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第二十八章 結衣姫和歌を習う

「まあ、今度は姫君様が、お食事を召し上がらないとは……」

伊予の局は、結衣姫付きの女房から報告を受け、思わずため息をついた。

「猫の次は、今度は飼い主ですか……」

「姫様は、どこかで何か頂いているのでしょうか?」

女房が心配そうに尋ねると、

「何を馬鹿なことを。結衣姫様は中宮様のお姫様ですよ。野良猫ではございません。あちらこちらでお食事をいただくなど、するわけがないでしょう」

伊予の局がたしなめる。

「それにしても……確かに最近の結衣姫様は、どうも以前のようにお元気がありませんね。はつらつとしていないというか……心ここにあらず、とでも申しましょうか。困りましたね」

女房は少し考えてから、

「佐紀様は、次はいつ参内されますでしょう?」

と尋ねた。

「明日は詩歌の手習いの日ですから、お見えになるでしょう。明日にでも、佐紀様に様子を伺っていただきましょう」

「はい。お願いいたします」


翌日。

約束の刻限になると、佐紀が参内した。

いつものように女房たちと挨拶を交わしているところへ、伊予の局がやって来た。

「佐紀様、少しお話が……」

そう言って佐紀を別室へ案内すると、しばらく前からのことを一つ一つ伝えた。

話を聞き終えた佐紀は、しばらく考えたあと、ふっと微笑んだ。

「結衣姫様も、もう数えで十一歳ですもの。いろいろと思い悩むこともございましょう」

「はい……」

「私で分かることでございましたら、話を聞いてみましょう」

伊予の局は、ほっとしたように頭を下げた。

「佐紀様、どうぞよろしくお願いいたします。私も姫様とは年が離れすぎておりますでしょう。分からぬことばかりで……つい佐紀様におすがりしてばかりでございます」

「まあ、そのようなこと、お気になさらないでください」

佐紀は穏やかに笑った。

「教育係は、教えることだけが役目ではございませんから」

そう言うと、佐紀は結衣姫のいる御殿へ向かっていった。

その後ろ姿を見送りながら、伊予の局は小さく息をついた。

「……佐紀様にお願いしてよかった」

伊予の局の心は少し軽くなった。


「結衣姫様、佐紀でございます」

そう声をかけて部屋へ入ると、結衣姫は文机に頬杖をつき、何やら考え事をしていた。

佐紀は姫の様子を見て、ふと微笑むと、静かに一首を詠んだ。

«我が来しに 心あらぬと 見ゆるかな

誰を思ひて 君はもの言ふ»

結衣姫が顔を上げる。

「先生……」

振り向いたその顔は、以前より少し大人びて見えた。

「結衣姫様。今の和歌の意味、お分かりになりますか?」

「ええと……」

結依姫は困ったように首を傾げた。

佐紀はくすりと笑う。

「では、結衣姫様。今日は和歌そのものではなく、和歌を作りたくなる時の気持ちから考えてみましょうか」

「和歌を作りたくなる時?」

「そうです。人は、どのような時に和歌を詠みたくなるのでしょう?」

「そうですね……物語では、人に思いを伝えたい時に、和歌を詠んで送っています」

「誰に?」

「えっと……」

結衣姫は指を折りながら考えた。

「お友達とか……離れて暮らす親や親戚……それから……好きな人……」

最後の言葉を口にした途端、結依姫の頬がほんのり赤く染まった。

「なるほど」

佐紀は心の中で小さく頷いた。

やはり――。

だが、それには気づかぬふりをして、話を続ける。

「では、自分はいったい何を伝えたいのか。それを考えてみましょう」

佐紀は少し考えてから、いくつか例を挙げた。

「私は、あなたが好きです」

「私は、あなたが嫌いです」

「この景色は素敵です」

「この景色は、あまり美しくありません」

「私は、あなたより美しい――など、いろいろございますね」

結衣姫がくすりと笑った。

「でも、それを直接言ってしまえば、その言葉を聞いた相手は、すぐに答えを返さなければなりません」

「はい」

「けれど……和歌なら、どうでしょう?」

「どうでしょう?」

「自分の気持ちを歌に託して渡す。すると、相手がそれをどう受け取るのか……その答えを待つ時間があります」

「待つ時間……」

「ええ。その時間が、私は楽しいのだと思います」

佐紀は微笑んだ。

「それが、遊びなのです」

「遊び?」

「はい。和歌というのは、ただ気持ちを伝えるだけのものではありません。言葉を選び、景色に託し、少し遠回しにしてみる。そして相手がどう受け取るのかを想像する。それも和歌の楽しみなのです」

