第十四章 食事をしないのに太る猫
「英嗣殿は戻られたか?」
忠嗣が詰所に姿を現した。
「これは忠嗣殿。こちらからお礼に伺わねばならぬところを、わざわざお越しいただき、恐縮です。たった二日間、都を空けただけで、この騒ぎです」
英嗣は苦笑いしながら、頭をかいた。
「それはそれは……」
忠嗣は部屋を見回した。机の上には書類が山のように積まれ、あちこちに記録や文書が広げられている。
「さて、どこに座ればよいものか」
忠嗣が困ったように笑うと、英嗣は慌てて立ち上がった。
「大変申し訳ございません。ここでは落ち着いてお話もできませぬな。兄は本日、出仕しておりませんので、兄の部屋を借りることにいたしましょう」
英嗣はすぐに使いを出した。
ほどなくして使いの者が戻り、二人を案内した。
兄の部屋へ向かう道すがら、忠嗣が尋ねた。
「英嗣殿、宇治では少しはゆっくりなされましたかな?」
「はい。今朝など、つい寝過ごしてしまいました。宇治は静かで、よいところです。それに、おいしい食事もいただき、楽しいひと時を過ごせました」
「食事ね……」
忠嗣が、意味ありげに微笑んだ。
「今朝は幸さんと長尾と三人で、昔に戻ったように膳を並べ、お粥をいただきました。長尾は、幸さん幸さんと、ついて回りまるで久しぶりに実家へ帰った弟のようにはしゃいでおりまして」
英嗣は、懐かしそうに笑った。
「それに、幸さんは見違えるほど美しくなって、あの頃の幸さんからは、とても想像がつかないと、長尾も申しておりました。本当に……」
「ほう……」
忠嗣はちらりと英嗣の顔をうかがった。
「で、英嗣殿はどう思われましたかな?」
「え? 私ですか?」
「そうじゃ。幸は、まことに美しくなったであろう?」
英嗣は少し考えてから、正直に答えた。
「はい。驚きました。女子というものは、ここまで変わるものなのかと。それに……なぜか、手の届かない人になってしまったようにも思えて。少し複雑な心境でした」
「ほう。手の届かぬ人、とな……」
忠嗣は、英嗣の横顔をじっと見た。
「英嗣殿もご存じのとおり、あの頃の幸は毎日、野山を駆け回っておりました。髪はぼさぼさ、顔もろくに洗わぬものだから、いつも土やすすで汚れておってな」
忠嗣は、懐かしそうに目を細めた。
「正直なところ、この娘は、きっと嫁にも行けまいと思っておった。ならば、せめて食べるに困らぬよう、自分の力で生きていく術を身につけさせようと、陰陽師として育てたのじゃ」
「……」
「ところが、今の幸を見ておると、あれでよかったのかと思うこともある。まさか、あの娘がこれほど美しくなるとは、夢にも思わなんだ。あれだけの美貌を持っておれば、都の殿方が放っておくはずもあるまい」
その言葉に、英嗣の表情がわずかにこわばった。
「幸さんに……縁談でもあるのですか?」
忠嗣は、ふと足を止めた。
「おっと、これは余計なことを申したかな。今の話は聞かなかったことにしてくだされ」
忠嗣は、何事もなかったかのように笑った。
英嗣は、それ以上何も尋ねなかった。
宇治から都へ戻る牛車の中で、幸への思いにひとつの区切りをつけたはずだった。
それなのに。
幸に縁談があるかもしれない。その言葉を聞いただけで、胸の奥がざわめいた。
英嗣は、そっと胸元に手を当てた。
そこには、幸から渡された守り袋がある。
自分は、いったい何を望んでいるのだろう。
英嗣は、答えの出ない問いを胸に抱えたまま、静かに歩を進めた。
兄の部屋に着くと、忠嗣はさっそく、父親の左大臣に伝えた話を英嗣にも話した。
「首がもげた原因は、猫のいたずら……とは。さてさて、しかも人形についていたので白い猫の毛・・・・となると」
英嗣はやはりという顔になり。
「中宮殿で結衣姫様が猫をかっていらっしゃるのですが、どうも中宮殿を抜け出して東宮御所へ通い、東宮様の食事を召し上がっているようなのです」
「東宮様の……?」
忠嗣はがき返すと、英嗣は説明を始めた。
「東宮様は昔から、干物など海で獲れたものがお好きではなく、なかなか召し上がらないそうです。そのため、厨を取り仕切る者も苦労していたようですが、ここ最近は残さず召し上がるようになったと、……。おそらく」
「なるほど。結衣様の猫が東宮御所へ通っていたというわけですな」
「ええ。しかし、その人形を猫が東宮御所から運んできた可能性は高いものの、確証はございません。もしそうだとしてもなぜ東宮御所に、あのような藁人形があったのか……」
英嗣は考え込んだ。
「英嗣殿、これは思いのほか、奥の深い事件かもしれませんな」
「そうですね」
英嗣はうなずいた。
「ところで、結衣姫様の教育係である佐紀殿も、猫の異変に気づかれたようです。今朝、舎人に、猫が決まった時刻に出かけていないか尋ねたとの報告がありました」
「それで?」
「私の方で、女房たちとの会話を控えるよう申しつけておりましたので、それ以上のことは聞けておりません」
「そうか。では、今から中宮殿へ伺うとしよう。まだ佐紀殿がいらっしゃればよいが……」
英嗣はそう言うと、すぐさま中宮殿へ使いを出した。
