第十七章 宇治で会った二人
幸は、いつもの陰陽師の装束を脱ぎ、薄藍の袿に身を包んでいた。幾重にも衣を重ねることはせず、髪も飾り立てず、そのまま背へと流している。
華やかさはない。けれど、すっきりとした装いは、どこか気品を感じさせた。
「宇治では、陰陽師のことは忘れなさい」
師匠のにそ忠嗣にそう言われた。
幸は、ふと考えた。
自分には、陰陽師としての才能がないのだろうか。
ようやく、陰陽師というものの中に、自分の居場所を見つけたような気がしていたのに。
――また私は、どこへ流れていくのだろう。
気がつくと、幸は宇治川のほとりに立っていた。
目の前を、川は何事もなかったように流れている。
幸はしばらくその流れを見つめ、ぽつりと呟いた。
「宇治川の流れにまかす身の行方、いずこへ行くと誰か知るらむ……」
小さくため息をついた、その時だった。
「行く先を知らぬ流れも、絶えせずに岸辺の花を育てゆくなり」
不意に、男の声がした。
「え……?」
幸が慌てて振り返ろうとした瞬間、足元の草に足を取られた。
「あっ!」
身体が傾く。
次の瞬間――
見知らぬ男が、幸の身体を抱きとめていた。
その男の目に、黒髪の間からのぞく、百合のように白い肌が飛び込んできた。
そして、わずかに藍色を帯びた瞳。
男の顔色が変わった。
「これは……なんと……」
男は、思わず呟いた。
「あの方が……生きて……」
幸は突然のことに驚き、声も出ない。
男もまた、我を忘れていた。
気がつけば、幸を抱いたままになっている。
二人はしばらく、宇治川の瀬音に包まれていた。
やがて幸が、困ったように呟いた。
「申し訳ございません。少々苦しいのですが……私は、もう大丈夫です」
男は、はっとした。
「これは……失礼を」
慌てて手を離す。
幸は男に向かって、にこりと微笑んだ。
「どうもありがとうございます。突然のことで足を滑らせてしまいました。本当に助かりました」
そして、流れの速い宇治川を振り返る。
「あのまま落ちてしまっていたら……今ごろ、あそこですわ」
そう言って、幸は川下の空を指した。
「…………」
男は、しばし言葉を失った。
自分は、見知らぬ女性を思わず抱きしめてしまった。
普通なら、驚き、恥じらい、あるいは怒ってもおかしくない。
ところが、この女性は何事もなかったかのように、自分に礼を言っている。
――いったい、この女性は何者なのだ?
男は拍子抜けして、思わず笑ってしまった。
「……ははは」
「?」
幸は、ぽかんと男を見つめた。
男は、自分のほうが取り乱していたことに気づき、さらに可笑しくなった。
宇治川の瀬音だけが、二人の間を静かに流れていた。
「幸様~、そこにおいでですか?」
遠くから、市の声がした。
幸は声のした方へ顔を向けた。
「市! ここにいます」
そう答えて、ふと気がついた。
――男がいない。
「……?」
さっきまで、確かにそこにいたはずなのに。
幸が辺りを見回していると、市が小走りに駆けてきた。
「幸様、心配しました。宇治の川は流れが速うございます。もし落ちてしまったら……と思うと、気が気ではございません」
「……そうですね」
幸は、にっこりと笑った。
そして、ふと先ほどの男を思い出す。
――あの方、式神だったのかしら。
そう思うと、なんだか可笑しくなって、幸はくすくすと笑った。
「なにがおかしいのですか? 人に心配をさせて!」
市が頬をふくらませる。
「ごめんなさいね」
幸は、素直にぺこりと頭を下げた。
宇治川は、何事もなかったかのように流れていた。
その日、宇治川のほとりで出会った二人は、まだ知らなかった。
この出会いが、やがて一人の男の運命を変え、幸自身の運命をも変えていくことを。
そしてそれは、やがて、それぞれ異なる人生を歩んでいた四人の女性を、再び結びつけることになる。
――けれど、そのことを知るのは、まだずっと先のことであった。




