第二十三章 朧月夜の出会い
「帝のお出ましにございます」
その声が響くと、宴の席にいた人々は一斉に頭を垂れた。
帝の傍らには、入道の北の方と、帝の母君である入道の娘が付き従っていた。
帝は、まだ十五歳。華やかな宴の場にもかかわらず、どこか気乗りのしない様子で、ゆるやかな足取りで御座所へと進まれた。
帝が御座に着かれると、太政大臣、右大臣、左大臣らが順に挨拶を述べ、それぞれの席へと戻った。
やがて、管弦の音が流れ始めた。
笛の音が夜の御殿に澄み渡り、箏の調べがそれに重なる。先ほどまでの静けさが嘘のように、宴は再び華やぎを取り戻した。
しかし、帝のご様子は、いささか異なっていた。
目の前で舞が始まっても、さして興味を示すことはない。時折、手元の盃に目を落とし、退屈を隠そうともなさらなかった。
先ほどの東宮のお姿を目にした者たちは、つい比べずにはいられなかった。
東宮の、あの落ち着いた物腰と気品。人々の視線を受けても少しも浮つくことのない、堂々としたお振る舞い。
それに比べると、今宵の帝は、まだ年若い少年の面影を色濃く残しておられた。
「なるほど……。入道殿が東宮様を気にされておられたわけも、分かるような気がいたしますな」
誰かが、扇の陰でそっと囁いた。
その言葉に、隣の者も小さくうなずいた。
太政大臣は、帝のご機嫌を損ねぬよう、折を見て話しかけた。
「帝、今宵の舞は、いかがでございましょう」
「よい……」
帝は、ひと言そう答えただけで、再び視線をそらされた。
太政大臣は、さらに話題を探そうとしたが、どうにも話が続かない。
まったく、こういう時こそ、蔵人頭の将之でもそばにおればよいものを。
あの男なら、もう少し気の利いたことでも申して、帝のお心を和ませたかもしれぬ。
太政大臣は、そんなことを思いながら、盃を口に運んだ。
もっとも、将之は将之で、父が自分の不在を気にしているなどとは夢にも思っていなかった。
やがて、帝は幾度かまぶたを閉じ、ついには舟をこぎ始められた。
皇太后がそっとお声をかけると、帝は小さくうなずき、席を立たれた。
帝のお姿が御殿の奥へ消えると、宴の席には、目に見えぬ安堵が広がった。
それまでどこか遠慮がちだった人々の表情も、ようやく和らいでいく。
そして、ここからが、宴の本番であった。
女御たちも、この夜ばかりは人目を気にせず、思い思いに語らいを楽しんでいた。
華やかな衣をまとった姫君たち。扇の陰から交わされる視線。何気ない言葉に隠された探り合い。
今宵の宴は、若い貴族たちにとって、将来の伴侶を見定める場でもあった。
誰が誰に心を寄せているのか。どの家とどの家が縁を結ぶのか。
人々は笑顔の裏で、それぞれの思惑を巡らせていた。
瑞穂もまた、今宵の宴で十分な手応えを感じていた。
けれど、慣れぬ宮中での長い宴に、さすがに疲れが出てきた。用意された控えの間で、しばらく休むことにした。
御殿の喧騒から離れると、そこには別世界のような静けさがあった。
瑞穂は、ふと開かれた御簾の向こうに目をやった。
梅雨の晴れ間。今宵は雲もなく、月が美しく輝いていた。
その光に誘われるように、瑞穂は渡り廊下へと足を向けた。
夜風が、頬をそっと撫でる。
庭の木々は月明かりに淡く照らされ、葉の影が白い敷石に揺れていた。遠くからは、まだ宴の管弦がかすかに聞こえてくる。
瑞穂は、しばらく月を見上げていた。
そして、ふと、歌を口にした。
「今宵のみ
かりそめなれど
月となり
朧に君を
惑はしてみむ」
一夜限りの気まぐれな月でもよい。朧月夜のように、誰かの心を惑わせてみたい。
そんな思いを込めた歌だった。
瑞穂は小さく笑った。
「……朧月夜のような出会いなど、現実にはございませんわね」
その時であった。
どこからともなく、静かな声が聞こえた。
「君ゆゑに
乱るる心
惜しからず
月も招くや
その身を寄せよ」
瑞穂は、はっとして振り返った。
渡り廊下の向こう、月明かりの届くあたりに、一人の貴公子が立っていた。
その姿を見た瞬間、瑞穂は息をのんだ。
端正な顔立ちに、気品をたたえた立ち姿。月の光を受けた衣の色が、夜の静けさの中にしっとりと浮かび上がっている。
その人は、瑞穂をまっすぐに見つめていた。
「……どなたでございますか」
瑞穂が尋ねると、男はかすかに微笑んだ。
「あなたは、私を知らぬのでしょう。けれど、私はあなたを知っております」
「私を……? いったい、どういうことでございましょう」
男は答えず、ただ月を見上げた。
「今宵は、よい月でございますね」
「ええ……」
瑞穂は、戸惑いながらも、男の横顔から目を離せなかった。
「今は知らずともよいのです。いずれ、またお会いすることもございましょう」
瑞穂が何かを言おうとした、その刹那。
男は渡り廊下の先へと歩み去り、やがて夜の闇に紛れるように姿を消してしまった。
「お待ちください……」
思わず声をかけたものの、返事はなかった。
瑞穂は、その場に立ち尽くした。
先ほどの歌は、確かに自分が詠んだものだった。けれど、あの返歌は、いったい誰が、何のために詠んだのだろう。
胸の奥が、妙にざわめいていた。
その時、背後から母の声がした。
「瑞穂、こんなところにいたのですか」
振り返ると、母が渡り廊下の入口に立っていた。
「お父様が、今宵はお帰りになるそうですよ。一緒に帰りましょう」
「……はい」
「瑞穂? どうしたのです。ぼんやりなさって」
母は、娘の顔をのぞき込んだ。
瑞穂は、はっと我に返った。
「いいえ、何でもございませんわ。少し月を眺めていただけです」
そう言って、いつものように微笑んだ。
けれど、その心は、もう先ほどまでの瑞穂ではなかった。
月明かりの下で交わされた、名も知らぬ貴公子との歌。
その声と、あの眼差しが、いつまでも胸の奥に残っていた。
瑞穂は母の後について、宮中を後にした。




