第十三章 猫が事件を動かす
忠嗣が陰陽寮に戻ると、息子の保忠を呼んだ。
「これから参内する。支度をしなさい」
「父上おひとりでございますか? もうお戻りになったのですか?」
「そうじゃ。それがどうした」
「幸はご一緒ではなかったのですか?」
「ああ。幸は宇治の庵に残してきた」
「ひとりでございますか? それはあまりにご無体な。幸は陰陽師とはいえ、女子でございますぞ」
「だからじゃ」
忠嗣、少し考えるように間を置いた。
「幸を預かって、もう十年になる。吉野で、いつも真っ黒になって駆け回っていた童が、今では盛りの百合のような娘に成長した。もはや、あの頃とは違う」
「それは、私もよく存じておりますが……」
「ここは男ばかりの陰陽寮じゃ。中には、よからぬことを考える者もおろう。それに、宮中にも、どうやら幸の美しさに心を奪われた御仁がいるようでな。何かあってからでは遅い」
忠嗣は、ふっと息をついた。
「幸は男に囲まれて育ったせいか、どうも男女のことには疎いところがある。本人は何も気にしておらぬようだが、周りがそうとは限らぬ。そこで、いったん宇治の庵に住まわせ、都の男どもから遠ざけることにしたのじゃ」
「なるほど……」
保忠は、ようやく納得したようにうなずいた。
「実は最近、父上が幸を贔屓しすぎていると申す陰陽師もおりまして。幸を『女のくせに』などと、あからさまにいじめる者まで出てきております。私も父上に相談しようと思っていたところでした。都から少し距離を置くのも、よいかもしれませぬな」
「そうか。やはり、そんな者もおるのか」
忠嗣は眉をひそめたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「幸は、どこかつかみどころのないところがある。若輩の、世間知らずなお坊ちゃまたちは、あの娘に振り回されてしまうこともあろうて。まあ、少し距離を置いてみるのも、悪くはあるまい」
「若者……ですか?」
保忠が怪訝そうに聞き返す。
「いや、何でもない」
忠嗣は、意味ありげに口元を緩めた。
「そのあたりは、当人たちが決めることじゃ。ははは」
保忠は、父の笑い声を聞きながら、何やら腑に落ちないものを感じていた。
父は、幸を取り巻く状況だけでなく、若者たちの心の内まで見通しているのではないか。
保忠が懸念していたことは、どうやら父も承知していたらしい。
幸を宇治に残したのは、彼女を守るため。そして、将来ある若者たちに、少しばかり頭を冷やす時間を与えるためでもあったのだろう。
忠嗣はそれ以上何も語らず、参内の支度を促した。
一方騒動のあった中宮では英嗣の計らいで、大騒動にはならなく落ち着きをとりもどしつつあった。
「先生」
「どうなさいました、結衣様」
「最近、白がご飯を食べなくなってしまい、気になるのです」
「白が?」
佐紀は結衣姫の隣に目を向けた。そこには、のんびりと舌で毛づくろいをしている、丸々と太った艶やかな猫がいた。
「……」
佐紀はしばし、言葉を失った。
「先生、白は朝もお椀いっぱいにご飯を食べるのですが、最近はまったく口にしないのです」
結衣姫は心配そうに白を見つめている。
「結衣様、猫も時にはお腹が重くなり、食べるのを控えることがございます。しばらく様子を見てみましょう」
佐紀は白を抱き上げ、優しく背を撫でた。
「結衣様、こちらでは猫に干物のようなものを与えることはございますか?」
「いいえ。ご飯にお白湯をかけるだけです」
「……そうですか」
佐紀は何か思案するように白を見つめた。
「結衣様、のちほど薬師にも相談してみましょう。それでは、論語の続きをお話しいたしましょうか」
「はい、先生!」
結衣姫は嬉しそうに答えた。
佐紀のことを「先生」と呼ぶようになったのには、少しばかり訳があった。
先日、白を探して宮中を騒がせたあの日が、佐紀にとって初めての出仕であった。しかし、あの騒動のおかげで、結衣姫との挨拶もそこそこに終わってしまった。
翌日、改めて佐紀が訪ねると、結衣姫は少し考え込んだ顔で尋ねた。
「佐紀様、私はあなた様を、何とお呼びすればよいのでしょう?」
「結衣様は、どうお思いですか?」
佐紀が優しく問い返すと、結衣姫は少し困ったように答えた。
