第十八章 東宮と将之
「今度の宴、東宮様がご出席になるそうよ」
「珍しいこともあるものね」
宮中では、そんな噂があちこちで囁かれていた。
何事も起こらないことこそ、宮中にとっては何よりである。今回は、東宮が宴に出席するという、ごく当たり前のことが、なぜか大きな話題になっていた。
そんな中、ただ一人、得意満面の男がいた。
蔵人頭の将之である。
東宮が宴に出席することになったのは、ひとえに自分の働きかけのおかげだ。将之はそう信じて疑わず、誰に褒められるでもなく、ひそかに自分で自分を褒めていた。
しかし、肝心の父親である太政大臣だけは、どうにも浮かない顔をしていた。
「東宮が出席とは、少々面倒なことになったな。東宮御所で、これまでどおり静かに過ごしていてくださればよいものを」
人前では笑ってそう口にしたものの、一人になると、その顔から笑みが消えた。
「いったい、どういう風の吹き回しだ……。まさか、何かを感づかれたのではあるまいな。いや、まさかな……」
太政大臣は腕を組み、あれこれと思いを巡らせた。
「誰かあるか?」
声をかけると、控えていた侍従がすぐさま姿を現した。
「将之を呼んでまいれ」
侍従は一礼すると、蔵人頭の詰所へと向かった。
ほどなくして、将之が部屋に入ってきた。
「父上、お呼びでございますか?」
「東宮が夏越の祓の宴に出席されるというのは、本当か?」
「はい。東宮様から、じきじきに承りました」
将之は、父が何を気にしているのか分からず、訝しげな顔をした。
「最近、東宮に何か変わったことはないか?」
「さあ……。特に変わったご様子はございません。毎朝、決まった時刻にお目覚めになり、朝の御勤めを済ませ、朝食を召し上がった後は、いつもどおり執務をなさっております。あっ、そういえば……」
将之は、何かを思い出したように口をつぐんだ。
「何だ。何かあったのか?」
太政大臣が身を乗り出した。
「そういえば、最近、どこぞの女御の飼い猫と思われる白い猫が、東宮御所に迷い込んでいたそうです。毎朝、東宮様と一緒に食事をしていたとか。ところが、近頃は姿を見せなくなり、東宮様も寂しがっておられたと聞きました」
「…………」
太政大臣は黙り込んだ。
「猫か……」
そうつぶやき、しばらく考え込む。
「……分からん」
小さく首を振ると、改めて将之に目を向けた。
「将之。今後は、これまで以上に東宮のお側に気を配るのだ」
「はっ」
「宴に出席されるのだから、東宮にふさわしいお召し物も用意せねばなるまい。費用はすべて、我が家で負担してよい。粗略に扱うことのないよう、くれぐれも気をつけよ」
「承知いたしました」
将之は一礼し、部屋を下がった。
その姿を見送ると、太政大臣は再び深く息をついた。
男宮は、今のところ東宮ただ一人。
いずれにせよ、東宮を支える立場にある以上、ないがしろにするわけにはいかない。
だが、気がかりなのは東宮だけではなかった。
今上帝の後ろ盾には元左大臣家のあの入道が遺した荘園をはじめ、莫大な財産がある。入道亡き今、その影響力は以前ほどではないにせよ、財力を背景に再び元左大臣家が勢力を盛り返す可能性は十分にあった。
藤原兼之のように、いつの間にか貴族たちを味方につけ成り上がってくる可能性は多いにある。今年の春の除目がそうだ。うっかりしていると足もとをすくわれる。
しかも、なくなった入道の北の方は、宮中を仕切っているし・・・その娘もまた、父親譲りの気性の持ち主で皇太后として帝の後ろで摂政になったかのように何かにつけて宮中のことに口を出してくる。
「いったい、いつまで左大臣家の威光を笠に着るつもりなのだ。今の左大臣は大伴であろうに……」
考えれば考えるほど、腹立たしいことばかりが浮かんでくる。