結衣姫は、興味深そうに佐紀の顔を見つめた。

「遊びが上手な人は、人との付き合いも上手になります」

「人との付き合い……」

「ええ。結衣姫様は、お立場がございますから、誰とでも気軽にお友達になるというわけにはいきません」

その言葉に、結衣姫の表情が少し曇った。

「でも――」

佐紀は、そんな姫の顔を見て、優しく続けた。

「和歌なら、その垣根を少し越えることができます」

「……和歌で?」

「はい。歌を贈って、返事を待つ。返ってきた歌を読んで、また歌を返す。それだけでも、少しずつ相手のことが分かってまいります」

結衣姫の顔に、少しずつ明るさが戻っていく。

「そうです……お友達です」

「はい」

「和歌で、お友達を作ることができるのですね?」

「ええ。結衣姫様のお立場だからこそ、和歌というものを上手に使って、人との縁を楽しんでいただければよろしいかと思います」

結衣姫は文机の上の紙に目を落とした。

「先生……私も、和歌を詠んでみたいです」

「では、まず一つだけ考えてみましょうか」

「はい!」

佐紀は微笑んだ。

今日、教えたかったのは、和歌の作り方ではない。

自分の心を言葉にして、誰かに届けることの楽しさ。

そして――

相手の心を想像することの楽しさ。

それを知ることが、きっとこの姫のこれからに役立つ。

佐紀はそう思いながら、結衣姫の隣に静かに座った。

先は一生懸命に相手をおもいながら歌いったのだ


「いかにせむ

いつも我らを

守る君

その心こそ、

なほぞ気になる」


佐紀はそう詠んだ結衣姫を見つめ、心の中で、

――まあ。

と思った。

なんと真っ直ぐな姫君なのだろう。

その一途さが、佐紀にはなんとも可愛らしく思えた。

「結衣姫様、最近、お食事をあまり召し上がらないと伺いました。何か気になることでもおありなのですか?」

「先生……なんだか、いつも胸がいっぱいで、お腹が空かないのです」

「そうですか」

佐紀は少し考えてから、微笑んだ。

「では結衣姫様。今日は、歌が上手になる方法を一つ、お教えいたしましょう」

「歌が上手になる方法?」

結衣姫が顔を上げた。

「まずは、書物をたくさん読むことです。書物の中には、たくさんの言葉がございますでしょう」

「はい」

「その言葉を読むうちに、書いた人が何を感じ、何を伝えたかったのか、少しずつ分かるようになります。そして、その人がどのような言葉を選び、どのように心を表しているのかを学ぶのです」

「言葉をたくさん知ることが大切なのですね」

「ええ。言葉はいくら知っても、邪魔にはなりません」

佐紀はそこで少し間を置いた。

「それから、もう一つ大切なことがございます」

「なんでしょう?」

「健やかな身体と、健やかな心です」

結衣姫がきょとんとする。

「美しい歌は、健やかな身体と心があってこそ生まれるものです。身体が弱っていては、心も弱ってしまいます。ですから、結衣姫様には、まず元気でいていただかなくてはなりません」

結衣姫は少し考えてから、ぱっと顔を明るくした。

「では、お歌が上手になるためには、しっかり食べなくてはいけませんね」

「そうですね」

佐紀は笑った。

「白が良い例です」

「白?」

「ええ。あの猫は、食べることだけは誰にも負けませんもの」

「ふふっ」

結衣姫も思わず笑った。

「先生、私、今日からしっかり食べます。良い歌が作れるように」

「まあ、それは頼もしいこと」

佐紀は嬉しそうに微笑んだ。

「では、次のお稽古までに、この歌の世界を結衣姫様なりに考えてみましょう」

そう言って、佐紀は一冊の書物を結衣姫の前に置いた。

「この歌を読んで、考えてみてくださいませ」

そして、静かに歌を示した。

> **世の中を 憂しとやさしと 思へども

> 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば**

結衣姫は歌をじっと見つめた。

「なんだか……難しい言葉ですね」

「ええ。ですから、すぐに分からなくてもよいのです」

「でも、やってみます」

そう答えた結衣姫の目には、先ほどまでなかった精気が宿っていた。

佐紀はその顔を見て、静かに微笑んだ。






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