幸い、帰り支度をしていた佐紀を引き留めることができた。中宮も事件の早い解決を望んでいるため、急ぎ参上するようにとの知らせだった。
今回は独身の英嗣が同行するため、対面は御簾越しとなった。佐紀は結衣姫の教育係として、御簾の内側に控えていた。
「本日は、急なお願いにもかかわらず、お時間を頂戴いたしまして、恐れ入ります」
英嗣が丁寧に挨拶すると、中宮は穏やかに答えた。
「よいのです。先日は英嗣殿の素早いご対応のおかげで、あの日以来、何事も起こらずに済んでおります。ところで、本日は忠継殿とご一緒に、いかがなさいました?」
「はい。その前に、佐紀殿に少しお尋ねしたいことがございます。よろしいでしょうか」
突然名を呼ばれ、佐紀は少し驚いた。
「はい。何なりと」
英嗣は佐紀に向き直った。
「佐紀殿は今朝、舎人に結衣姫様の猫についてお尋ねになった。間違いございませんか?」
「はい。結衣姫様が、猫が近頃まったく食事をしないと心配なさっておいででしたので……」
「食事をしない……?」
その言葉に、英嗣と忠継は顔を見合わせた。
そして、縁側に目を向ける。
そこには、丸々と太った白が、気持ちよさそうにすやすやと眠っていた。
中宮も、思わず笑みをこぼした。
「そういえば、あの猫、以前よりも大きくなったように見えますね」
「私も、あまりに立派な体つきでしたので、食事をしていないとは信じがたく、抱き上げてみたのです。すると、猫が鳴いたときに、魚のような匂いがいたしました」
佐紀は、そのときのことを思い出すように続けた。
「そこで姫様に朝の食事を尋ねましたところ、ご飯にお白湯をかけて召し上がっていると聞きました。あの魚の匂いは、どこかで餌をもらっているか、食べ物のある場所を見つけたからではないかと思ったのです」
「それで、舎人に尋ねたのですな」
忠継が言うと、佐紀はうなずいた。
「はい。ところが、猫は外へ出ないとおっしゃるので……。では、あの匂いは一体どこから来たのかと、不思議に思っておりました」
英嗣と忠継は、再び顔を見合わせた。
二人は、佐紀の話から、白が東宮御所へ通っていたことを確信したのだった。
英嗣が中宮に向かって口を開いた。
「中宮様。まだ詳しいことは申し上げられませんが、食事をしないにもかかわらず、すやすやと眠り、あれほど太っている猫の謎は解けました」
「まあ、それはよかったこと」
忠継も、にこやかに言葉を添えた。
「中宮様、どうかご心配なさらぬよう、結衣姫様にもお伝えください。おそらく白は、どこかでおいしい餌にありついていたのでしょう。ただ、誰が餌を与えていたのかは、今は内緒にしておきましょう。時が来れば、またお話しいたします」
そして、少しばかりいたずらっぽく笑った。
「もちろん、餌を与えていた者には、きつく申しつけておきます。これからは、白もこちらの食事をいただくしかありますまい」
「そうですわね。何も食べていないのに、あれほど太る猫など、そうそうおりませんもの」
伊予の局も笑った。
「では、結衣には明日から、朝のお世話をきちんとするように伝えましょう」
中宮も、すっかり安心した様子だった。
「それでは、私どもはこれにて」
英嗣と忠継は一礼し、中宮殿を後にした。
しかし、佐紀の胸には、いささか腑に落ちないものが残っていた。
――なぜ、舎人に尋ねたあの些細なことが、右近中将にまで伝わっているのだろう。
猫が食事をしないことを気にかけ、ただ尋ねただけのこと。それが、わざわざ英嗣が訪ねてくるほどの話だったのだろうか。
佐紀は、二人の様子を思い返した。
――それに、あの二人は、猫のこと以外には何も尋ねなかった。いったい、何を確かめにいらしたのかしら。
考えれば考えるほど、何かが引っかかる。
佐紀が考え込んでいる様子に気づいた中宮が、気遣うように声をかけた。
「佐紀殿。結衣のことで、気分を害されたのではありませんか? 結衣のために舎人に尋ねてくださっただけなのに、右近中将まで巻き込む大事になってしまいました。何かと気を遣わせてしまったのではないかと、心配しております」
佐紀は、はっとして顔を上げた。
「いいえ、中宮様。こちらこそ、つい考え事をしてしまい、申し訳ございません。私は何も気にしておりませんわ。それよりも、食事をしていないはずの猫が、日ごとに太っていくことの方が、よほど恐ろしゅうございました」
その言葉に、中宮も伊予の局も、声を立てて笑った。
「本当に、そうですわね」
その笑い声に驚いたのか、縁側で眠っていた白が、むくりと頭を起こした。
「みゃ~」
ひと声鳴くと、大きな口を開けて、のんびりとあくびをする。
まるで、何も知らぬとでも言いたげな顔だった。
張り詰めていた場の空気が、ふっとほどけた。
佐紀も、つられて微笑んだ。
――まったく、白にはかなわない。
そのとき、中宮がふと首をかしげた。
「ところで……英嗣殿と忠継殿は、いったい何をしにいらしたのでしょうね」
その言葉に、伊予の局も顔を見合わせた。
猫のことは解決した。けれど、二人はそもそも何を確かめに来たのだろう。
中宮の胸にも、小さな疑問が残った。




