第二十二章 夏越の祓の宴
中宮殿で起きた事件は、表向きには左大臣たちの手によって収められた。
しかし、実のところ、謎はまだいくつも残されていたが、今は表向きの騒ぎを収め、裏でじっくりと調べを進める方がよいと考えていた。こうして、三人の間でひそかに話を合わせたのである。
左大臣家の二の姫をめぐる騒動を収め、英嗣が戻ってくると、左大臣がおもいついた。
「ここは、英嗣にお任せましょう。」
「私に、ですか?」
英嗣は意外そうに父を見た。
「なにやら、英嗣には女性の心を鎮める不思議なところがあるようだ」
「そのようなことは……」
英嗣は困ったように眉を寄せた。
左大臣家の五男として生まれ、正室の子である三人の姉に囲まれて育った。思えば、幼いころから女性に囲まれて過ごすことが多かった。そのせいか、英嗣には、相手の気持ちを察して穏やかに接するところがあった。
父親は、そこに一つの糸口を見いだしたのである。
「では、今回は英嗣に、ことを丸く収めてもらうよいな英嗣」
こうして、鍵の一件は、もともと不具合のあったものを修繕するために取り外したところ、折悪しく新しい鍵が届く前に、結衣姫と白が通り抜けてしまった――という話に落ち着いた。
英嗣が事の次第を確かめぬまま、少々早合点して騒ぎを大きくした。右近中将に任じられたばかりで、気負いが過ぎたのだろう。
そのような筋書きであった。
「この程度のこと、失態と呼ぶほどのものでもあるまい」
左大臣も、そう言って英嗣をかばった。
それから、慌ただしく日々が過ぎ、気がつけば、夏越の祓の日を迎えていた。
当日の御所の警備や人の配置を整えるだけでも、英嗣はすっかり疲れ果てていた。今回は東宮もお出ましになる。警備の人数も増え、指揮を執るにも、いつも以上に気を配らねばならなかった。
そして、今宵。宮中では、夏越の祓に続く宴が催されようとしていた。
御殿には幾重にも几帳が立てられ、色とりどりの御簾が垂れている。柱の間には灯火が置かれ、雪洞の明かりが柔らかく広がっていた。重ねられた几帳の向こうには、女房たちの衣の色がほのかに透けて見える。
御簾の向こうからは、管弦の音が流れてくる。笛の澄んだ音に、箏の音が寄り添い、やがて舞人が進み出ると、衣の裾がゆるやかに翻った。灯火に照らされた袖の色が、ひときわ鮮やかに浮かび上がる。
人々のささやき声と、楽の音。盃を交わす気配。宮中の夜は、華やかさのなかにも、どこかしっとりとした趣をたたえていた。
そんな宴の席に、今宵、人生の大一番とばかりに臨む女人が二人いた。
小乃葉と瑞穂である。
この日のために、二人は幾日も努力を重ねてきた。とりわけ瑞穂のためには、藤原家の名に恥じぬよう、父も母も心を尽くして装いを整えた。
小乃葉は、右大臣家の席に落ち着き、舞を眺めながら、居並ぶ北の方たちとの語らいを楽しんでいた。華やかな場にあっても、少しも気負う様子はない。相手の言葉に耳を傾け、時折、柔らかな笑みを浮かべる。その姿は、まさに右大臣家の北の方にふさわしいものであった。
一方、瑞穂は貴族の子女たちが並ぶ席の末にいた。
雪洞の灯りが、瑞穂の装いをほのかに照らしている。重ねた衣の色は、灯火の揺らぎによって微妙に表情を変え、扇を持つ白い指先まで美しく浮かび上がっていた。
その姿は、ひときわ人目を引いた。背筋を伸ばして座る姿には、どこか近寄りがたいほどの気品がある。
「あのお方は、どちらの姫君であろう」
「さて……お見かけしたことがないようだが」
「藤原兼之殿のご息女と聞いております。かねて噂には聞いておりましたが……」
「なるほど。噂というものも、時には控えめに伝わるものですな」
そんな囁きが、あちらこちらから聞こえてくる。
瑞穂は、周囲の視線に気づいていた。けれども、ことさらに顔を上げることも、誰かに愛想を振りまくこともしなかった。ただ、教えられたとおりに、静かに微笑み、扇を手にしていた。
その慎ましい振る舞いが、かえって人々の目を引いた。
瑞穂は、胸の内で小さく息をついた。
これまでの苦労が、ようやく報われたように思えた。数日間の厳しい稽古も、今となっては遠いことのように感じられる。
そのころ、右大臣の隣では、居並ぶ大臣たちが小乃葉のことを褒めていた。
「右大臣殿は、まことにお幸せでございますな。北の方があのようにお美しく、また、どなたとも心やすくお話しになられるとは」
「いやいや、私にはもったいないほどでして」
右大臣は、満更でもない様子で盃を傾けた。
やがて、中納言の北の方が小乃葉の隣へと席を移してきた。
「小乃葉様。瑞穂様のことで、ずいぶんと心を砕かれたご様子でしたね」