「皆は、式部と呼びなさいと申します。でも、なぜか呼びづらいのです。そう思ってはいけないのでしょうか?」
「式部……」
佐紀は微笑んだ。
「そうですね。これまで宮中では、そのように呼ばれていたのでしょう。私たちのような身分の者は、家柄や父親の官職によって呼び名が変わることがございます。私の父は式部卿ですから、皆は私を式部と呼ぶのです」
「でも、佐紀様には佐紀というお名前があるのに?」
「そうですね。不思議なものです。宮中では、名前よりも官職や家柄で呼ばれることが多いのですよ」
「官位は、そんなに大事なのですか?」
「そうですね。官位は大切なものです。結衣様が毎日、何不自由なくお暮らしになれるのも、国が整えられているからです。お日様が東から昇り、西へ沈むように、この世には物事を成り立たせる理と、守るべき道筋がございます。それを整えるのが、官位を持つ方々のお役目なのです」
佐紀は、結衣姫の顔を見つめた。
「ですから、書物を読み、見聞を広め、知識と分別を身につけることが大切なのです。そうした方々に、国を治める役目が与えられるのですよ」
結衣姫は、しばらく考えてから尋ねた。
「では、官位で一番偉いのは、太政大臣ですか?」
「官位の上では、そうした高い位に就かれる方もいらっしゃいますね」
「では、もっと偉いのは?」
「帝でございます」
「お兄様?」
「そうですよ。ですから、帝は幼い頃から書物を読み、学び、国を守るためにはどうすればよいか、考えておられるのです」
結衣姫は、はっとしたように顔を上げた。
「では、私はお兄様の妹ですから、お兄様をお助けしなければなりません。どうすればよいのでしょう?」
佐紀は、思わず目を細めた。
「そうですね。まずは、たくさん書物を読みましょう。書物は、私たちの知らないことを教えてくれます。まるで、先生のような存在なのですよ」
「先生?」
「はい。結衣様が大きくなられて、何かを考えたり、迷われたりしたとき、書物から得た知識が、きっとお力になるでしょう」
結衣姫は、しばらく佐紀を見つめていたが、やがてぱっと顔を輝かせた。
「はい! それでは、佐紀様は私の先生ですね!」
「まあ、結衣様……」
佐紀は、思わず笑みをこぼした。
その日から、結衣姫は佐紀のことを「先生」と呼ぶようになった。
「師のたまわく……」
結衣姫が論語を声に出して読んでいた。
佐紀は、ふと何かを思いついたように席を立つと、部屋の外に控えていた近衛の舎人に声をかけた。
「少しお尋ねしたいことがあるのですが、結衣姫様の猫が、毎朝どこかへ出かけていくようなことはございませんか?」
「いいえ、そのようなことはございません」
「そうですか……」
佐紀は首をかしげ、何か考え込むような顔をした。
やがて何事もなかったかのように結衣姫のもとへ戻り、再び腰を下ろした。
「では、結衣様。続きをお願いいたします」
「はい、先生」
結衣姫は、再び書物に目を落とした。
* * *
英嗣が御所の詰所に戻った頃には、すでに正午を過ぎていた。
詰所に入ると、英嗣は右近衛将監を呼び、ここ二日間の警備状況について報告を求めた。
「この二日間のこと、すべて報告しなさい」
「はっ」
右近衛将監は記録台帳を開き、順を追って報告を始めた。
「まず、人の出入りについてですが、目立った動きはございませんでした。女御方も、今回の騒ぎを恐れてか、あまり御座所からお出ましにならなかったようです」
「あまり人の動きはなかったということだな」
「はい。ところが、少々気になる報告がございます」
「何だ?」
「結衣姫様の御座所を警護する舎人からの報告でございます。毎朝早く、結衣姫様の猫が、決まって外へ出ていくというのです」
「猫が?」
英嗣は、思わず聞き返した。
「猫だって、用を足すくらいするだろう。何をそんなに気にしているのだ」
「それが、各所の舎人からの目撃情報をつなぎ合わせますと、どうやら東宮御所へ入り込んでいるようなのです」
「東宮御所に?」
「はい。念のため、東宮御所を警護する舎人にも確認いたしましたところ、やはり毎朝、猫が姿を見せるとのことでございます」
「それで?」
「東宮様がお召し上がりにならない干物などを、猫がいただいているそうで……」
「は?」
英嗣は、呆れたように眉を上げた。
「東宮様のお食事を、猫が食べているというのか?」
