第二十六章 瑞穂の恋?
兼之の屋敷には、朝からひっきりなしに人が出入りしていた。
昨夜の宴で瑞穂を見た貴族たちが、さっそく兼之のもとへ、娘との縁を取り持ってほしいと、使いやら本人やらを送り込んできているのである。
さすがに、しばらく大宰府へ下っていたとはいえ、藤原の摂関家につながる家柄である。現在は参議とはいえ、都へ戻った今となっては、そう遠くないうちに大納言まで昇ることは間違いない。
ましてや、昨夜の瑞穂の評判も上々だった。
あの辛口で知られる典侍でさえ、
「鄙びた鳥も、少しは都の空気を吸えば、見られるようになるものですね」
などと評したとか、しないとか。
いずれにしても、瑞穂のおかげで、藤原兼之という名は、一夜にして宮中でも改めて一目置かれるようになっていた。
ところが――
その当の瑞穂は、まだ寝床の中だった。
昨夜の疲れが出たのだろうかと、母親は心配になり、乳母に尋ねた。
「瑞穂は、まだ起きてこないのですか?」
「はい……まだ、お起きになることができないとのことで」
「まあ。どこか身体の具合でも悪いのでしょうか?」
「それが……」
乳母は少し困ったような顔をした。
「身体に力が入らない、とおっしゃって……」
「力が入らない?」
「はい。それに、お食事も召し上がりたくない。ただ、もう少しこのまま横になっていたい、と」
「まあ……」
母親は心配そうに瑞穂の部屋を振り返った。
「では、もう少し様子を見ましょう。もし熱が出たり、具合が悪くなるようなら、すぐに知らせてください」
「はい」
母親が部屋を出ていく。
その頃、瑞穂は布団の中で、昨夜のことを何度も何度も思い返していた。
――あの貴公子は、いったい誰なの?
月明かりの中で見た顔。
静かな声。
そして、あの歌。
「東宮様……?」
そう思ってみる。
けれど、すぐに首を振った。
「いいえ……」
もっと大人の人に見えた。
それに、あの場所に入ることのできる人は限られている。
では、いったい誰なのだろう。
考えても答えは出ない。
なのに、どうしても気になる。
瑞穂は、寝返りを打った。
「もし……東宮様だったとしたら……」
そこまで考えて、瑞穂は布団を頭までかぶった。
「私……」
その先を口にすることができない。
胸の奥が、妙に騒がしい。
昨夜までは、ただ美しい男が和歌を返してくれた――それだけのことだと思っていた。
けれど朝になってみると、そう簡単には忘れられない。
むしろ、時間が経つほど気になって仕方がない。
瑞穂は、顔を布団に埋めた。
昨夜の出会いは、瑞穂にとってあまりにも突然で、あまりにも鮮烈だった。
自分でもまだ、その胸の内に何が生まれたのか分からない。
ただ一つだけ確かなのは、
あの人の顔が、どうしても頭から離れないということだった。
瑞穂の胸の内など、知る由もない兼之は、朝から別のことを考えていた。
――さて、これからどうするか。
都へ戻った以上、昔のように大宰府へ下っていた頃の立場に甘んじるつもりはない。
昨夜の宴で、娘の瑞穂がこれほどまでに注目を集めたことも、兼之にとっては大きな収穫だった。
そして、もう一つ。
瑞穂の夫となるべき男を、そろそろ真剣に考えなければならない。
できることなら、左大臣家、あるいは太政大臣家とも縁を結びたい。
太政大臣には、これまで何度も煮え湯を飲まされてきた。
だが、それも過去のこと。
「これからは違う」
兼之はそう確信していた。
瑞穂という娘を得た今なら、こちらから縁を求めるだけではない。向こうから声がかかっても、おかしくはないのだ。
ふと、左大臣家のことが頭に浮かんだ。
「そういえば……」
左大臣には、男子がいたはずだ。
側室との間に生まれた男子たちは、すでに皆それぞれ縁を得ている。
そして、正妻との間にようやく男子が生まれたときには、左大臣も大層喜んだと聞いている。
「もう十八か、十九くらいだったか……」
兼之は記憶をたどった。
「瑞穂とは、ちょうど釣り合いがよいではないか」
しかも、たしか右近中将だったはずだ。
昨夜の宴でも姿を見かけたような気がする。
もっとも、昨夜は瑞穂のことで頭がいっぱいで、それどころではなかった。
「しかし……」
兼之は首を傾げた。
朝になっても、左大臣家からは使い一つ来ていない。
「おかしいな……」
次に思い浮かんだのは、太政大臣家だった。
あそこにも、たしか六男がいる。
蔵人頭だったはずだ。帝のお側近くに仕える役目だから、昨日の宴でも忙しかったのだろう。
「そういえば、昨日は見かけなかったな……」
となれば、瑞穂の姿を見ていない可能性もある。
それなら、まだ話がないのも仕方がない。
しかし、年頃としては悪くないはずだ。
「それなのに、こちらも何もない……」
兼之は、しばらく考え込んだ。
「まさか……」
瑞穂に興味がないのか?