「まあ。あの方は、もともとお持ちのものがよろしいのです。私は、ほんの少しお手伝いをしただけでございます」
「それにしても、今宵のお姿を拝見すれば、皆さまも感心なさることでしょう」
「そうおっしゃっていただけると、私もうれしゅうございます。先日もいろいろとお教えいただきましたこと、あの折のお言葉が、どれほど心強かったことか」小乃葉はそう言って、中納言の北の方に丁寧に頭を下げた。
「まあ、そんな。私など、何も……」
中納言の北の方は、少し照れたように扇を口元へ寄せた。
小乃葉は、その様子を眺めながら、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、北の方様の二の君は、おいくつになられましたか」
「今年で数えの十六になりますわ」
「まあ、もうそのようなお年に。そろそろ、宮中へお出ましになることもございましょうね」
その言葉に、中納言の北の方の顔がぱっと明るくなった。
「ええ。本人も、いずれはそのような機会があればと、心待ちにしているようでございます」
「それは、楽しみなことでございますね」
小乃葉は微笑んだ。
「小乃葉様にそうおっしゃっていただけるとは、心強いことでございます」
中納言の北の方も、嬉しそうに笑みを返した。
舞の音が、二人の会話を包むように流れていく。
雪洞の灯火が、そっと揺れた。
小乃葉は、扇の陰で微笑んだ。
今宵の宴は、まだ始まったばかりであった。
宴のざわめきが、ふと静まった。
東宮のお出ましであった。
普段、こうした宴の席に姿を見せることの少ない東宮である。人々は、御簾の向こうに現れたその姿を、思わず目で追った。
贅を尽くした束帯は、落ち着いた色合いの中にも気品があり、重ねられた衣の襲が、灯火を受けてほのかに輝いている。けれども、何より人々の目を引いたのは、その衣装に少しも負けない東宮自身の姿であった。
すっと伸びた背筋。ゆったりとした足取り。伏せた目を上げたときに見せる、艶やかで端正な顔立ち。
その場にいた女御たちは、思わず息をのんだ。
「まあ……東宮様、あのように華やかなお顔立ちでいらしたのね」
「本当に……なんとお美しいこと」
「まるで、光る君のようではございませんこと?」
「それに、あのお振る舞い。少しも気負うところがなく、なんと気品のある……」
「お召し物も、見事でございますわね。あのような束帯をお召しになれば、どなたであろうと目を引きましょう」
女御たちのささやきは、やがて周囲の女房たちにも広がっていった。
「東宮様には、あのようなお姿がお似合いになるのですね」
「これまで、財の乏しい東宮などと申していた方々は、今宵のお姿をどうご覧になるのでしょう」
誰かが扇の陰で小さく笑った。
つい先ほどまで、東宮の後ろ盾や財力を話題にしていた人々の目が、今はまるで違っていた。
人の評判というものは、かくも移ろいやすい。
東宮は、そんな人々の視線を気に留める様子もなく、静かに席へと進んだ。周囲に向けて軽く会釈をし、促されるままに腰を下ろす。その一つひとつの所作が、かえって人々の心を引きつけていた。
少し離れた席から、その様子を眺めていた太政大臣は、満足げに目を細めた。
将之に任せてみたものの、正直なところ、初めは不安もあった。あの息子に、東宮の装いを整えるような大事を任せてよかったものか。余計なことを言い出して、かえって東宮を困らせてはいないか。
だが、今宵の東宮を見れば、その心配も杞憂であったようだ。
衣装の選び方も、東宮の持つ気品を損なうことなく、むしろ引き立てている。将之にしては、なかなかの見立てではないか。
「ふむ……」
太政大臣は、盃を手にしながら、ひそかにうなずいた。
今度会った折には、ひと言、褒めてやろう。
そう思ったところで、ふと気がついた。
「ところで、将之はどこにおる?」
傍らに控える側近に尋ねる。
「は……。それが、先ほどからお姿をお見かけしておりませぬ」
「何?」
太政大臣は、あたりを見回した。
宴の席には、見慣れた公卿たちが並び、女房たちが行き交い、楽の音が絶え間なく流れている。だが、肝心の息子の姿はどこにもない。
「将之は、いったいどこをほっつき歩いておるのだ」
先ほどまでの満足げな表情が、みるみる険しくなっていく。
「せっかく、褒めてやろうと思うたものを……」
側近は、返す言葉もなく、ただ頭を下げた。
太政大臣は、盃を置くと、深いため息をついた。
将之が東宮のために尽くしたことは、確かに見事であった。だが、本人がその場にいなければ、褒めることもかなわない。
ようやく見つけたられた将之は、結局父から大目玉を食らうことになるのであった。




