりすることも増えるでしょうし……」
小乃葉はそこで、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「恥ずかしながら、私、和歌にはあまり自信がございませんの。これまで尚之にも、十分な手ほどきをしてやれませんでした」
すると右大臣が、少し口元を緩めた。
「たしかに……」
「まあ」
「小乃葉の和歌は、技巧だけはたいそう優れておったが……何を言いたいのか、さっぱり分からぬ歌だったな」
「あなた……!」
小乃葉の頬が、珍しく赤くなった。
「もう、その話はおやめくださいませ!」
「いや、思い出したぞ」
「お忘れくださいませ!」
「たしか……」
右大臣は楽しそうに思い出す。
「風吹けば――」
「まあ!」
「『散るや散らぬや 花ならば――』」
「もう!」
小乃葉は両手で顔を覆った。
「――君が手折らむ 心知らずも」
「……」
右大臣は腹を抱えて笑った。
「散るのか、散らぬのか。手折ってよいのか、いけないのか。結局、そなたが私との縁を受けるのかどうか、さっぱり分からなかった」
「もう、おやめくださいませ!」
小乃葉は恥ずかしさに身の置き所もない。
「しかし、あの時は本当に困ったぞ」
「……」
「まさか、あれほど見事に分からぬ歌を返されるとは思わなかった」
「……あの歌は……」
小乃葉は観念したように呟いた。
「乳母が代わりに詠んだのです」
「ほう?」
「あっ……!」
小乃葉は慌てて口を押さえた。
右大臣は一瞬ぽかんとしたあと、大きく笑った。
「そうか、そうだったのか!」
「……もう、言わなければよかった」
「いやいや。今になって聞くとはな」
右大臣は笑いながら、空になった小乃葉の盃に酒を注いだ。
「それで、尚之の和歌の師を探しているというわけか」
「はい」
「なるほど」
小乃葉は少し身を正した。
「忠嗣様に相談いたしましたところ、先帝の甥にあたる『唐津の君』というお方をご推薦いただきましたの。あなたは、ご存じ?」
右大臣
「唐津の君か…」
続けて小乃葉が、
「例の政変の折、大宰府の方へ移られ、その後、さらに唐津まで身を移されたと伺いました」
「そうか……」
右大臣は月を見上げた。
「例の政変のことは、私も知っておる・・そうか唐津の君が都にね」
そして、小乃葉に顔を向けた。
「私は構わぬぞ。」
「まあ、ありがとうございます」
小乃葉はほっとしたように微笑んだ。
「では、すすめますわ」
「うむ」
小乃葉は空になった右大臣の盃にも酒を注ぎ、自分の盃にも少し足した。
二人は再び、月を眺めた。
尚之のこと、唐津の君のこと。
そんな話をしながら、二人はいつしか、久しぶりにゆっくりと夫婦の時間を楽しんでいた。




