第十五章 東宮
「淡路の局様今日はあの猫が来ませんね」
一人の女御がぽつりと言った。
「本当に、可愛らしい猫でしたのに……」
「どこぞの女御が飼っていたのでしょうか」
別の女御がそう言うと、皆は顔を見合わせた。
ここは東宮御所。
かつて先帝の一宮として生まれたこの方は、今では東宮の位にありながら、ひっそりとした日々を送っていた。
その母は典侍という、決して高いとはいえない身分であった。実家にも大きな財力はなく、宮中で一宮を支えるだけの後ろ盾もなかった。
一方、二宮の母は、当時の左大臣家の娘である。強大な後ろ盾を持つ二宮は、その財力と地位をかさに帝の位についた。
一宮は、先帝の第一皇子であることに変わりはない。だが、母の身分と後ろ盾の差は、歴然だった
人前に出ることを好まなかった一宮は、左大臣家に遠慮するように、ますます人目を避けるようになった。
東宮とは名ばかり。いつ廃位を言い渡されるとも知れぬ不安を抱えながら、ひっそりと暮らしていたのである。
そのため、東宮御所を訪れる者は少なかった。外の情報もなかなか入ってこない。御所の中には、どこか沈んだ空気が漂っていた。
仕える女御たちも、若く身分の高い者は長く留まろうとはしなかった。
一宮の母の身分が低いことを理由に、世話役を務めるのを嫌がる者もいた。母の体調がすぐれず、やがて亡くなると、御所はさらに寂しさを増していった。
残ったのは、長年仕えてきた年配の女御たちばかり。彼女たちも、日々の務めを終えれば、早々に自分の部屋へ引き上げてしまう。
一宮自身も、ほとんど自室にこもったままで、姿を見せることはめったになかった。
することもなく、訪ねてくる人もいない。
そんな東宮御所で、あの白い猫は、いつしか女御たちのささやかな慰めとなっていた。
猫が現れると、女御たちは声をかけ、膝に抱き、思い思いに可愛がった。
そして、猫がいる時は一宮もほんの少しだけ、いつもと違う表情を見せることがあった。
その白が、今日は姿を見せない。
女御たちは、いつもと変わらぬ静かな御所で、少しばかり物足りなさを感じていた。
朝餉の支度が整い、東宮が姿を見せた。
「今日は、あの猫は来ないのか?」
東宮が尋ねると、淡路の局が答えた。
「そうみたいですわね」
「そうか……」
東宮は、少し残念そうな顔をして、金魚鉢にご飯粒を入れた。
女御たちは、またかという顔を見合わせた。
「金魚はご飯など食べませんのに。本当に変わった宮様ですこと」
誰かがそう囁くと、女御たちはくすくすと笑った。
東宮は、聞こえているのかいないのか、何も言わなかった。
「今年も、そろそろ宴の時期だね。蔵人頭から、何か知らせは届いていないのかい?」
「いいえ、まだでございます。今年は帝の祖父にあたる入道様がお亡くなりになりましたので、どうなりますことやら」
「そうだね……」
東宮は、しばらく考えるようにしていたが、それ以上は何も言わず、部屋へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、淡路の局は小さくため息をついた。
「また、お魚だけ召し上がらなかったわ……」
東宮の食の細さは、今に始まったことではない。女御たちも、もはやそれを気に留めることはなかった。
その日の昼過ぎ、蔵人頭の将之が東宮御所を訪ねてきた。
東宮は、将之には心を許していた。将之は政治の駆け引きには疎く、他の官人たちのように東宮の顔色をうかがうこともない。いつも変わらず、東宮に敬意を払いながらも、気負いのない言葉を交わしてくれる。少々抜けたところもあるが、それもまた東宮には心地よかった。
「東宮様、そろそろ夏越の祓の季節でございます。今年も執り行われますので、今年こそは、ぜひともご出席を」
将之がそう告げると、東宮は珍しく、すぐに答えた。
「将之、今年は出席するよ」
「えっ!」
思わず声を上げた将之に、東宮は笑みを浮かべた。
「将之、お前は本当に正直だね。私が出席すると言ったのが、そんなに意外だったのだろう?」
「ええ……。あの、本当にご出席なさるのですか?」
「そうだね。少し、宮中の様子も見てみたいと思ってね」
「東宮様、ここも宮中でございますよ」
「将之、そういうことではない。春の除目で、ずいぶんと人も変わったのだろう。少し興味が湧いてね」
「そうですか? 私が蔵人頭になってからは、何も変わっておりませんが」
「それは、お前が変わっていないからではないのか?」
「そうかもしれませんね」
将之は、あっけらかんと笑った。
「嫌なのか?」
「いいえ。私は兄上たちのように、父上から大きな期待を寄せられているわけでもありませんし、姉上たちのように、出世頭の殿方へ嫁ぐこともございません。ですから、気楽なものでございます。何より、こうして東宮様とお話しできるのが、私は楽しいのです」
将之は屈託なく笑った。
「そうなのか……」
東宮も、つられるように笑った。
「では、ご出席の旨、しかと承りました。準備を進めておきます」
「頼んだよ」
将之は一礼すると、部屋を出た。
廊下を歩きながら、将之はふと足を止めた。
「最近、東宮様は少し明るくなられたような……。以前より、ずいぶんお話しになるようになったな」
入道様がお亡くなりになってから、何かが変わったのだろうか。以前なら、宴の話を持ち出しても、曖昧にうなずくだけだった。人と会うことも、宮中へ出ることも、どこか避けておられたのに。
「まっ、これも私の人徳かな?」
将之はひとり満足げに笑い、軽い足取りで詰所へと戻っていった。
将之が去った後、東宮はしばらく庭を眺めていた。
やがて、静かに視線を落とすと、傍らに置かれた文へと手を伸ばした。
それは、差出人の名もない、匿名の文だった。
文には、東宮がなぜ一宮でありながら帝になれなかったのか、なぜ弟である今の帝に仕え、東宮として過ごさねばならなかったのかが、綴られていた。
書かれていることを、すべて信じるつもりはなかった。だが、まったくの嘘とも思えない。知らず知らずのうちに、胸の奥に押し込めていた思いを、誰かに見透かされたような気がした。
このままでよいのか。
そんな思いが、心のどこかに芽生えていた。
いったい、誰が今になって、このような文をよこしたのだろう。
東宮はもう一度、文面に目を落とした。しばらくして、文を畳むと、そばの蝋燭にかざした。
紙の端に火が移り、文字がゆっくりと黒く焦げていく。
東宮は、文が灰になるまで、じっとその様子を見つめていた。