「はい。それはもう、おいしそうに、ぱくぱくと……」
英嗣は、思わず額に手を当てた。
「まったく……」
呆れるほかなかった。
「それで、もう一つございます」
将監は、少し声を落とした。
「先ほど、結衣姫様の御座所を警護する舎人から、気になる話がございました。結衣姫様の教育係である、式部卿のご息女が、猫の行き先について尋ねてこられたそうです」
「佐紀殿が?」
英嗣は、わずかに表情を変えた。
「はい。猫がどこかへ出かけている様子はないか、と尋ねられたとのこと。もちろん、舎人たちには、今回の件について女御方をはじめ、誰にも余計なことを話さぬよう申しつけております。ですから、そのようなことはございません、と答えたそうです」
「そうか……」
英嗣は腕を組み、しばらく考え込んだ。
結衣姫の教育係が、なぜ猫の行き先を気にしているのか。
偶然なのか、それとも何かに気づいたのか。
「では、後ほど東宮御所を警護する舎人を呼んで、もう少し詳しく話を聞こう」
「承知いたしました」
将監が一礼して下がると、英嗣はひとり呟いた。
「東宮御所へ出入りする猫か……」
何かが引っかかる。
しかし、それが何なのか、まだ英嗣にはわからなかった。
* * *
その頃、忠嗣は例のわら人形を手に、御所にある左大臣の部屋を訪れていた。
保忠には部屋の外に控えさせ、誰かが聞き耳を立てていないか、周囲を見張らせている。
「これは忠嗣殿。この度は、まことに申し訳ないことをした」
左大臣は、忠嗣なり、深々と頭を下げた。
「直兼殿との仲じゃ。気にすることはない」
「それで、例のものの正体はわかったのか?」
「いや、正体まではわからぬ。首もなく、わらもすっかり傷んでおる。呪詛に使う人形にしては、どうにも妙じゃ」
忠嗣が持ってきた包みを開き、わら人形を取り出した。
「しかし、これを見てみよ」
「何だ?」
「ここじゃ」
忠嗣は、人形の一部を指さした。
「これは……」
左大臣は、目を凝らした。
「白い毛がついておる」
「そうじゃ。猫の毛じゃ」
「猫の毛?」
「おそらく、結衣姫様の猫が、これにじゃれついたのであろう。人形はこのとおり、すっかり傷んでおる」
「ということは……猫が犯人か?」
左大臣が思わず尋ねると、忠嗣が首を横に振った。
「いや、むしろ、お手柄かもしれぬ」
「どういうことじゃ?」
「この人形は、ただ縁の下に置かれておった。そして、その近くには、わらが散らばっていたという。もし猫がこれにじゃれつき、どこかから運んできたのだとすれば……」
「なるほど。人形は、もともと別の場所にあったということか」
「そう考えるのが自然じゃろう。問題は、どこから運んできたのか、ということじゃ」
左大臣は、腕を組んだ。
「確かに、それがわからぬことには、何も始まらぬな」
「そこで、後ほど中宮殿の警備をしておる右近中将に、何か情報がないか尋ねてみようと思う」
「英嗣に?」
「そうじゃ」
忠継は、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、昼前に家人から聞いたのじゃが、英嗣殿は宇治から直接、御所へ向かうと申しておったな、もうついているころじゃな」
直兼は
「私としたことが楚々を今回の件に加え、宇治では英嗣殿に世話になったというのに、まだ礼も申し上げておらなんだ。私としたことが、面目ない」
「ははは。何を言う。気にすることはないと申したであろう」
左大臣は笑いながら、忠嗣がの肩を軽く叩いた。
「英嗣殿も、たまには宇治の百合の花の香りに包まれて、ゆっくり過ごすのも、また一興であろう。ははは」
「百合?」
左大臣は、怪訝そうに首をかしげた。
忠嗣が、何食わぬ顔で立ち上がった。
「まあ、それはさておき、今から右近中将の詰所へ行ってみるとしよう」
「忠嗣殿、待たれよ。今日はぜひ、我が屋敷で一献傾けていかれよ」
「それはありがたい。では、用を済ませてから、改めて伺うとしよう」
忠嗣は、そう言い残して部屋を後にした。
左大臣は、手元に残されたわら人形を見つめた。
猫が運んできたという忠嗣の推理は、確かに筋が通っている。
しかし、いったいどこから運ばれてきたのか。
そして、誰が何のために、あの人形を置いたのか。
宮中に潜む謎は、まだ何ひとつ解けてはいなかった。