いや、それはない。
兼之は、すぐにその考えを打ち消した。
「そんなはずはない」
瑞穂を見て、何とも思わない男などいるものか。
ましてや、昨夜の宴での瑞穂だ。
「……もしや、父親が止めているのか?」
それなら話は分かる。
太政大臣のこと。もしや私が舅になるのを嫌っているか?あり得るなー
左大臣家も同じかもしれない。
兼之は腕を組んだ。
「しかし……」
どうにも腑に落ちない。
こちらとしては、これほどの娘を連れて帰ってきたのだ。
少しくらい、左大臣や太政大臣から何か話があってもよさそうなものだ。
「まったく、あいつらときたら……」
兼之はぶつぶつと呟いた。
「昔から何でも一歩遅いのだ。そのせいで、俺は……」
そこまで言って、ふと我に返る。
「……いやいや、今はそれは関係ない」
しかし――
やはり腑に落ちない。
「昨夜のうちに、誰か一人くらい声をかけてきてもよかったのではないか」
兼之は、何とも言えない顔になった。
その頃、当の瑞穂は寝床の中で、
――あの貴公子はいったい誰だったのだろう。
と、昨夜の男のことで頭がいっぱいになっている。
父親は、そんな娘の心など知る由もない。
ただただ、将来の瑞穂の嫁ぎ先を、あれこれと思案しているのであった。
あくる日のことであった。
「奥方さま、右大臣家よりお使いの方がお見えでございます」
女房の声に、兼之の北の方は顔を上げた。
「まあ、いったい何のご用でしょう?」
届けられた文を開くと、北の方は目を通しながら、思わず声を上げた。
「まあ……どうしましょう」
「旦那さまは?」
「今日は兵部卿へ出仕されておりますが……いかがなさいました?」
「先日の瑞穂の参内にお力添えいただいたお礼にと、贈り物を届けたところ、唐渡りの珍しい香炉が届いたので、瑞穂に差し上げたい、と。それから、瑞穂とも話をしたいので、午後こちらへ伺いたい、と書いてありますわ」
「まあ、それは急なことですね。でも、右大臣家のお使いをお断りするわけにもまいりませんね」
北の方は文を手にしたまま、少し困った顔をした。
「瑞穂も、あれからずっと伏せっていますし……弱りましたね」
すると、その声を聞きつけた瑞穂が、部屋へ入ってきた。
「お母様、いかがなさいました?」
「まあ、瑞穂。具合はいかがですの?」
「昨日よりは、だいぶ気持ちが楽になりましたわ。身体も、少しずついうことを聞いてくれるようになって……。先ほどから何やら騒がしいので、気になりまして」
「実はね、右大臣家より使いがあったのです」
北の方は、先ほどの文を瑞穂に見せながら話した。
「力添えいただいたお礼を届けたところ、右大臣家の北の方が、そのお礼も兼ねて、あなたと話をしたいので、午後こちらへ伺ってもよいか、とおっしゃっているのです」
その話を聞いた途端、瑞穂の顔がぱっと明るくなった。
「まあ……! お母様、ぜひにとお返事なさってくださいませ」
「でも、あなた、まだ本調子では――」
「大丈夫ですわ。それに、私も小乃葉さまにお話ししたいことがありますの」
そう言うが早いか、瑞穂は女房を呼んだ。
「萩を呼んでちょうだい。身支度をいたします」
「まあ、瑞穂……」
北の方は、慌ただしく動き始めた娘を見つめた。
つい先ほどまで、あれほど沈んでいたというのに。
「本当に、もう大丈夫なのかしら……」
そう心配する気持ちは消えなかったが、それでも、久しぶりに明るい顔を見せた娘を見ていると、北の方の胸にも、ほっとするものがあった。
「まあ……これほど元気になるのなら、小乃葉さまに来ていただくのも悪くないのかもしれませんね」
北の方はそう呟きながら、瑞穂の様子を見守っていた。