太政大臣は、深く息を吐いた。
とにかく、東宮を粗略に扱ってはならない。
表立って肩入れする必要はないが、影から支援し、恩を売っておくに越したことはない。
「さて……これから、どう動くべきか」
太政大臣は、誰に聞かせるでもなく、ひとりごちた。
宮中の勢力図は、いつ何時、塗り替えられるとも知れない。
その中で、誰を味方につけ、誰に恩を売るか。
太政大臣の思案は、まだ尽きそうになかった。
もう少し、左大臣家の大伴と右大臣家橘と仲良くしておくのも行一手だな・・・・。
というと、手紙を書き、侍従を呼んだ。
「陰陽寮の保忠殿へわたしてくれ」
あくる日、将之は東宮御所を訪れた。
あらかじめ使いを立ててあったため、案内されるまま、東宮の御座所へと向かった。
「東宮様。この度の宴にあたり、束帯を新たにお調えするよう、太政大臣より申しつかっております」
そう言って、将之は父からの書状を差し出した。
東宮は書状に目を通すと、少し困ったような顔をされた。
「それはありがたいことだが、そこまでしていただくわけにはいかぬ。今ある装束で、十分に間に合うであろう」
すると、将之はあっけらかんと笑った。
「東宮様、せっかくの機会にございます。ここはひとつ、今をときめく装束にお召し替えなさいませ。きっと、皆も目を見張りましょう。女御たちを驚かせてみましょうよ」
「しかし、費用のこともあるゆえ……」
「なあに、そこは当家にお任せください。せっかくの宴でございます。東宮様には、晴れやかなお姿でお出ましいただきたいのです」
将之は、そこで少し身を乗り出した。
「ちなみに、私も便乗して新調するつもりでおります」
そう言って、何の屈託もなく笑った。
「そうか。将之も一緒なら、甘えさせてもらおうか。楽しみだな」
東宮も、つられるように笑った。
「はい!」
将之も、満面の笑みで応じた。
控えていた女御たちは、顔を見合わせた。
東宮の笑い声を聞いたのは、初めてのことだった。
将之が東宮御所の蔵人頭となってから、少しずつ御所が明るくなってきた。淡路の局は、そんな変化を嬉しく感じていた。
一方の将之も、東宮が以前よりずっと話しやすくなったことが、何より嬉しかった。
鼻歌交じりに廊下を歩いていると、向こうから陰陽寮の保忠がやってきた。
「これは、将之様。お久しぶりでございます」
保忠は、丁寧に頭を下げた。
「保忠殿、お久しぶりです。この時期、陰陽寮はお忙しいのでしょうな」
「はい。梅雨に入りますと、何かとございまして……」
「そういえば、最近、幸殿をお見かけしませんが、いかがなさいました?」
「……いえ、具合が悪いわけではございません。この時期は方違えのことや、女御方の占いなどに追われておりまして。幸も、そちらの相手をしている次第です」と念のため宇治で暮していることは黙っていた。
「そうですか。幸殿もお忙しいのですな」
将之は、何気ないふうを装ってうなずいた。
「今度、夏越の祓の前に、陰陽寮で祭事を行うのでしょう? その折には、幸殿も出席されるのですか?」
「いえ、それはまだ決まっておりませんが……。何か、幸にご用でも?」
その途端、将之の顔がみるみる赤くなった。
「い、いや、用など何も……。幸殿がお元気であれば、それで……。よろしくお伝えいただければ……」
しどろもどろに言い終えると、将之はなぜか深々と頭を下げ、そのまま逃げるように走り去ってしまった。
「はて……?」
保忠は、しばらくその場に立ち尽くした。
やがて、ふと思い出したように、父のが口にしていた言葉が頭をよぎった。
――都のお坊ちゃま貴族の心が、落ち着かないか。
「なるほど……」
保忠は、ようやく合点がいったように、苦笑した。




