第二十章 前左大臣と現左大臣家のお家事情
左大臣家では、左大臣と英嗣、そして忠嗣が、今回の中宮殿で起きた事件の落としどころを探っていた。
結衣姫の飼い猫が巻き起こした騒動ではある。とはいえ、「猫が犯人でした」で済ませられるほど、単純な話ではない。
「忠嗣殿、いかがしたものかのう」
左大臣は眉を寄せた。
「猫の仕業であったにせよ、何かしらの形で決着をつけておかねばなりませんな」
忠嗣も腕を組んだ。
「東宮様にも、困ったものですな。夏越の祓にお出ましになるというのに、また、あれこれと陰口を叩かれてはお気の毒です」
「そうですね。せっかく東宮様がお出ましになるのに、また噂の餌食になりかねません」
英嗣も同意した。
「入道一派の者たちが、『東宮にふさわしくないのでは』などと言い出しかねませんからな」
左大臣は、深いため息をついた。
「何か、うまい言い訳を考えねば……」
三人はそろって腕を組み、考え込んだ。
その時だった。
「お嬢様! 二の姫様! いったい、どうなされたのですか。宿下がりとは、また突然に……」
屋敷の入り口の方から、にわかに騒がしい声が聞こえてきた。
「お父様がいらっしゃるの? それなら、話を聞いていただくわ!」
怒りをあらわにした女の声が響いた。
「左大臣様には、ただいまお客様がおいでになっております。どうか、こちらでお待ちを……」
女房たちが必死に引き止めるものの、二の姫の勢いは止まらない。
「英嗣もいるの? なら、ちょうどよいわ!」
どうにも収まりそうにない様子に、英嗣は立ち上がった。
「父上、私が見てまいります」
そう言い残し、英嗣は足早に部屋を出ていった。
しばらくすると、あれほど騒がしかった屋敷が、嘘のように静かになった。
やがて、侍従が慌てた様子で左大臣の部屋へ入ってきた。
「とんだところをお見せいたしまして、誠に申し訳ございません」
深々と頭を下げる侍従に、左大臣は不機嫌そうに顔をしかめた。
「いったい、何事だ。お客様もおいでになるというのに、あのような騒ぎを起こすとは、何とも見苦しい」
「忠嗣殿、お恥ずかしいかぎりで……。何とも申し上げようがございません」
左大臣が恐縮していると、忠嗣も大きな声で笑った。
「ははは。これこそ人間の醍醐味というものじゃ。泣き、笑い、怒る。今の都に足りぬものが、そこにはある。女子は楚々としておれなど、時代遅れもよいところじゃ」
「はあ……。そうおっしゃっていただけると、いくらか救われますが……」
左大臣は、まだ申し訳なさそうに頭を下げていた。
左大臣は、客人の前で恥をかかされたことに変わりはない。あとで姫には、きつく言っておかねばなるまい。
忠嗣、何事もなかったかのように左大臣へ向き直った。
「さて、話の続きをしようではないか」
一方、英嗣は姉を別室へ連れていき、興奮が収まるのを待っていた。
現左大臣家の二の姫瑠美は、当時の左大臣の藤原家長男へ嫁いでいた長男といっても側室腹であった。
大伴家もまた、名門の家柄である。娘たちはどの家からも妻にと望まれるほどで、二の姫にも縁談は数多く寄せられていた。
ところが、二の姫は宮中の宴で出会った藤原家の長男に一目惚れしてしまったのである。
父の反対を押し切り、どうしてもその人の妻になりたいと願い、ついには結婚を果たした。
当時、左大臣家として勢いを誇っていた藤原家だけに、二の姫も、何不自由なく暮らしていた。ただ一つ、夫の女癖の悪さを除けば。
婿殿は、あちらこちらの女性のもとへふらふらと通い歩く男だった。二の姫はそのたびに心を乱し、次第に気を病むようになっていった。
耐えきれなくなると、実家へ戻っては大騒ぎをする。しばらくすると、夫が迎えに来て、また左大臣へつれ帰っていく。
そんなことを、幾度となく繰り返していた。
そして今、入道が亡くなってはいるが、都随一の財力を誇る、藤原家は安泰であった。折しも、二の姫には娘がいた。たいそう器量のよい姫君で、入道の北の方、すなわち帝の外祖母は、ゆくゆくはこの姫君を今上帝の女御として入内させ、あわよくば皇子を産ませたいと望んでいた。
そのためにも、入道の北の方は父親である長男の素行には、以前から気を配っていた。そして、安信は、なぜか他の側室腹の兄弟たちよりも格上の扱いを受けていた。年長であることも理由の一つだったが、他の兄弟たちからすれば、同じ側室腹でありながら、なぜ安信だけが特別扱いされるのかという不満があった。
そのため、安信はたびたび兄弟たちから妬まれ、冷たい仕打ちを受けることもあった。それは安信本人にとどまらず、北の方である瑠美にも、異母兄弟たちから心ない言葉を浴びせられ、気を病むことが少なくなかった。
北の方は、おもやるどころか「夫や兄弟たちの振る舞いに、いちいち腹を立ててはなりません。あなたまで心を乱しては、身が持ちませんよ」と責める一方で瑠美の心は限界まできていた。
左大臣は、娘の性格をよく知っていた。
自分の娘が産んだ姫君を、帝の后にするなどとは、少しも考えていなかった。
とはいえ、入道一派の思惑に従いたくないからといって、簡単に話を退けるわけにもいかない。何より、二の姫の娘である孫が、すでにその渦中に置かれているのだ。
左大臣は、どうすることもできぬ現実を前に、これもまた、平安の世を生きる者の宿命なのかと、半ば諦めかけていた。
英嗣は、姉の話を聞きながら、またしても厄介な事態に巻き込まれたことを悟っていた。
中宮殿の事件がようやく片づこうとしている矢先、今度は姉の夫婦問題である。
――まったく、次から次へと。
英嗣は、心の中で深いため息をついた。
「……宇治に帰りたい」
ぽつりと漏らしたそのひと言は、誰にも聞かれることのない、英嗣の本音であった。




