第十九章 瑞穂の特訓
瑞穂は今日も、右大臣家の屋敷にいた。
宴を間近に控え、小乃葉による特訓の真っ最中である。
「まずは、ご挨拶から。相手の身分によって、言葉遣いもお辞儀の深さも変わります。さあ、もう一度」
「はい」
瑞穂は背筋を伸ばし、教えられたとおりに頭を下げた。
「違います。少し早すぎます。相手の目を見て、それからゆっくりと」
「こうですか?」
「そう。では、次は歩き方です。裾を気にしすぎてはいけません。歩幅は小さく、けれど、ためらうように歩いては駄目」
瑞穂は、言われたとおりに歩いてみせた。
「……どうでしょう?」
「悪くありません。もう一度」
「えっ、またですか?」
「もちろんです。宴では、歩く姿ひとつにも目が向けられるのですから」
小乃葉は涼しい顔で言った。
挨拶に始まり、会話の受け答え、歩き方、座る位置、女御たちの序列。さらには、誰に先に声をかけ、どの家の北の方にどんな話題を振るべきか。宴の席で必要となることを、小乃葉は一つひとつ教えていった。
瑞穂は貴族の娘とはいえ、幼い頃から大宰府で育った。都の宮廷で当たり前とされる細かな作法には、どうしてもぎこちなさが残る。
中納言の北の方からも、あれこれと注意を受けたばかりだった。
しかし、いざ自分でやってみると、どうにも思うようにいかない。
「小乃葉様、私、そんなにおかしいでしょうか」
「いいえ。おかしいわけではありません。ただ、都の女御たちは、ほんのわずかな違いも見逃しません」
小乃葉は、少し表情を引き締めた。
「そして、意地の悪い方は、そのわずかな隙を見つけては、いつまでも言い立てるのです」
瑞穂は唇をきゅっと結んだ。
「成り上がりだの、鄙びた女だの……。好き勝手に言わせておくつもりはありません」
「ええ。ですから、隙を見せないことです」
小乃葉は、にっこりと微笑んだ。
「瑞穂様なら、できます」
「……本当に?」
「もちろん。では、もう一度。今度は、私を太政大臣家の女御だと思ってご挨拶なさいませ」
「はい!」
瑞穂は気合いを入れ直し、姿勢を正した。
小乃葉もまた、手を抜くつもりはなかった。
人を身分で見下し、些細な失敗をあげつらう女御たちには、ほとほと嫌気がさしている。けれど、だからこそ、瑞穂には彼女たちの前で堂々としていてほしかった。
宴の席で、誰にも侮られない姿を見せるために。
「では、始めますよ」
「いつでもどうぞ!」
右大臣家の一室では、今日も熱のこもった特訓が続いていた。
その様子を、襖の隙間からそっと覗いている者がいた。
小乃葉の義理の息子、尚之である。
「では、もう一度!」
小乃葉の声が響く。
瑞穂も負けじと姿勢を正し、真剣な面持ちで応じていた。
二人の間には、ただならぬ緊張感が漂っている。
尚之は、思わず息を呑んだ。
―義母上は、本気にさせると怖い。
そう思った瞬間、尚之は音を立てぬよう、そっと後ずさりした。
「……とにかく、和歌だけは勉強しておこう。どんな教育係をつけられるかわかったものじゃない」
誰に聞かせるでもなくつぶやくと、尚之は足早に自分の部屋へ戻った。
そして、文机に向かうと、硯に水を注ぎ、筆を手に取った。
何やら熱心に書き始めたことは、言うまでもない。
一方その頃、太政大臣からの書状を受け取った保忠は、大臣の御座所へと案内されていた。
「保忠殿。わざわざご足労いただき、申し訳ない」
太政大臣は、穏やかな笑みを浮かべて迎えた。
「いえ。書状を拝見いたしました。右大臣家との縁を、より強く結びたいとのことでございますね」
「そうなのだ。右大臣家には、確かご子息がおられたな。いくつにならた?」
「はい。たしか十三歳であったかと存じます」
「ふむ。実は、当家にも今年十二歳になる娘がおってな。良い年回りではないかと思うのだが」
「はあ……」
保忠は、ひとまず相槌を打った。
「名は玖瑠実と申す。親の欲目もあろうが、器量もよく、気立てもよい娘でな。右大臣家では、そろそろご子息の縁談などをお考えではないかと思い、少し探っていただきたいのだ」
「私が、でございますか?」
「こうした縁談では、年回りや節目、相性など、陰陽師に相談することもあるであろう。もし右大臣家から、そのような話が持ち上がったなら、真っ先に知らせてほしい。そこから先は、こちらで話を進めよう」
太政大臣の言葉には、すでに先々の段取りまで整えているような響きがあった。
保忠は、しばし考えてから答えた。
「そういうことでございましたら、悪いお話ではなさそうですな。気を配っておきましょう」
「うむ。頼んだぞ」
保忠は一礼し、御座所を辞した。
廊下を歩きながら、ふと考えた。
――十二歳の娘と十三歳の息子か。年回りとしては、確かに悪くない。
そう思ったところで、別の考えが頭をよぎった。
――いや、待て。十二歳の娘より、十八歳になる息子の方を心配した方がよいのではないか……。
保忠は、思わず苦笑した。
太政大臣の思惑など知る由もないが、都のお坊ちゃまたちの心は、どうにも落ち着かぬようである。




