第二十五章 謎の男
「よう、ご無事で戻られたな」
忠嗣が声をかけると、男はにこりと笑った。
「はい。まだこちらの世界のほうが、楽しそうですから」
「それにしても、入道一派の残党狩りは、それはそれは大変だったと聞いております」
保忠が顔をしかめる。
「ええ。我々も、本当にやっとの思いで唐津まで逃げ延びましてな。向こうでは、大宰府の方々にもいろいろと助けていただきました」
「そうですか……大宰府ね」
忠嗣は、何かを思うように頷いた。
「ところで、都へ戻る途中、宇治に立ち寄りましてな」
「宇治へ?」
「そこで、珍しい女子に出会いました」
「ほう。女子とは?」
保忠が興味深そうに身を乗り出す。
「宇治川をじっと見つめながら、和歌を詠んでおりましてな。なかなかの腕前でしたので、つい気になって返歌をいたしました」
男はそこで、少し困ったように頭をかいた。
「ところが、どうも驚かせてしまったらしく、危うく川へ落ちそうになりまして」
「えっ!」
保忠の顔色が変わった。
「それで私も、とっさに手を取りましてな。なんとか引き寄せたところ……」
男は遠い目をする。
「腕の中に抱いたその娘の、黒髪の間からのぞいた顔が、百合の花のように白くて……」
「……」
「その藍色の瞳に、吸い込まれるような心地がいたしましてな。離してはいけないと、思わず抱きしめてしまったのです」
男は、少し照れたように笑った。
「いやはや……年甲斐もなく。自分の心に、まだこのような気持ちになるところが残っていたのかと、あとになって恥ずかしくなりました」
「そうですか。それは、それは……」
忠嗣は微笑んだ。
「しかし、その娘がまた変わっておりましてな」
「ほう?」
「普通ならば、怯えるなり、怒るなり、あるいは男に抱きしめられたことを無礼だと責めるものだと思うのですが……」
男は首を傾げた。
「その娘、私に向かって微笑んで、礼を言うのですよ」
「礼を?」
「ええ」
男はますます不思議そうな顔になった。
「『助けていただけなければ、あの世ですわ』と。それだけなのです」
保忠は、思わず忠継の顔を見た。
忠継もまた、何とも言えない表情で保忠を見返す。
「よほど男に慣れているのか……それとも、これくらいのことはさらりとあしらうのが、今の女子というものなのか……」
男は困ったように頭をかいた。
「いや、まったく。こちらのほうが参ってしまいました」
忠継と保忠は、顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく苦笑した。
――あの娘なら、さもありなん。
二人の胸には、同じ女子の顔が浮かんでいた。
「ところで、都にはいつまで?」
忠継が尋ねると、男はにこやかに答えた。
「入道が逝去され、ようやく少しは楽しみな世になってまいりましたからな。しばらくは都に腰を落ち着けようかと」
「ほう」
「それに昨日の宴には、なんとも華やいだものを感じました。女御方も、以前とはずいぶん様変わりされたようで、美しい方が増えましたな」
男は嬉しそうに笑う。
「なかでも、兼之殿の御息女。あの美しさといったら……いやはや、あの姫君を一目見ることができただけでも、都へ戻ってきた甲斐があったというものです」
「……」
「それから、右大臣殿の北の方もまた……人妻というのが、なんとも惜しいほどの美しさで」
「おいおい」
保忠が呆れた顔をすると、男は悪びれもせず笑った。
「いや、もちろん手を出そうなどとは思っておりませんよ。遠くから眺めているだけで十分でございます」
「それならよいが……」
「しばらくは、都見物でもいたしましょう。何しろ、長く都を離れておりましたからな」
男は楽しげに言った。
「そうですか。では、こゆるりと高みの見物でもなされるとよい」
忠嗣がそう言ってから、ふと思い出したように続けた。
「ところで、貴殿は和歌の心得がおありになるようですな」
「多少は」
「実は、右大臣家で和歌の指南をする者を探しておりましてな。もしよろしければ、私から御推薦させていただいてもよい」
その瞬間、男の顔がぱっと明るくなった。
「ぜひとも!」
身を乗り出したかと思うと、すぐに咳払いをして居住まいを正した。
「……右大臣家とは、これからも親しくお付き合いを願えればと」
「ほう」
「いや、決してやましい気持ちなどございませんよ」
男は笑った。
「私は今、宇治の君に恋しておりますので」
「宇治の君……」
保忠が思わず呟いた。
男は満足そうに笑った。
「ええ。あの方の返歌を、もう一度聞いてみたいものです」
忠嗣は何も言わず、ただ微笑んだ。
男が去ったあと、保忠は父を振り返った。
「父上……あの男、大丈夫でしょうか」
「何がだ?」
「万が一、右大臣家の北の方にでも……」
「慎め」
忠嗣は静かに遮った。
「あの男、そう簡単に道を誤るような者ではない」
「しかし……」
「大丈夫だ。あの男は、何より損得を見て動く。頭も切れる。でなければ、入道の追手から逃げおおせることなどできまい」
保忠は黙った。
忠嗣は続けた。
「しかも、入道が亡くなったと知るや、すぐに帰京した。そして昨日の宴では、兼之殿の御息女に目をつけた」
「……」
「それだけではない」
忠嗣は、少し口元を緩めた。
「右大臣家にも近づこうとしている。あの右大臣も、大納言の御息女を宴で目立たせながら、何食わぬ顔をしておる。あの男は、そこもしっかり見ている」
「では……」
「そうだ」
忠嗣は静かに頷いた。
「一見、のらりくらりとしている右大臣家と大納言家。その背後に何があるのか、あの男なりに見極めようとしているのだろう」
保忠はしばらく黙っていた。
「……父上がそこまでおっしゃるのであれば、反対はいたしません」
そう言ったものの、保忠は何となく父の横顔を見つめた。
自分が気づかなかったことを、父はすべて見ている。
先ほどまで女の美しさを語って笑っていた男も恐ろしい。
だが――
それを笑いながら見抜いている父のほうが、もっと恐ろしい。
保忠は、何も言わず口をつぐんだ。




